第361話 第一章「自分を誘拐した公女」前編

誘拐とは、人をその人のいるべき場所から連れ去ることである。

 この説明には、一つ大きな穴がある。

 いるべき場所を、誰が決めるのか。

 親が決める。

 国が決める。

 契約が決める。

 本人が決める。

 四つが同じ方角を指している間、穴は見えない。

 違う方角を指した瞬間、社会はしばしば人より先に場所を守ろうとする。

 鏡砂環サリフの古い法において、外交婚姻のため国家保護へ入った者は、性別を問わず「公女」と呼ばれた。

 最初の制度が、隣国へ嫁ぐ王女を守るために作られたからである。

 王子が婚姻を担っても、公女。

 老いた公爵が担っても、公女。

 本人がその呼び名を嫌っても、公女。

 法は一度覚えた名を、本人より長く覚える。

 後世の法学者は、この制度を古風と呼んだ。

 さらに後世の当事者は、古風ではなく迷惑だと呼んだ。

 十七歳の王子ユノ・ヴァレントは、その朝、自分を誘拐した公女として告発された。

「名前が二つある」

 凪野ハルは、薄い鏡紙を窓へかざした。

 朝の光が、紙の中で七方向へ割れる。

 七つの光は、同じ二行を照らしていた。

『被害公女 ユノ・ヴァレント』

『被告人  ユノ・ヴァレント』

「同姓同名?」

「同一人物です」

 セレナ・クロウは、黒い証羽を鏡紙の外縁へ近づけた。羽根は触れない。法的文書へ先に触れれば、閲覧者として登録される可能性があるためだ。

「同じ人が、自分をさらった?」

「告発上は」

「自分の身体を持って歩いたら誘拐?」

「告発上は」

「その言葉、便利だな」

「便利なので法廷では嫌われます」

「嫌われるのに使う?」

「正確だからです」

「正確って便利より面倒だな」

「今、学びましたね」

 ゼロスター号の食堂には、朝食より紙が多かった。

 薄い砂パン。

 酸味の強い葡萄。

 ロロ・ピクスが一度分解して戻した湯沸かし器。

 昨夜の監査会から持ち帰った七冊の仮面記録。

 そして、ユノが残した短い置き手紙。

『安全確保のため、僕自身の判断で移動します。

 連れ去られていません。

 役名で探さないでください。

 僕の現在の意思を、僕より先に代筆しないで。

 ――ユノ』

 置き手紙の横へ、誘拐告発状が並んでいる。

 本人は連れ去られていないと書いた。

 国家は連れ去られたと書いた。

 どちらも署名がある。

 署名が二つあれば、真実が二倍になるわけではない。

 たいてい、争いが一つ増える。

「被害者と犯人が同じなら」とロロが言った。「被害届を取り下げりゃ終わりじゃねえの」

 額の二眼ゴーグルは、右レンズだけ度が入っている。寝不足のせいで左眼を細め、四本の補助腕のうち二本が砂パンを焼き、一本が告発状の縁を測り、残り一本がノクスの口から銀の留め具を取り返そうとしていた。

