第381話 第十一章「公女は本人である」前編
判断能力という言葉は、危険な場所で使われる。
火事の中で避難を拒む者。
高熱で自分の名を言えない者。
薬物で現実と幻を区別できない者。
その時、社会は本人に代わって決める。
代わりに決めなければ死ぬ場合がある。
問題は、緊急時に借りたその権限を、危機が去った後も返さないことである。
さらに問題なのは、「あなたの答えが私と違う」という理由を、「あなたには答える能力がない」という診断へ変えることである。
賢い答えを選ぶ能力。
正しい答えを選ぶ能力。
国家に都合のよい答えを選ぶ能力。
三つは似て見える。
法は、似ているものを分けるためにある。
分ける法が、時に似ているものを同じ箱へ押し込む。
最終弁論の前に、王家代訴官は一つの異議を出した。
「証拠整理役の忌避を申し立てる」
七都市の鏡が、同時にセレナを映す。
「理由を」と進行法官。
「星律官クロウは被告と同じ船に乗り、同じ事件で危険を共にし、被告の妹とも私的交流がある。中立ではない」
傍聴席の何人かがうなずく。
中立という言葉は、関係を持たないことと混同されやすい。
だが、この裁判で関係を持たない者を探せば、法律を読んだことも、保護制度に助けられたことも、王家へ税を払ったこともない者を連れてこなければならない。そんな者がいたとして、事情を知らないことが公平さになるわけでもなかった。
「私には利害があります」とセレナ。
否定しない。
「被告が不当に拘束されれば、同じ船の航行へ損害が出る。被告が責任を免れれば、私が記録した被害者の権利が損なわれる。私的な好悪もあります」
「認めるのか」
「認めない利害は監査できません」
セレナは机上の証拠箱を、王家側と被告側の中間ではなく、両側から同じ距離へ置き直した。
中間は、二つの力が同じ強さである時だけ公平になる。
王家は記録庫と代訴官と保護官を持つ。
被告は、自分の記憶に欠けを持つ。
その二者の真ん中へ立つことは、しばしば強い側へ半歩寄ることだった。
「私は弁護しません。王家の主張も代筆しません。証拠の入手経路、欠落、閲覧者、反証可能性を同じ書式で示します」
トーヴが分厚い眼鏡を三枚重ね、証拠台帳へ指を置いた。
文書へ閲覧者の残光を刻む術〈リーダー・グロウ〉が淡く灯る。
紫は王家記録官。
青は被告側閲覧者。
白は法廷書記。
灰色は、内容を見ず封印手続きだけを確認した者。
「私の私的注釈は、共有版へ一行も入れていません」とセレナ。「削除した箇所には、削除理由と削除者を残した。王家側は原本との比較ができ、被告側は同じ時刻に同じ版を閲覧できる」
「あなたが証拠を選んだ」
「選択記録も公開しています。外した証拠の題名と理由まで」
「それでも、判断はあなたを通る」
「だから最終判断には加わりません」
進行法官が問う。
「忌避を受け入れる?」
「証拠整理から外れれば、引き継ぎに三日。移動法廷の保護期限が先に切れ、ユノは自動的に保護宮殿へ戻される。その結果も含め、法廷が判断してください」
時間もまた、片方だけへ有利な証拠になる。
王家代訴官は黙った。
セレナは外套の内側から、小さな蜂蜜糖を出して口へ入れる。
「今それ?」とハル。
「低血糖です」
「最終弁論の緊張を甘味でごまかした?」
「身体条件を申告して補給した」
「言い方が強い」
「甘味は甘いです」
カイルが咳払いで笑いを隠す。
セレナは笑わない。
だが糖が溶ける三十秒だけ待ってから、次の頁を開いた。
「忌避に対する私の意見は以上です。私が信用できるから残すのではなく、私の作業が追試できるから残してください」
七都市の法官は短く協議した。
『忌避――棄却。ただし最終評決から証拠整理役を除く』
セレナは一礼する。
自分を正しい人として残さない。
訂正できる手続きとして残る。
セレナは、自分の証羽を伏せた。
「なぜ」と進行法官。
「最終整理では、私が記録した映像を決定打にしません」
「証拠整理役が、自身の証拠を外す?」
