第385話 第一章「百方向の朝」前編
方角とは、地面が動かないという約束の上に立つ言葉である。
東から日が昇る。
西へ日が沈む。
北を背にすれば南が前にある。
この三つを幼い頃に覚えれば、人は大人になってから地面へ礼を言わない。毎日同じ位置にいてくれることを、地面の親切ではなく世界の常識として扱う。
鏡砂環サリフでは、その常識が少しだけ弱かった。
鏡門を抜けた先で昨日の東が今日の北になり、砂丘の反射で正午の光が足元から差し、仮面舞踏会では音楽の拍ごとに天井が床になる。だから人々は方位より、朝鐘、門印、風向き、砂の温度を信じた。
それでも、一人の人間へ一度に来る朝は一つだった。
その最低限まで、百に割れた。
「右が朝」
凪野ハルは窓を指した。
「左も朝です」
エリア・ルーンベルグは反対側を指した。
「天井は正午だな」
カイル・アークレイが見上げた。
「床下は夜明け前」とリゼ・ヴァレント。
「景気が悪いな。朝食を何回食べればいい?」
「時間帯で食事回数を決めるから、あなたは王室厨房から出入り禁止になるのです」
セレナ・クロウは黒い証羽を上げかけ、下ろした。
法廷列車の窓には、百の朝が映っていた。
同じ七面王都。
同じ白い宮殿。
同じ鐘楼。
同じ市場の布屋根。
ただし、窓ごとに影の長さが違う。
東窓の鐘楼は、長い影を西へ落としている。
西窓では短い影が北へ伸びる。
天井鏡の鐘楼には影がない。
床下鏡の市場は、まだ夜灯をともしていた。
時計も違う。
一枚は六時一分。
一枚は六時十四分。
一枚は五時五十八分。
針が逆へ進む時計はなかった。止まった時計もない。ただ、全てが正しく動きながら、同じ現在を示さなかった。
「どれが本物だ」
ハルが言う。
「その質問は早い」
エリアは地図針へ触れない。
「早いって、今が何時か分からないのに?」
「だから早いのです。『本物が一つある』を先に置けば、残り九十九枚を偽物として扱うことになる」
「偽物なら閉じればいい」と、法廷列車の門官が言った。
ロロ・ピクスの四本の補助腕が、一斉に門官へ向いた。
「閉じるなって言っただろ!」
「市民が混乱しています」
「俺も混乱してる! 混乱と閉鎖を同じ工具箱へ入れるな! 分からねえ機械を止めるのは正しい時もある。だけど止める場所を分からず全部止めるのは、修理じゃなくて目隠しだ!」
「目隠しなら光は減るはずですが」とトーヴ・セル。
分厚い眼鏡の奥で、彼は窓ごとの時刻を脚注札へ書いていた。
「増えてる」とハル。
一枚、門官が小さな窓鏡へ布を掛けた。
布の向こうの朝は消えた。
同時に、隣の窓が白く燃えた。
そこに映る朝日が二つになる。
「外せ!」
ロロが叫ぶ。
門官が布を外す。
二つだった朝日は、一つへ戻らなかった。
三つになった。
「増えたぞ!」
「見りゃ分かる! 見えてるのが問題なんじゃねえ、行き場が変わったんだ!」
床が傾いた。
傾いた、と身体が判断しただけかもしれない。
法廷列車の脚は鏡門通過の反転へ備え、三本の床留めで固定されている。だがハルの胃は右へ落ち、赤いマフラーは左へ流れ、砂パンの皿だけが天井へ向かった。
カイルが左手で皿をつかむ。
「朝食を守った」
「人を先に」とセレナ。
「皿の下に人はいない」
「確認時刻」
「六時――」
カイルは窓を見る。
「どれだ?」
「機関時計で六時九分三十二秒」
セレナは外の時計を証拠にしない。
ハルは手すりから降りた。
左肩を一度回す。
痛みは一。
耳鳴りは二。
方向感覚は、数字にできない。
「走る?」とエリア。
「道が一つなら」
「珍しく慎重ですね」
「珍しいを褒め言葉にしろ」
「継続したら」
「昨日も言った」
「一日では継続と言いません」
会話している間にも、窓の王都がずれた。
同じ市場の一人の女性が、三枚の窓へ映る。
一枚では店の布戸を上げている。
一枚では井戸へ歩いている。
一枚ではまだ椅子へ座り、靴を履いている。
三人いるのではない。
布戸が上がる音は一度だけだった。
井戸の滑車も一度だけ鳴った。
靴紐を引く指も、同じ右手だった。
同じ人の同じ朝が、異なる順番で見えている。
「過去映像?」とカイル。
「断定できません」とセレナ。「映像なら物理接触しないはずです」
窓の向こうの女性が、こちらを見た。
正確には、三枚とも同時に見た。
彼女が手を伸ばす。
右の窓から出た指先が、左の窓の縁へ触れた。
窓枠が鳴る。
女性の身体が三方向へ引かれた。
「開けろ!」
ハルはもう走っていた。
「慎重の継続時間、十一秒!」とエリア。
「記録しないで!」
