第360話 第十二章「本人の署名がない条項」後編

 昼過ぎ。

 七面宮の大広間は、初めて空になった。

 仮面が外され、条約台も撤去され、重力は白床へ固定されている。

 ハルは中央に立った。

「広い」

「人がいないから」とエリア。

 深青の髪をほどき、長い編みを肩へ落としている。

 候補公女の礼装ではない。

 学院制服でもない。

 旅用の簡素な服。

「舞踏会、終わった」

「事件は」

「終わった?」

「襲撃者は拘束。原本は保全。強要は取消。当夜役は失効。事件としては終わり」

「署名は」

「別の問題」

「別にできる?」

「しないと、襲撃者を捕らえたから本人同意も解決したことになる」

「なら別」

 ハルは靴を見る。

 礼装靴の中へ縫い込まれた、配達用の滑り止め。

「まだ一曲、借りてる」

「何を」

「砂漠で四歩だけ踊った。今度、全部って」

 エリアが瞬きをする。

「覚えていたの」

「道は忘れるけど、約束は」

 言い切りかける。

 この世界で、約束は軽くない。

「覚えてる」と直す。

 エリアは手を出した。

「役の手?」とハル。

「私の手」

「踊る?」

「本人の頼み」

「やる」

 音楽はない。

 ハルが数える。

 一。

 二。

 三。

 エリアが四で入る。

「違う」とハル。

「舞踏は四拍から」

「俺は跳ぶ前に三つ数える」

「では、あなたの三拍と、私の四拍をどう合わせるの」

「七」

「足し算で解決しないで」

「七夜舞踏会」

「二夜で終わった」

「じゃ二」

「減りすぎ」

 笑う。

 誰も見ていない。

 公式像もない。

 白縁もいらない。

 ハルは一、二、三で踏み出す。

 エリアは四で重なる。

 五で回る。

 六で離れる。

 七で、また手を取る。

 足を一度踏んだ。

「痛い」とエリア。

「撤退条件?」

「本人の苦情」

「謝る」

「続けて」

「本人の頼み?」

「そう」

 続ける。

 上手くない。

 完璧でもない。

 役の台詞でなく、本人の頼みを言い分けるたび、二人の歩調は少しだけ合う。

「エリア」とハル。

「何」

「ユノを選ぶかって聞いた」

「聞かれた」

「今も、答えは同じ?」

「まだ選んでいません」

 胸が少し痛む。

 だが、前より聞ける。

「俺は」

 続きが出ない。

 告白という言葉を知らないわけではない。

 知っているから、役の台詞へ逃げたくなる。

 エリアは待つ。

「俺は、役じゃなく隣にいたい」

 それだけ言った。

 エリアの手が、少し強くなる。

「それは、本人の頼み?」

「本人」

「では、今は隣にいて」

「今だけ?」

「先の私へ、今の私が勝手に署名しない」

 ラウドの言葉を借りた。

「でも」とエリア。「次も、また私に聞いて」

「分かった」

「分かった顔だけしないで」

「リゼみたい」

「良い注意でしょう」

 七拍目。

 二人は離れず、止まった。

 夕方。

 ユノの治療室は空だった。

 窓は閉じている。

 扉の封鎖は破られていない。

 アルマのケースだけがなくなっている。

「また消失?」とハル。

「方法を問う事件ではありません」とセレナ。

「まだ事件って決まってない」

「その通り」

 リゼは部屋へ入る。

 枕。

 水差し。

 使っていない鎮痛薬。

 右手用の固定帯。

 机に、紙が一枚。

 宛名はない。

 短い。

『安全確保のため、僕自身の判断で移動します。

 連れ去られていません。

 役名で探さないでください。

 僕の現在の意思を、僕より先に代筆しないで。

 ――ユノ』

 セレナが紙へ触れず確認する。

「筆跡」

「本人」とリゼ。

「強要痕」

「分からない」

「移動先」

「書いてない」

「追う?」とハル。

 リゼはすぐ答えない。

 妹として追いたい。