「証羽は、見た場面を正確に再生します。しかし文脈、見えなかった範囲、被告が別の場面で選んだことを一枚へ入れられない」
「補助証拠としては」
「用います。本人能力の証明には用いません」
左眼の六角瘢痕が、法廷光で浮く。
セレナは、正確な記録が人を傷つけることを恐れている。
恐怖を理由に証拠を捨てるのではない。
証拠の限界を、証拠と同じ大きさで表示する。
「王家側の主張を整理します」と彼女。
一枚目。
『ユノは、暗殺危険と国家的不利益を負う立場である』
二枚目。
『今回の移動で、他者へ説明不足と損害を生じさせた』
三枚目。
『記憶欠損、耳鳴り、疲労がある』
四枚目。
『以上から、保護解除判断能力を欠く』
「一から三は、証拠がある」とセレナ。「四は結論です」
「合理的な推論だ」と王家代訴官。
「合理的かを検証する」
「あなたは被告側ではない」
「王家側の論理へ穴があれば示す。被告側の論理にも同じことをします」
セレナは机へ四本の線を引いた。
「判断能力を、四項目に分けます」
一、関係する事実を理解できるか。
二、選択肢と不利益を比較できるか。
三、自分の選択を伝えられるか。
四、状況が変わった時に選び直せるか。
「賢明な結果を選ぶことは含めない?」と進行法官。
「含めれば、法官の価値観と違う決定は全て能力不足になります」
「安定性」
「同じ答えを永遠に保つことではない。状況が変わっても、理由を含めて更新できること」
「感情的な選択は」
「感情があるだけでは無効にしない。感情しか認識できず、事実を理解できない具体的証拠が必要」
「誤りは」
「誤る能力も、判断能力の中にあります」
傍聴席がざわめく。
「危険では」と代訴官。
「危険です。だから役割の権限、情報、手順を制限する。本人の身体と居場所を無期限に所有する理由にはしない」
第一項。
ユノは事実を理解していたか。
暗殺危険。
婚姻条約の停戦効果。
第一継承者が不在となる政治混乱。
保護宮殿の医療利益。
解除後に失う可能性のある資源。
協力者へ生じる法的負担。
王家代訴官は、一つずつ問う。
「暗殺未遂の回数」
「公的確認三件。未確定二件」
「保護宮殿が防いだもの」
「毒物一件、鏡門爆破一件、親族による移送一件」
「婚姻条約が失効した場合の影響」
「即時戦争とは限らない。関税協定、交換留学、鏡門共同保守が一時停止する可能性。代替協定は未成立」
「継承順位」
「私が一時停止すればリゼへ自動移行しない。王家評議会の暫定合議へ移る」
リゼが冷たい声を出す。
「私を勝手に継承させない項目、確認」
「確認済み」とセレナ。
「そこだけは兄さん、先に整えてよかった」
「珍しい評価だね」とユノ。
「今の一項だけ」
「増やして」
「実績で」
ユノは危険を知らなかったのではない。
知って、離れた。
危険を知って離れる選択は、無謀かもしれない。
無知とは違う。
その時、第六都市の進行鏡が赤く点滅した。
「緊急申立て」と書記。
王家側の罠ではない。
被告側の演出でもない。
第六都市北区の共同鏡橋。その保守契約が、日没で失効するという通知だった。
橋は王家直轄の鏡門を使う。
保守責任者の一人として、第一継承者の役印が登録されていた。
ユノが王家名義の役印を停止したため、契約機械は「承認者不在」と判断した。
通勤者二百四十三人。
薬輸送が三便。
橋を閉じれば、病院へ最短で二時間の迂回。
「被告の選択が、現実の不利益を生じさせた」と代訴官。「今ここで示された」
ユノは通知を読む。
すぐには答えない。
「橋そのものの安全性は」
「現在正常」と都市技師の鏡像。「ただし保守班へ材料支出権限がない」
「代替承認者」
「王家評議会。最短で四日」
「市議会」
「法文上、王家門の内部部品へ触れられません」
「私が継承役を再開すれば」
「即時に全契約が戻る」と代訴官。
婚姻候補も。
常時保護も。
居住義務も。
一つの必要を、一束の権限へ結び直す提案だった。