「ナァ」

「食い物じゃねえ!」

「ノゥ」

「否定の音で飲み込むな!」

 黒い夜獣は留め具を舌の下へ隠し、二本の尾を別方向へ向ける。

 リゼ・ヴァレントは、薄墨の面紗の奥から兄の告発状を見た。

「被害者としての兄さんは、取り下げられない」

「なんで」とハル。

「公女役の被害は、公女役を所有する国が申告するから」

「本人の被害なのに?」

「本人の身体を通じて国家利益が損なわれた、という書き方」

「じゃ被害者欄、国でよくない?」

「そう書くと、人を持っていると認めることになる」

「認めたくないから、人の名前を使う?」

「鏡は顔を使って、裏側を隠す」

 リゼは空の皿へも一度視線を置いた。

 空席へ挨拶する癖がある。

 ユノの席は空いている。

 背には、客員航路士の札が掛かっていた。

 音の鳴らない小さな鏡片。

 予約ではない。

 帰る義務でもない。

 ここに乗った人がいた印だと、昨夜ハルは言った。

 朝になっても、その意味は変えなかった。

「ユノがどこにいるか、まだ分からない?」とカイル・アークレイ。

 赤金の髪を片手でかき上げる。

 背中には温石。昨夜、重力の変わる天井回廊を走った傷が残っている。右脇腹の治療帯は外れたが、笑う時に一拍だけ息が浅くなる。

「分からない」とセレナ。「鏡門へ王家名義の一斉照会を掛ければ、足取りは早く拾えます」

「掛けない?」

「本人が、役名で探すなと書いている」

「でも危険かもしれない」

「だから生命危険だけを確認中です。治療薬の購入、重傷者搬送、強制通行、封鎖門の破壊。本人の所在地ではなく、危険の痕跡を照会している」

「面倒」とハル。

「面倒でなければ、尊重ではなく放置になります」

 ハルは赤いマフラーの端を握った。

 置いていかれるのは嫌いだ。

 説明が足りないまま消える人を、嫌う。

 父は必ず帰ると言って帰らなかった。

 ユノは帰るとは書かなかった。

 行き先も書かなかった。

 代わりに、今の意思を代筆するなと書いた。

 どちらがましかを決める問題ではない。

 どちらも腹が立つ。

「俺が嫌だから探す、は駄目?」

「探すこと自体は駄目ではありません」とセレナ。「方法と名目を選んでください」

「友達だから」

「友人として会いたい、と伝えることはできます。第一継承者の回収命令として追うことはできない」

「友達なら、勝手に会いに行っていい?」

「相手が会わない選択も含めて」

「友達、権限が少ない」

「権限が少ない関係を、信頼と呼ぶことがあります」

「難しい方の言葉ばっか使う」

「簡単な言葉が、人を簡単にする場合があるので」

 エリア・ルーンベルグは、告発状を机へ置いた。

 濃紺の髪は旅装へ戻り、左側の長い三つ編みだけが肩へ垂れている。舞踏会の靴は脱ぎ、履き慣れたロングブーツ。両踵へ薄い冷却布を巻いていた。

「正確に読みます」

「俺、今読んだ」

「文字を目へ入れたことを、読むとは限りません」

「朝から厳しい」

「昨日、私の足を二度踏みました」

「一度」

「一度目は舞踏。二度目は謝る時」

「謝り方が下手だった」

「現在の争点ではありません」

「なら出すなよ」

 エリアの右眉が少し上がる。

 怒っているのではない。

 少しだけ面白がっている。

 彼女は鏡紙の上部を指した。

『保護対象離脱に関する緊急告発』

「身体的拘束、暴力、脅迫、薬物、強制鏡門通行。通常の誘拐告発に必要な項目が、一つも記載されていません」

「じゃ何が書いてある」とカイル。

「『王家保護域から、許可なく所在を移した』」

「それだけ?」

「それだけ」

「自分で歩いたかどうかは」

「問題にしていない」

「本人が同意したか」

「問題にしていない」

「危険な場所へ行ったか」

「問題にしていない」

「何を問題にしてる」

「保護域にいないこと」

 食堂の空気が止まった。

 誘拐を、本人の意思に反して連れ去ることと定義しない。

 国家が置いた場所から離れることと定義する。

 その定義なら、本人が歩いても誘拐になる。

 本人が自分を連れていったから、自己誘拐になる。

「言葉を壊してる」とハル。

「違います」とセレナ。「古い言葉を、壊れたまま使っています」

「もっと悪い」

「その評価は法廷で証拠になりません」

「でも言う」

「止めません」

 フリードリヒ・ルーンベルグは、告発状の角を完全にそろえた。

 長い返答の前の、五秒。

 一。

 二。

 三。

 四。

 五。

「法的効力はある」

 エリアの顎が上がる。

「父上は支持するの」

「支持と効力を分けなさい」

「分けた上で聞いている」

 また五秒。

「制度の目的は理解する」

「目的」

「外交婚姻の当事者は、本人だけでなく、条約、停戦、人質交換、継承へ結びつく。暗殺、強制連行、親族による連れ戻しから保護するため、本人の一時的な発言だけで警護を解除しない仕組みが作られた」

