第383話 第十二章「返ってくる記憶負債」前編

借金は、返せば減る。

 そう考えるのは、数字で記録できる借金である。

 記憶を代価にした契約は、返すほど人を混乱させる。

 忘れていた悲しみ。

 忘れていた幸福。

 忘れたことで築けた生活。

 覚えていない自分が選んだ友人。

 失った記憶が戻ることを、人はしばしば回復と呼ぶ。

 回復という言葉には、戻る前の方が本物だったという向きがある。

 鏡砂環では、その向きが長く制度になった。

 忘れた者は欠けた者。

 取り戻す者は元へ戻る者。

 だが、人間は器ではない。

 欠けた部分へ昔の破片を戻しても、同じ形になるとは限らない。

 まして、本人がその破片を望んでいないなら。

「見ない人は、白札!」

 リゼの声が、法廷列車の中央車へ響いた。

「今すぐ受け取る人は紫札! 医師と一緒に確認する人は緑札! 決めない人は、何も取らなくていい!」

 床へ四種類ではなく、三種類の札が置かれている。

 決めない札はない。

 札を取らないこと自体を、第四の選択として残したからである。

「色を増やす?」とロロ。

「増やさない。眩しい」

「文字が読めない人」

「白は裏返し。紫は角が丸い。緑は穴が二つ」

「選ばない人は」

「手を出さない」

「分かりやすい」

「簡単にしすぎると、手を出せない人が無視される」

「じゃ」

「全員へ一回だけ聞く。返事がないことを同意にしない。二回目は本人から呼ばれた時」

「規則屋みたい」

「侮辱?」

「褒めてる」

「なら、まだ下手」

 裁判の判決が出てから、四十七分。

 七都市の鏡門網で、契約に関連した記憶断片の逆流が始まった。

 全ての過去が戻るわけではない。

 真実が一枚の映画として再生されるわけでもない。

 匂いだけ。

 指先の温度だけ。

 名前の一音だけ。

 言い終わらなかった台詞だけ。

 戻る順番も、失った順番と同じではない。

 ある老女は、四十年前の結婚式で食べた酸っぱい菓子の味だけを思い出し、夫の顔を思い出せなかった。

 ある若い兵士は、保護契約へ預けた戦場の恐怖が戻り、床へ伏せた。

 ある子供は、母に叱られた声を思い出して笑い、その直後、なぜ母がいないのかをまだ知らなかった。

「一つずつ!」とサリフの救護官。

「戻る方は一つずつじゃない!」とロロ。

 四本の補助腕が、鏡門接続器へ減衰板を差す。

「止められる?」とハル。

「全部止めたら、返りかけた断片が途中で引っ掛かる! 流量だけ落とす!」

「修理代」

「後で! 今聞くな!」

「いつも聞くから」

「今日は俺が言わない日!」

「危険」

 ロロの補助腕が一本、請求書を自動で書き始めた。

「身体は正直」とカイル。

「こいつは自主的!」

「あなたの身体です」とセレナ。

「今日それ多い!」

 セレナは証羽を出していない。

 記憶断片が戻る場面を、証拠として保存しない。

「記録しなくていい?」とハル。

「本人が後で必要なら、本人の言葉で残します」

「今の混乱、原因調査に必要」

「機関時刻、鏡門負荷、契約番号だけ記録する。顔と内容は残さない」

「見たこと、忘れられる?」

「忘れません」

「じゃセレナの中には残る」

「はい」

「重い」

「事実です」

 セレナは単眼鏡を外した。

 左側の見えにくさを、隠さない。

「だから、今日は一人で見ない」

 ハルへ言う。

「見た範囲が違う人と、後で確認します」

「俺?」

「あなたは時刻を間違える」

「じゃ誰」

「リゼ、トーヴ、救護官。あなたには、人が動いた道を覚えてもらう」

「分担」

「はい」

 その直後、中央車の奥でガラスの割れる音がした。

 鏡ではない。

 記憶を受け取った男が、手にしていた水杯を落とした音だった。

「娘だ」

 四十代の商人が、床へ膝をつく。

「娘の名前を思い出した。エナ。七歳。青い靴。南市場の――」

「誰か、南市場へ照会を!」と同行者。

「待って」とトーヴ。

 眼鏡を二枚上げ、三枚目だけを残す。

「戻った断片は、事実の全体ではない」

「名前がある!」

「名前の音、年齢、靴の色が同じ記憶から来た証拠はない。失った時期も別かもしれない」

「娘を探すなと?」

「探すなら、記憶だけを身分証明にしないで」

 商人は怒る。

「お前に娘を忘れた気持ちが分かるか!」

「分かりません」

 トーヴは退かない。

「分からないから、あなたの断片を私の物語へ完成させない。今あるのは、あなたが『エナ』という音と、青い靴と、七歳という感覚を得た事実です」

「冷たい」

