第384話 第十二章「返ってくる記憶負債」後編
ユノは、白札も紫札も取らなかった。
何も取らず、法廷列車の外側回廊へ座っている。
アルマは隣。
弓はケースの中。
朝から続いた耳鳴りが、今は逆に遠い。
「戻った?」とリゼ。
「何か」
「聞いた顔」
「顔を証拠にしないで」
「妹は証拠整理役じゃない」
「権限が少ない?」
「その冗談、もう薄い」
「反省」
ユノは両手を膝へ置く。
右薬指が完全には伸びない。
「母の声かもしれない音が、一つ」
リゼは座らない。
「何て」
「分からない。母音だけ」
「追う?」
「今は追わない」
「怖い?」
「怖い」
「嬉しい?」
「少し」
「両方でいい」
「君は」
「何も戻ってない」
「残念?」
リゼの瞳の金輪が細くなる。
ユノはすぐ言い直す。
「今の質問を撤回する」
「遅い」
「ごめん」
「戻らなくて安心してる。戻る可能性が始まって怖い。兄さんへ一音戻ったことは、兄さんが嬉しいなら嬉しい。でも私へ同じことを期待しないで」
「しない」
「分かった顔だけしないで」
「実績で」
「そう」
ユノは、母の未送信証言を入れた封筒を出す。
黒い一行は、まだ閉じたまま。
「保管を頼みたい」
「私に?」
「君が、見ない権利を一番うるさく守るから」
「兄さんが後で開けたいと言ったら」
「返して」
「開けたくないと言ったら」
「返さないで」
「死んだ後は」
「今決めない」
「正解」
リゼは封筒へ三つの札を付けた。
『当事者保管』
『未選択』
『非公開内容の推測禁止』
空の額縁へ入れる。
中身を見せるためではなく、見ない選択が存在したことを忘れないために。
「一人へ預けない」とトーヴが言う。
彼は、封筒そのものを受け取らない。
額縁の留め金を三つへ分けた。
一つはユノ。
一つはリゼ。
一つは、法廷の独立記録庫。
三つがそろっても、自動では開かない。
開封申請を出せるだけ。
「面倒」とリゼ。
「簡単な秘密は、権力を持つ人が一人で開ける」
「兄さんが死んだら」
「その時のあなたが、申請するか決める」
「今の私が、未来の私へ命令しない?」
「期限だけ残す。十年ごとに、保管継続か廃棄かを選び直せる」
ユノは額縁を見る。
「母は、私たちに読んでほしかったかもしれない」
「かもしれない」とリゼ。
「読まないことを望んだかもしれない」
「かもしれない」
「どちらも、母の死を使って今の私たちへ命令できる」
「そう」
「嫌な妹だね」
「正確な妹」
「そこはエリアの役」
「役は移せる。本人は移さない」
法廷で覚えた言葉を、妹はすぐ家族の道具へ変える。
ユノの耳へ、また音が戻った。
高い弦。
白い花びらが床へ落ちる音。
女性の声が、何かを言う。
『右――』
そこで切れる。
右へ行け。
右手を見せて。
右の扉は危険。
右ではない。
断片は、続きを欲しがらせる形で戻る。
「聞こえた」とリゼ。
「顔?」
「右耳を押さえた」
「一音だけ。『右』」
「母さんだと思う?」
「思いたい」
「証拠は」
「ない」
「照合する?」
王家記録庫には、母の声が残る。
公的演説。
婚礼曲。
幼い兄妹へ読んだ童話の一部。
照合すれば、声紋の一致は出るかもしれない。
同時に、一音だけの断片へ母という物語を固定する。
「今日はしない」
「明日は」
「明日の私へ聞く」
「合格」
「何の」
「妹の検査」
「法的効力は」
「ない」
「なら安心」
ユノは自分の手帳へ、内容ではなく身体反応を書く。
『右耳。午前四時十二分。高音。白い花の視覚。話者不明。照合保留』
美しい台詞へ直さない。
母の遺言へしない。
自分を救う答えにも、傷つける答えにも使わない。
トーヴが横から見て、頷く。
「脚注を」
「付けないで」
「今の記録には不要です」
「珍しい」