「一時的な発言?」とリゼ。

「脅迫下、薬物下、記憶攪乱下の可能性を考える」

「兄さんの置き手紙も?」

「可能性は確認すべきだ」

「確認と無効は違う」

「違う」

「でも告発状は、最初から無効扱い」

 フリードリヒは左袖の安い青ボタンへ視線を落とした。

 亡妻マリエラのもの。

 触れない。

「運用は過剰だ」

「父上が言うと、過剰の重さが変わる」とエリア。

「私が同じことをしたからか」

「今もする可能性があると言った」

「ある」

「正直でいれば許される?」

「許しを求めていない。反論の材料を渡している」

「材料で娘を守る?」

「私の言葉で君の答えを決めないためだ」

 完璧ではない。

 遅い。

 愛情を契約へ変える癖は、一晩で消えない。

 それでも、彼は自分の保護が正しいと断言しなかった。

 エリアはそれを勝利にしない。

 父の一歩を、娘が褒めて完成させる義務はない。

「告発対象、他にもある」とロロ。

 補助腕が鏡紙の下半分を持ち上げる。

『離脱幇助の疑い』

 凪野ハル。

 エリア・ルーンベルグ。

 カイル・アークレイ。

 ロロ・ピクス。

 セレナ・クロウ。

 リゼ・ヴァレント。

 トーヴ・セル。

 ゼロスター号。

「船も被告?」とハル。

「移動手段としての差押対象」とセレナ。

「乗ってない」

「現時点で、ユノが乗った記録はありません」

「なら何で」

「逃走に使う可能性」

「可能性で船を捕まえるな!」とロロ。

 四本の補助腕が全部立つ。

「船は逃げるために動くんだぞ! 動けねえ船は船じゃなくて高い床だ!」

「修理費は」とカイル。

「差押期間一日につき停泊料、機関維持、信用損失、予定航路取消、客員席の精神的――」

「最後は請求できる?」

「今から項目を作る!」

「国家へ?」

「国家が払わなきゃ王子個人!」

「財布を持っていない」

「だから王族は信用できねえ!」

「国家資産だからな」

「自分で言うな!」

 カイルの笑いは、いつもより一拍短かった。

 国家資産。

 告発状の中で、ユノへ付けられた言葉。

 王子なら冗談にできる言葉ではない。

 カイルは自分の右手首を見た。

 輪状の星痕。

「俺も、王国法では継承資産へ登録されている」

「身体が?」とハル。

「王位、王盾炎、条約署名権、継承順位。書類上は役割だ」

「書類上」

「現場では、役割を守るため身体を囲う」

「囲われたことある?」

「毎日」

「逃げた?」

「毎月」

「捕まった?」

「毎回」

「学習しろ」とセレナ。

「学習して捕まり方を変えている」

「罪状を増やす学習は学習に含めません」

 セレナが告発状へ六角単眼鏡を向ける。

 左眼の薄い瘢痕が、朝光で浮く。

「発信元、鏡王国王家法務院。告発印、真正。緊急審理請求、真正。適用法は七都共同保護法」

「七都」とエリア。

「鏡王国内の七都市が、それぞれ異なる保護法を持つ。共同事件は、法廷そのものが七都市を巡り、各管轄で審理する」

「法廷が来る?」

「来ます」

「いつ」

 船体が鳴った。

 低い。

 金属ではない。

 鏡が、遠くで鏡を噛む音。

 食堂の窓が白く曇る。

 窓の外は、朝の砂海だった。

 その景色へ、一本の黒い線が引かれる。

 線は空中で曲がり、四角になる。

 四角の中に、別の空が現れる。

 七本の鏡軌道。

 光を車輪として走る、細長い法廷列車。

 先頭車には天秤。

 二両目には閉じた目。

 三両目には開いた手。

 残る四両は、まだ鏡の向こうにいる。

「早い」とハル。

「緊急審理です」とセレナ。

「こっちの朝飯は緊急じゃない?」

「パンは逃げません」

 ノクスが砂パンをくわえる。

「逃げた」

「証拠保全対象ではありません」

「俺の朝飯!」