「冷たく分ける。会いたい気持ちは、別の欄へ書く」

 リゼが白い布を一枚持ってくる。

「今すぐ照会する?」

 商人は口を開く。

 閉じる。

「……一時間、待つ」

「札は取らなくていい。待つ椅子へ」

「忘れたら」

「今の言葉だけ記録する。娘がいると確定した記録にはしない」

 セレナは、商人の顔を証羽へ写さない。

 本人の申告時刻と、「照会保留」の文字だけを紙へ残した。

 別の区画では、老いた航路士が突然立ち上がり、壁へ向かって歩き始めた。

「門がある。昔の家への門だ」

 壁は鏡だった。

 今は閉じている。

 ハルが前へ回る。

「段差、覚えてる?」

「三段。左へ曲がって、パンの匂い」

「この床、段差ない」

「記憶ではある!」

「うん。今の道ではない」

 老航路士の肩へ触れない。

 手を出し、本人が掴むのを待つ。

「家へ帰りたい」

「帰る道を、今ここで決めない。パンの匂いは残していい」

「お前は誰だ」

「配達係。目的地がまだ書かれてない荷物は、勝手に届けない」

「人を荷物と言うな」

「ごめん。でも勝手に届けない」

 老人はハルの手を掴んだ。

 その手を、白札の静かな部屋へではなく、中立広場へ案内する。

 まだ選んでいないからだった。

 記憶の断片は、しばしば命令形で戻る。

 逃げろ。

 待て。

 右へ。

 名前を呼べ。

 あの人を信じるな。

 過去の危機で正しかった命令が、現在でも正しいとは限らない。

「戻った記憶へ、行動権限を自動で付けない」とリゼ。

 黒板へ書く。

『断片は命令ではない』

『断片は身分証明ではない』

『断片は本人の現在意思ではない』

「四つ目」とトーヴ。

『断片は嘘とも限らない』

「面倒」とロロ。

「人間だから」とリゼ。

「機械も面倒」

「あなたが作るから」

「俺のせい?」

 ロロの工具箱から、補助腕が五枚の薄板を運び出す。

 記憶負荷を一度に遮断せず、受け取る速度だけを落とす減衰板。

 一枚目は高音。

 二枚目は匂い。

 三枚目は触覚。

 四枚目は言語。

 五枚目は、どれにも分類できない混線。

「戻るものを種類で選べる?」とカイル。

「選べない。混ざった時、身体へ来る順を少しずらすだけ」

「思い出したい声が、匂いの板で止まったら」

「止まってない。遅れる」

「どれくらい」

「分からない」

「珍しく正直」

「請求書へ『不明』は書けないから測る!」

 中央接続器が大きく震えた。

 カイルが右籠手を出す。

 王盾炎は広げない。

 熱を入れれば鏡門側の負荷が変わる。

 赤い籠手を物理的な支柱へ噛ませ、自分の肩で接続器を支える。

「王子の使い方が原始的」とロロ。

「国家資産の手動固定だ」

「修理費は国家へ」

「さっきの裁判を聞いてたか?」

「役割の費用は国家。身体の所有は本人。だから肩の湿布代は本人、籠手の摩耗は国家」

「分け方が細かい!」

「分けない契約で、この裁判ずっと揉めた!」

 カイルは笑いながら、背中を庇う角度へ足をずらす。

「三分で交代」とセレナ。

「五分」

「医療記録は三分」

「国家資産の耐久を低く見るな」

「身体の申告を役名で増やさない」

「……三分」

 判決の言葉が、まだ生活の動作へ下りてくる途中だった。

 エリアは、記憶の地図を描かなかった。

 誰が何を思い出したか。

 どの家族へどんな秘密が戻ったか。

 それを地図へ置けば、救難は速くなる。

 同時に、最も大きな監視図になる。

 彼女が描いたのは、選択窓口までの道だけだった。

 白札の静かな部屋。

 紫札の個別室。

 緑札の医療室。

 何も選ばない人が座れる、中立の広場。

 光の航路を描く地図術〈ルート・レイ〉の銀線は、どの部屋を選ぶべきか示さない。

 入口から全ての選択肢へ、同じ太さで伸びる。

「中央を大きくしすぎ」とリゼ。

「人が集まる」

「大きい入口は正解に見える」

 エリアは線を消す。

 中央の広場を、他の三つと同じ大きさにする。

「正確にありがとう、と言う」と彼女。

「普通に言えば」

「ありがとう」

「今のは保存」

「記録しないで」

「記憶するだけ」

 リゼの表情は、面紗の下で少し緩んだ。

 エリアは息を測る。

 平常。

 両踵の痛みは一。

 ハルが遠くから見ている。

「申告済み」と先に言う。

「聞いてない」

「顔が聞いてる」

「顔の評価は証拠外」

「セレナの言葉、盗るな」

「引用」

「出典」

「星律官クロウ、本日午前」

「正確」

 ハルは、赤いマフラーへ白、紫、緑の小札を結び、混雑した通路を走っている。