「事実です」とセレナ。
「助けてから!」
法廷列車の側面には、緊急通行用の鏡が七枚ある。
どの鏡にも同じ市場が映る。
どの鏡にも女性がいる。
どの鏡から入れば、本人のいる場所へ着くか分からない。
ハルは鏡へ手を出さない。
代わりに床へ片膝をつき、耳を当てた。
「何を」とトーヴ。
「音」
「三枚とも同じ音です」
「映ってる音は同じ。足の下は違う」
市場の滑車。
布戸の木軸。
女性の靴底。
法廷列車の床を通ってくる振動は、一方向だけ少し遅い。
鏡の像は光を近道する。
身体の音は石と鉄を遠回りする。
ハルは一番左の鏡へ縄を投げた。
「根拠」とセレナ。
「井戸の鎖が、こっちだけ二拍遅い。市場は列車の下、六十歩。右の二枚は映像が先に来てる」
「証拠としては不足」
「検証する!」
「その言葉を先に言えるなら許可」
「許可待ってない!」
「知っています!」
ハルが鏡へ飛び込む。
冷たい。
次に熱い。
鏡門の裏側は、水でも空気でもない。身体の前後を一度だけ取り替えられる感覚があり、耳鳴りが内側から鳴る。
足が石畳へ着く。
だが石畳は壁だった。
「一、二――」
三を言う前に、身体が横へ落ちる。
左手で窓飾りをつかむ。
肩が引かれる。
痛み、二。
女性は三歩先。
いや、三歩上。
いや、ハルのいる市場だけが九十度寝ている。
同じ女性の像が、左右と足元にある。
「本物は!」
エリアの声が鏡から来る。
「本物って言うな!」
「本人の身体位置!」
「靴の音がする方!」
女性の右靴が石へ当たる。
下ではなく、斜め上。
ハルは縄を窓飾りへ巻き、壁を走った。
地図は読めない。
けれど自分の足で踏んだ段差は、一歩目から数えられる。
一。
二。
三。
三を言える。
四歩目で、女性の手首をつかむ。
「離して!」
「落ちる!」
「家に戻る!」
「家、どれ!」
「全部!」
女性の顔は恐怖で歪んでいた。
「同じ家が三つある。夫が一人ずついる。どれを置いていけばいいの!」
像の中に、確かに同じ男性がいる。
一人は戸口で叫ぶ。
一人はまだ眠っている。
一人は市場へ向かって走っている。
ハルは答えない。
知らない人の夫を一人選ぶ権利はない。
「今は家へ戻さない。まずあんたを一人にする!」
「私は一人よ!」
「分かってる! だから身体まで三つに引かせない!」
縄が張る。
法廷列車側で、カイルが引く。
エリアが鏡面へ細い光線を描く。
「測定済みはここまで。ハル、右上へ二歩。次は不明」
「不明を道に描いた?」
「白い点線です」
「それなら踏める!」
「普通は逆です!」
女性の左腕が別の像へ引かれる。
ユノ・ヴァレントが白いヴァイオリンへ手を伸ばした。
弓を取る。
一度、目を閉じる。
だが弦へ置かない。
「今、幻を重ねれば、どの像が術か分からなくなる」
「珍しく使わない」とリゼ。
「継続したら褒めて」
「兄さんまで感染した」
代わりにユノは鏡際へ立ち、女性へ直接言った。
「あなたの夫は三人ではありません。三つの見え方があります。今、どれかを捨てろとは言いません」
「王子が決めないの?」
「決めない。今の僕に決める権限はない」
「じゃあ誰が!」
「あなたが決められるまで、身体を安全な場所へ移す。決めない間の場所を、こちらで作る」
言葉だけでは鏡門は動かない。
だが女性の指から力が抜けた。
身体を引く三方向の力が、一拍だけ弱くなる。
ハルがその一拍で引く。
カイルの王盾炎〈レグルス・ガード〉が、鏡面の縁へ薄く広がった。
大盾ではない。
人一人の肩幅だけ。
「右腕、十拍」とカイル。
「七で交代」とセレナ。
「九」
「七」
「八」
「六にします」とエリア。
「交渉に第三者を入れるな!」
「六拍!」
六拍で、女性の身体が法廷列車側へ戻る。
三枚の像にいた夫も、一人の戸口へ重なった。
ただし時刻は重ならない。
彼は今、走っている。
眠っている像は残る。
叫んでいる像も残る。
女性は床へ座り込み、窓を見た。
「どれが、今なの」
セレナは答えない。
見た事実だけを言う。
「あなたの身体は、機関時計六時十三分十二秒に、法廷列車中央車へ収容されました。夫と思われる人物の身体位置は確認中です」
「冷たい言い方」
「温かい嘘より、後で訂正できます」
セレナは水を置いた。
正確な量。
飲めとは言わない。
女性が自分で取る。
列車中央車は、五分で臨時の受付になった。
受付と言っても、住所を書く欄は使えない。
住所が増えている。
時刻を書く欄も使えない。
時刻も増えている。
門官は帳面を開いたまま、文字の前で立ち尽くした。