「本文が、まだ本文ではないから」
ゼロスター号の客員席。
ユノの札は、外されていない。
帰る義務ではない。
予約でもない。
ここに乗った人がいた印。
「借りたい」とユノ。
法廷で言った言葉を、船の前で言い直す。
「期間は決めない。出る時は伝える。王家の追跡で船へ負担が出る。私の別件責任の審理へ同行を求める可能性もある」
「説明長い」とハル。
「必要」
「俺はいい」
「船側の全員へ聞く」とエリア。
「正確」
最初に、エリア自身が答える。
「条件があります」
「聞きます」
「航路図、避難図、乗員の当番表へ、私の許可なく幻像を重ねないこと」
「はい」
「選択肢を説明する時、最も美しい案を中央へ置かないこと」
「努力する」
「努力では不十分」
「失敗したら指摘して」
「指摘します。正確に」
「優しくは」
「必要に応じて」
「不安な表現だね」
「私も、あなたの答えを自分の答えへ重ねたら指摘してほしい」
ユノが少し考える。
「指摘する。美しくなく」
「その部分は不要」
「必要に応じて」
エリアの右眉が上がる。
だが客員席の札は外さない。
ロロ。
「危険手当と部屋代。楽器は勝手に分解しないから、俺の工具へ触るな」
「最後は逆では」
「契約だ」
カイル。
「俺は船主じゃないが、歓迎する。ただし政治相談へ逃げる時は王子同士の割り勘」
「何を割る」
「責任」
「割れない」
「じゃ増やす」
セレナ。
「乗員としての私的関係と、別件審理の証拠整理を分けます。あなたに不利な記録も提出します」
「頼みます」
リゼ。
「兄さんが乗ると、寝室の鏡を壁へ向ける作業が増える」
「手伝う」
「勝手に配置を整えないなら」
「努力する」
ノクス。
ユノの靴を嗅ぐ。
アルマのケースへ前脚を置く。
「ノゥ」
「何」とユノ。
「半分の干し魚を先払い」とハル。
「解釈?」
ノクスは干し魚の袋へ二本尾を向ける。
「反復による意思表示」とセレナ。
「では、払います」
「俺は」とハル。
「さっきいいと言った」
「友達としての条件」
ユノが待つ。
「次に消える時、行き先全部は言わなくていい」
「うん」
「危険の種類だけ言え」
「うん」
「手伝ってほしくない時は、そう書け」
「うん」
「それでも俺が腹立つのは止めない」
「止めない」
「許したわけじゃない」
「分かっている」
「分かった顔――」
「しない」
ユノは微笑まない。
「ありがとう」
整えない言葉。
客員席へ座る。
アルマのケースを足元へ置こうとする。
「そこ、避難路」とエリア。
「では右へ」
「右はノクスの寝床」とハル。
ノクスが二本尾を広げ、先に占有を主張する。
「上棚」とロロ。
「湿度が高い」
「楽器にも注文多いな!」
「持ち主に似た」とリゼ。
結局、客員席の下へ薄い防湿板を敷き、ケースの片側だけを通路から外す。
王家の第一継承者の居場所は、世界地図ではなく、工具箱と夜獣の寝床と避難幅の相談で決まった。
生活へ入るとは、壮大な自由宣言の後で、荷物をどこへ置くか決めることだった。
保護宮殿では、判決の実装が始まっていた。
全ての扉が一斉に開いたわけではない。
開けば自由になる者。
開けば危険へ戻る者。
開いていても、行き先がない者。
宮殿の住人は同じ被害者ではなかった。
髪を切る許可を巡っていた少年は、今日は残ると選んだ。
「外へ出たいんじゃなかった?」とハル。
「出たい。でも、今日出る必要はない」
「髪は」
「明日、市場の床屋を宮殿へ呼ぶ。外へ出るかはその後」
「順番、自分で決めた?」
「うん」
門番は、少年の選択札へ『残留』と書きかける。
「期限」と少年。
「何?」
「ずっと残る、じゃない。七日後にまた聞いて」
門番は書き直す。
『七日間、本人選択で滞在。再確認日あり』