 零星針は使わない。

 誰の記憶をどこへ運ぶかは、失われた物の探索ではない。

 本人が選んだ札を、本人が選んだ部屋へ届ける。

 配送の仕事である。

「白札、三号廊下!」

「本人は歩ける?」とエリア。

「歩きたいって。支えは左だけ頼む」

「緑札、南階段」

「車椅子。段差二つ、路図を」

「描く。行き先は医療室で確定?」

「途中で広場へ変えていいって確認した」

「良い」

「褒めた?」

「業務評価」

「今日それ多い」

 ハルが笑う。

 走る背中を見て、エリアは一瞬、ユノの追跡路を思い出した。

 自分ならこうする。

 彼もそうする。

 また同じ形へ入ろうとした思考を止める。

 似た人を理解する時、人は違いを消しやすい。

 理解とは、相手を自分の地図へ収めることではない。

 鏡砂環で記憶が通行料になったのは、最初から人を支配するためではなかった。

 古い鏡門は、身体だけを遠くへ移すと、旅人の方向感覚を壊した。

 そこで旅人は、戻り道へ結びつく小さな記憶を門へ預けた。

 家の戸口。

 母の呼び声。

 毎朝食べるパンの匂い。

 門はそれを目印にし、旅人を同じ世界へ戻した。

 戦争が始まると、預ける記憶は増えた。

 通行者が誰に忠誠を持つか。

 どの道を知っているか。

 何を見たか。

 安全のため。

 機密のため。

 本人が恐怖へ耐えるため。

 一時的な預かりは、制度になった。

 制度は料金になった。

 料金は、払った本人にも明細が見えない負債になった。

 歴史は、悪意だけで歪むのではない。

 昨日の緊急措置へ、今日の便利を足し、明日の例外を忘れることで、まっすぐ歪む。

 トーヴは中央車の壁へ、臨時手順を貼った。

 一、戻った断片を、過去の完全な再現として扱わない。

 二、断片だけで、他者の罪、血縁、契約、死亡を確定しない。

 三、本人が望まない照合を行わない。

 四、身体症状がある場合は、内容より先に医療を選べる。

 五、今日決めないことを、放棄と数えない。

「六」とリゼ。

「何を」

「『嬉しくても受け取る義務はない』」

 トーヴは書く。

「七。『苦しくても偽物とは限らない』」

「それ、対になってる?」

「対にすると美しく見える」

「兄さん病が移った」

「脚注で崩す」

「本体で崩して」

 その時、紫札の部屋から一人の料理人が出てきた。

 両手へ香辛料の匂いを移すように、何度も指をこすっている。

「赤い種を潰して、白い根を入れる。朝の鍋だ」

 救護官が問う。

「誰と食べた記憶ですか」

「分からない」

「探しますか」

「レシピだけ書く」

「人は」

「今は探さない。味が先に帰ってきたなら、味だけ食べる」

 ロロが鼻をひくつかせる。

「試作は」

「有料」

「正しい」

「誰に払う」

「思い出した私」

「材料費は」

「あなた」

「正しくない!」

 料理人は、四十年ぶりかもしれない鍋の配合を紙へ書く。

 それが家族を見つける手掛かりになるかは、まだ決めない。

 記憶が戻った時、人は必ず失った人を探すとは限らない。

 味だけを今の生活へ持ち込むこともできる。

 白札の部屋では、若い兵士が毛布に包まれていた。

「命令が戻った」と小さく言う。

「誰の」とセレナ。

「上官。橋を焼け、と」

「実行した記憶は」

「ない」

「橋が焼けた事実は」

「知らない」

「では、今記録するのは命令の音だけ」

「俺が焼いたかもしれない」

「かもしれないを、罪状にしない」

「逃げている」

「調べる選択はできる。今、呼吸が整う前に有罪を完成させない」

 兵士は緑札を握る。

 医療室へ行く。

 調査は明日以降、自分で選ぶ。

 反対に、何も選ばない広場では、一人の女が座り続けていた。

 戻った記憶の内容を誰にも言わない。

 白札さえ取らない。

「本人確認を」と都市官。

「何のため」とエリア。

「危険人物の記憶が戻った可能性」

「可能性だけで、内容申告を義務にする?」

「都市安全です」

「現在の危険行動は」

「ない」

「なら、座る権利を守る」

 都市官が不満を示す。

「何か起きてからでは遅い」

「何も起きていない人を先に拘束すれば、裁判で分けたものを一時間で戻します」

 エリアの声は冷たい。

 だが、女の周囲へ路図を囲いとして描かない。

 出口までの線だけを、誰の線より太くせず置く。

 見ない権利は、見ないことを証明させる権利ではない。

 トーヴは、女の欄へ何も書かない。

 空欄の横へ、脚注だけを置く。

『空欄は欠落ではなく、本人が記録を作らなかった結果である』