ユノは右の薬指を左手で押さえた。
考える時の古傷。
「トーヴ。契約版を」
「脚注四十二。保守承認は『第一継承者または、その者が明示した期間限定代行者』」
「期間限定代行者を新しく指定できる?」
「役印停止中でも、停止前に成立した公共設備の安全維持に限り可能、と解釈できる。反対解釈もある」
「ロロ。橋は何日持つ」
「壊れない。けど薬輸送の遅れは今日から出る。材料代は誰持ち」
「市の予備費」
「三日で足りる。四日目は俺なら請求書ごと橋を王家へ投げる」
「投げないで」とセレナ。
「比喩!」
ユノは進行法官を見る。
「選択を更新します」
傍聴席が息を止める。
「王家名義での包括的な権限行使は再開しない。ただし共同鏡橋の安全保守だけ、七十二時間の代行権を都市技師長と市民監査官の共同署名へ移す。支出上限、作業範囲、終了時刻を明記する。婚姻、継承順位、居住、常時保護には波及させない」
「最初の意思と違う」と代訴官。
「状況が増えたので、選択を変えた」
「国家利益を認める?」
「認める。だから分ける」
「判決前に権限を使うことは、自分を継承者と認める行為では」
「橋を渡る人へ、私の身分論争を背負わせない行為です。役割の一部を果たすことと、身体を差し出すことを同じにしない」
「もし代行指定が無効なら」
「橋を閉じる。危険な部品交換はさせない。迂回輸送の費用を、私の別件責任の仮払いから出す」
「自分に不利です」とセレナ。
「不利であることは、間違いの証明ではない」
進行法官は、七都市の設備法官へ短い照会を回した。
『七十二時間・限定承認――仮受理』
赤い表示が橙へ変わる。
完全な解決ではない。
橋は三日後、また決め直さなければならない。
だが、選び直す能力とは、最初の言葉を死守することではなかった。
新しい事実が来た時。
自分の面子ではなく、影響を受ける人を増やして、答えの範囲を変えられることだった。
第二項。
選択肢を比較したか。
セレナは七都市の通過記録を出す。
「第一都市。王家保護を停止し、匿名通行。理由」
「王家名義なしでも通れることを確認するため」
「第二都市。身分を申告」
「匿名だけでは、身分を隠した結果だと反論されるから」
「第三都市。治療係を同行」
「健康上の支援を受けても、政治保護を再開しない選択ができるか確認」
「第四都市。母の証言を一部非公開」
「勝つ利益と、見ない権利を比較した」
「第五都市。一時間待って再選択」
「疲労時の一時判断ではないと、自分で確かめた」
「第六都市。一度通行を中止」
「門の反響で耳鳴りが悪化した。身体危険を理由に撤退した」
「保護拒否を貫くため無理をしなかった?」
「しなかった」
「第七都市。証人を集めた」
「全員へ同じ答えを求めなかった」
「最後に保護宮殿へ戻った」
「宮殿の利益と退出不能を、両方現場で示すため」
七回、同じ言葉を繰り返したのではない。
匿名と実名。
単独と支援。
進行と撤退。
公開と非公開。
外部と宮殿内部。
異なる状況で、本人は同じ中心を更新した。
『保護を一時停止し、個人として選ぶ』
「継続した意思」と進行法官。
「はい」とセレナ。「ただし、これだけで全ての役割放棄を意味しない」
エリアが証言席へ立つ。
安全規則改訂後、初めて正式に入った席。
「私は、ユノが王家を捨てたいと推測しました」
王家代訴官が見る。
「被告に有利な証言では」
「不利です。私は間違えた」
「何を」
「似た保護を受けた自分の答えを、彼へ重ねた」
エリアは顎を上げない。
「彼は宮殿の医療、匿名避難、侍従の役名勤務を残したいと言った。継承権を直ちに放棄するとも言わなかった。婚姻そのものを永遠に拒むとも言わなかった」
「では、現在の離脱意思は一時的」
「一時的である可能性はある。一時的な意思だから無効にはならない」
「明日戻るかもしれない」
「戻れる権利と、今出られる権利は両立する」
「あなたは被告へ感情的関係を」
「政略婚約候補でした」
法廷がざわめく。