別の女性は、宮殿の医療を継続しながら、昼だけ市場へ働きに出る。
老人は、退出を拒んだ。
「ここが家だ」
王家代訴官が安堵する。
「では保護継続に同意を」
「家に住む。常時監視には同意しない」
安堵が止まる。
残ることは、制度の全肯定ではない。
出ることは、受けた恩恵の全否定でもない。
宮殿の記録書式には、選択肢が足りなかった。
ロロが臨時で欄を増やす。
『滞在』
『医療』
『護衛』
『外出』
『公開』
『再確認日』
「また無料労働」と彼。
「請求先、王家」とカイル。
「払う?」
「制度改訂費として出す」
「王太子の個人財布?」
「国家予算」
「監査は」とエリア。
「君」
「利害関係があります」
「では共同監査」
言葉が、裁判から日常へ移るたび、少しずつ具体的になる。
フリードリヒは、宮殿出口でエリアを待っていた。
「帰路の護衛を三名つける」
言ってから、止まる。
五秒。
「提案する」
「条件を聞きます」とエリア。
「鏡門の不安定化がある。二名は機関技師。一名は医療士。行き先変更権は持たせない」
「医療士は要りません。私の左肺は平常。機関技師二名は受けます。乗船後はロロの指示へ従うこと」
「分かった」
「父上」
フリードリヒが待つ。
「提案へ言い直したことは、記録します」
「評価は」
「実績で」
父は苦く笑う。
「ハルの言葉が移ったか」
「引用元を明示します」
「正確だ」
親子は和解しない。
同じ船へも乗らない。
ただ、次の一回を別の形で行う。
その積み重ねだけが、契約より遅く、契約より長く人間関係を変える。
学院から、ティアの伝羽が届いた。
『第一条。安全規則改訂の全履歴を公開する。
第二条。今回エリアを排除した旧条件を、失敗例として削除せず残す。
第三条。例外許可は作らない。
第四条。本人申告、複数確認、中止条件、期限を、全参加者へ同じ書式で適用する。
第五条。私の署名だけで改訂を戻せないよう、評議会承認を加える』
末尾に、マオの小さな追記。
『第六条。条文が長い時は、階段の途中に椅子を置く』
「最重要」とハル。
「何が」とエリア。
「六条」
「安全規則です」
「疲れた人が読めない規則、守れない」
「……採用」
ティアはここにいない。
それでも、自分が作った規則の失敗を、自分の別の物語で引き受けている。
夜明け前。
記憶逆流は、流量を落とした。
法廷列車は、七都市の間に停まっている。
事件の判決は終わった。
別件責任は残る。
制度改訂も、保護宮殿の出口も、これから実装しなければならない。
解決は、生活へ戻った時に不便の形で続く。
中央車では、朝食が配られていた。
記憶が戻った人へ、懐かしい味を出してはならない。
何が懐かしいか、本人以外には分からない。
だから料理人たちは、薄い粥、塩、酸味、甘味を別々に置いた。
「味まで選択式」とハル。
「混ぜた後に戻せないから」とリゼ。
「カレーは」
「ない」
「世界の危機」
「あなたの世界だけ」
ユノは白い粥へ、何も入れず一口食べる。
次に塩を少し。
そこで止める。
「美味しい?」とハル。
「今は、塩を足したいと思った」
「味の感想」
「それで十分」
カイルは蜂蜜を入れすぎ、セレナに半分没収される。
ロロは酸味瓶の価格を聞き、無料と知って二杯分使う。
ノクスは全員の皿を嗅ぎ、自分の干し魚が別であることを確認してから食べる。
大事件の後、人物は思想でなく食べ方へ戻る。
誰かが自由になった翌朝にも、腹は減る。
責任が残っていても、眠気は来る。
世界の制度が揺れていても、熱い器は両手で持つ。
エリアは自分の呼吸を測る。
左肺、問題なし。
踵の痛み、二。
昨夜より一つ増えた。
「申告」とハル。
「まだ聞いていません」
「顔が」
「顔を証拠にしない」