 本人の頼みとして、役名で探すなと書いてある。

「役名では探さない」とリゼ。

「本人としては」

「会いたい」

「俺も」

 フリードリヒが紙を読む。

 五秒。

「安全確保の方法が不明だ」

「だから追う?」とエリア。

「父親なら、そうする」

「ユノの父親ではない」

「分かっている」

「私へも同じことをする?」

 フリードリヒは答えるまで五秒以上かかった。

「しただろう」

「過去形?」

「しないと約束はできない」

「正直」

「しかし、本人の文を無効として扱う前に、現在の危険を確認する」

「誰が確認する」

「私一人では決めない」

 置き手紙は、本人の筆跡だった。

 それでも、本人の筆跡だから全て本人の自由意思だ、と即断はしない。

 強要された署名も、本人の手で書かれる。

 見張られた手紙も、本人の言葉を使う。

 セレナは、紙の圧、インクの乾き、書いた時の机の傾き、文中の呼吸間隔を調べた。

「右薬指を庇った筆圧。治療後の状態と一致。書き直し二回。焼却痕なし。紙はこの部屋。インクは本人の携帯瓶」

「強要者が隣にいた可能性」とエリア。

「否定できません」

「連れ去られていません、って本人が書いてる」とハル。

「主張として重い。決定打ではない」

「信じない?」

「信じるために確認します」

 窓は内側から閉じられている。

 扉封鎖に破壊なし。

 床には、ユノの靴跡と、治療係の靴跡。

 争った圧痕なし。

 鎮痛薬は未使用。

 アルマのケースは持ち出されている。

「準備して出た」とロロ。

「少なくとも、急に引きずられた痕はない」とセレナ。

「だから探さない?」とハル。

「即時の生命危険は確認する。居場所を公表せず、役籍、婚約候補、第一継承者という名で一斉照会しない」

「どうやって」

「本人が選んだと書く安全確保の方法だけを、独立して確かめる」

「矛盾してる」

「本人の言葉を尊重することと、紙一枚へ全責任を渡すことは違います」

 エリアは、机の端を指で測る。

「出発時刻は」

「インク乾燥から、正午前後」

「私たちが監査会にいた時間」

「はい」

「どの出口を使った」

「現時点では不明」

 ハルの右手が、零星針へ行きかける。

 失われたものを問えば、針は向きを示すかもしれない。

 だが、ユノは失われた物ではない。

 本人が移動した、と書いている。

 探す問いを立てるだけで、その人を所有物へ変える場合がある。

 ハルは羅針盤の蓋を一度弾き、手を離した。

「使わない?」とエリア。

「ユノが危ないって証拠が出たら使う。今は、いないことと、奪われたことを同じにしない」

「怖くない?」

「怖い」

 冗談が出ない。

「置いていかれるの、嫌いだ」

「知っている」

「本人の頼みでも、嫌い」

「嫌いなまま尊重できる」

「エリアも?」

「私は、説明を残さず消える大人を嫌っています。でも、説明を残した人へ、足りないから無効とは言いたくない」

 十分な説明ではない。

 行き先がない。

 方法もない。

 帰る時刻もない。

 それでも、現在の本人が書いた一文である。

 ゼロスター号の客員席には、まだユノの札が掛かっていた。

 ロロが外すかと聞き、ハルは首を振る。

「残す?」

「予約にしない」

「じゃ何」

「ここに乗った人がいた印。戻る義務じゃない」

 客員席は、帰還命令の椅子ではない。

 別の場所で続く物語を、船の側が忘れないための空席である。

 小さな変化だった。

 ユノが残した紙は、居場所を教えない。

 次の事件の答えもない。

 あるのは、本人の現在の言葉だけ。

 婚約原本にはなかったもの。

 本人の署名。

 ただし、契約へではない。

 契約から離れて動くための、短い文へ。

 七面宮の椅子には、切れた弦が結ばれている。

 仮面は残っている。

 役も残っている。

 本人だけが、そこにいなかった。