「現在は」と代訴官。
「本人署名のない候補契約を拒否しました」
「個人的好意は」
エリアの右眉が上がる。
「本件の争点ではありません」
「答えない?」
「答える範囲を私が選びます」
「被告と似た主張だ」
「似ている。答えは同じとは限らない」
彼女はユノを見ない。
証言者として、本人の内心を代筆しない。
「私が事実として見たのは、ユノが自分の答えを私の答えへ合わせることを拒んだこと。私も、彼の答えを自分へ使わない」
次に、カイルが立った。
「王太子を証人へ?」と王家代訴官。
「国家資産の実物見本だそうだ」とカイル。「展示料金は高いぞ」
「誰が払う」とロロ。
「国家」
「なら証言台の摩耗費も」
「今そこへ請求を立てるな」
冗談を置いてから、カイルは右籠手を外した。
掌から前腕へ、赤い星痕。
王盾炎を使い続けた古い焼け痕。
肩から背へは、服の下にもう一つの傷がある。
「俺の王盾炎は、王国の防衛資産として登録されている。戦時には出動命令を受ける。訓練記録、負傷報告、使用可能時間を議会へ提出する」
「公的役割の拘束を認める証言だ」と代訴官。
「認める。王太子が『今日は眠い』で城門防衛を放り出せば困る」
「ではユノにも」
「待て。俺の右腕が資産台帳へ載る時、台帳に書かれるのは腕の所有権じゃない。王盾炎を使う役割と、使えない時の代替手順だ」
カイルは籠手を机へ置く。
「幽霊艦隊事件で負傷した後、軍務局は俺の睡眠、食事、入浴時刻まで管理しようとした。怪我を悪化させれば国防損失だから、と」
「合理的です」と代訴官。
「合理的だった。だから医官と相談し、戦闘復帰条件を作った。背中の傷へ勝手に触る権利までは渡さなかった。寝室の扉を外から閉じる権利も」
「王族は一般人と違う」
「違う。違うから役割の負担は大きい。身体の所有権まで国家へ渡す理由にはならない」
「国が滅びる危険でも?」
「国が一人の身体を閉じ込めなければ保てないなら、先に代替を作れ。俺が死ねば終わる王国を『強い国』とは呼ばない」
カイルの声から、冗談が消える。
「俺は、役を捨てたいとは言っていない。ユノが役を全部捨てたいとも証言しない。だが役に戻る入口だけ作り、出る出口を作らない制度は、忠誠ではなく人質だ」
「あなた自身、逃げたいと思うことは」
「ある」
即答だった。
「王子だから守られた。王子だから閉じ込められた。どちらも本当だ。だから、俺の答えをユノへ使うな。俺は残る。あいつは今、出る。その違いを認めろ」
カイルは籠手をはめ直す。
右手が少し震えた。
星痕ではない。
人前で、自分が逃げたいと思う瞬間を言葉にしたためだった。
続いてリゼが証言席へ呼ばれた。
「兄さんの離脱で、あなたへ継承負担が移る可能性がある」と代訴官。「不利益を受ける当事者として意見を」
「自動では移らない。さっき確認した」
「政治的圧力は」
「来る」
「なら、兄の決定を無効にしてほしい?」
「その質問、私を兄さんの鎖にする」
リゼの面紗が、鏡光を薄く散らす。
「兄さんが出れば私が困る。私が困るから兄さんを閉じる。では私が出たい時、次の誰かが困るから閉じる。王家は全員、順番に人質になる」
「あなたは未成年です」
「だから私の継承同意も、今ここで完成させないで」
「兄を支持するのか」
「兄さんの結論を支持する証言ではない。私を反対材料へ勝手に使うなという証言」
「では、兄が判断能力を持つと」
「法官が証拠で決めて。私は妹で、医官ではない」
「冷たい」
「家族を証拠係へする方が温かい?」
代訴官が言葉を失う。
「私は、失った記憶を戻すかまだ決めていない」とリゼ。「昔の私が戻したがったかもしれない。今の私が拒むかもしれない。変わる可能性があるから、今の答えが無効になるわけじゃない」
「後悔する」
「するかもしれない。後悔を先取りして、今の私を消さないで」
彼女はユノを見ないまま、証言席を降りる。
兄を守る言葉ではない。
自分を守る言葉が、結果として兄の出口にも空気を入れた。