「歩幅が半分」
エリアは否定しかける。
止める。
「両踵、二。走行は可能。長距離路図は交代が必要」
「俺が道を覚える」
「地図は読めないでしょう」
「走った道は覚える」
「では、帰船路の後半を頼みます」
「頼んだ?」
「具体的役割を一つだけ」
「覚えてた」
「記憶は記録ではない」
「でも役に立つ時もある」
エリアは粥を食べ終え、外側回廊へ出た。
ハルが手すりへ座っている。
「危険」と言う。
「落ちない」
「落ちる人は大抵そう言う」
「地球では落ちた」
「知っています」
「でも今は座ってるだけ」
「監視者として、歩幅と肩の高さを見ます」
「権限乱用」
「実績で判断」
二人は、薄明るい砂海を見る。
「私、ユノに自分の答えを重ねた」とエリア。
「俺も」
「あなたは何を」
「俺たちを選ぶと思った」
「船へ乗った」
「だから正しかった、にはしない。乗らなくても、本人の答えだった」
「腹は」
「立つ」
「気持ちの腹?」
「覚えてた」
「記憶は記録ではない」
「でも残る時もある」
セレナとの言葉を、二人が別の場所で使う。
「私なら、次も同行してほしい」とエリア。
「ユノに?」
「今は、あなたに」
ハルが手すりから降りる。
「同行する」
「分かった顔だけしないで」
「今日何回目」
「数えていない」
「正確な人が」
「数えないことを選びました」
エリアは右手で口元を隠す。
心から笑った時の癖。
その時、朝が来た。
本来なら、東に当たる一方向から。
鏡砂環では、東は一つの方角ではない。
鏡門を抜ければ、昨日の東が今日の北になる。
都市ごとに日の出の角度が異なり、古い隊商は朝鐘の音で方角を合わせた。
それでも、同じ場所に立つ者へ、同じ朝は一つだけ来た。
少なくとも、これまでは。
最初の光が、法廷列車の窓へ触れる。
一枚の窓へ、朝日が映る。
次の窓にも。
反対側の窓にも。
天井の鏡にも。
床下の七都市にも。
百枚の鏡が、百の方向から昇る朝を映し始めた。
「エリア」とハル。
「見えている」
「どっちが本物」
彼女は地図針へ触れない。
まだ測っていないものを、先に正解へしない。
窓ごとに、影の長さが違う。
一枚では、ハルの影が右へ。
別の一枚では左へ。
天井鏡では、二人の影が足元へ縮む。
時計も違った。
七都市の朝鐘が、同じ一拍で鳴らない。
早い鐘。
遅い鐘。
鳴り終わってから始まる鐘。
まだ夜の時刻を示す鐘。
ロロが計測器を持って飛び出す。
「閉じるな! 誰も鏡を伏せるな! 今は触るな!」
「故障?」とカイル。
「分からない! 分からないものを故障名へ入れるな!」
セレナは証羽を上げかける。
止める。
「都市機関の外形だけ記録します。窓の中の住民は写さない」
トーヴは時刻を書き、原因欄を空白にする。
ユノはアルマへ手を伸ばさない。
共通幻像で、一つの朝へまとめない。
リゼは面紗を深くするが、鏡を全部壁へ向けろとは言わない。
それぞれが、前夜に選んだ限界を、異常の前でも一度は守る。
「今は、分からない」とエリア。
ハルが頷く。
「じゃ、分からないまま立つ」
「走らない?」
「道が増えすぎてる」
「珍しい判断です」
「実績に入れて」
「一件だけ」
「少ない」
「継続して」
二人の肩が、触れる寸前で止まる。
同行するとは、同じ方向を見ることではない。
方向が一つでない時に、相手の見ている窓を勝手に閉じないことだった。
万華鏡都市の朝は、百方向へ同時に昇った。
返ってきた記憶が何を変えたのか。
鏡門網がなぜ朝の向きを失ったのか。
誰も、まだ説明しなかった。
分かるのは、事件が終わっても、世界は元の向きへ戻るとは限らないことだけ。
そして、向きが一つでない朝にも、人は自分の足で次の道を選ばなければならないことだけだった。