第386話 第一章「百方向の朝」後編

「氏名、住所、現在時刻。三つとも確認不能です」

「不能って書け」とハル。

「公文書に?」

「分からないのに分かったふりするより正確だろ」

 セレナが黒い証羽を上げる。

「確認不能、では広すぎます。確認できた範囲を分けます」

 彼女は帳面の三欄へ横線を引いた。

『身体がある場所』

『本人が帰りたい場所』

『外から確認できる物理条件』

「住所を消した」と門官。

「住所が機能していません。氏名は本人が記入を望む場合のみ。急ぐのは戸籍ではなく、同じ身体を二度救助しないための識別です」

 最初の女性は、名前を書かなかった。

 代わりに、右靴の金具、左袖のほつれ、機関時計六時十三分十二秒、法廷列車中央車、という四つが書かれた。

「私が誰かより、靴が大事?」

「今は、あなたを別の像と取り違えないために」とセレナ。

「後で私の名前を聞く?」

「あなたが記録を望めば」

 女性は水を一口飲む。

「後で決める」

「保留」とエリア。

 透明板へ、名前のない三角を一つ置く。

「また三角?」とハル。

「丸は転がりそうだと、別の方が後ほど言う可能性があります」

「まだ言ってない人の好みまで先回りするな」

「では仮の菱形」

「形が増えた」

「人が増えたのです」

 その時、車端から子どもの泣き声がした。

 八歳ほどの少年が、二つの同じ鞄を胸へ抱いている。

 一つの鞄は乾いている。

 もう一つは雨に濡れている。

 七面王都の今朝に雨は降っていない。

「どっちが僕の?」

「両方、同じ縫い目」とロロ。

「じゃあ両方」

「同じ物の状態が重なってるなら、二つ持って走った瞬間に腕へ別の力が来る。置け」

「宿題が入ってる」

「どっちに」

「両方」

「内容は」

「片方は終わってる。片方は途中」

 少年は泣く理由を説明できない。

 終わった宿題を失うのが怖いのか。

 途中の自分を偽物にされるのが怖いのか。

 学校へ着いた時、教師がどちらの努力を採点するか分からないのが怖いのか。

 大人は不安を一語へ圧縮しやすい。

 子どもは圧縮前の全部で泣く。

 ハルは二つの鞄へ触れない。

「今、身体は一つ?」

 少年が自分の腕を見る。

「一つ」

「じゃ身体だけ先に札を付ける。鞄は選ばない」

「宿題は?」

「先生に、街が百個になったって言う」

「信じない」

 カイルが窓を指す。

「教師が信じなければ、王太子が証言する」

「王太子って宿題に効く?」

「国家間では効く。学校では分からん」

「役に立たない」

「景気の悪い評価だな」

 少年は少しだけ泣き止む。

 エリアは身体位置を記す。

 機関時計。

 床の傾き。

 窓から入る風。

 靴底の砂。

「砂が二種類」と彼女。

 少年の右靴には細かい白砂。

 左靴には粗い赤砂。

「両脚が別の街?」とハル。

「別の街ではなく、別の接続面を同時に踏んだ可能性」

「言葉が長い」

「短くすると、少年の脚が二本あるという普通の事実になります」

「それも大事」

 ハルはしゃがみ、床を指で叩く。

 列車の機関振動は一つ。

 窓から来る鐘は四つ。

 少年へ聞く。

「学校へ行く時、何を目印にする?」

「焼き胡麻の匂い。角の店」

「鐘じゃない?」

「遅刻する日は鐘」

「普段は匂い」

「うん」

 ハルは帳面へ書けない字を書く代わりに、胡麻粒を一つ貼った。

 セレナが見る。

「物証の保存性が低い」

「食べられる」

「さらに低い」

「匂いは分かる」

「あなたにだけ」

 エリアが胡麻粒の横へ、小さな凸印を押す。

「匂いを知る人には胡麻。知らない人には凸点。少年本人には鞄の留め具と同じ形」

「一つの目印に三つ」

「一つしか用意しなければ、使えない人が偽物にされます」

 臨時受付は、たちまち帳面では足りなくなった。

 濡れた袖。

 乾いた靴。

 まだ温かいパン。

 燃え尽きていない蝋燭。

 朝の祈りを終えた指の粉。

 夜勤明けの煤。

 人は自分が誰かを、名前だけで持ち歩いてはいない。

 仕事の匂い。

 家族から借りた針。

 途中まで飲んだ薬。

 昨日から続く痛み。

 それらを一つずつ、本人へ確認する。

 同じ像を二度数えない。

 異なる人を一つへまとめない。

 分からない時は、分からないまま場所を確保する。

 受付の床に、白い紐で区画が作られた。

 帰り先確認済み。

 身体位置のみ確認。

 移動保留。

 医療優先。

「避難所みたい」とハル。

「避難所です」とセレナ。

「列車なのに」

「場所の名称は役割を制限しません」

「王子なのにパン皿を持ってる奴もいる」

「役割が増えた」とカイル。

「皿を置け」

 列車が再び傾く。

 白い紐は床を滑り、四区画が一瞬で重なる。

 エリアが地図槍を開きかける。

 やめる。

「線を固定すれば、次の傾きで人を引く」

「じゃどうする」とハル。

「人へ線を結ばない。床の物理条件だけを更新する」

 透明板へ、時刻、風、砂の三欄を作った。

 まだ解決法ではない。

 だが百方向の朝を、一枚の正解へせず記録する最初の形になった。

 市場の女性が、三つの窓にいる夫を見た。

「どれが今か、まだ分からない」

「はい」とユノ。

「でも私が今ここにいるのは?」

「確認できる」

 女性は自分の菱形札を取り、胸へ付けた。

「じゃ、まずここから」

 人間は、世界の全体が分からなくても一歩目を選べる。

 問題は、その一歩目を最終回答として固定しない場所があるかどうかだった。

 法廷列車は七面王都へ向かうはずだった。

 だが向かう先が百に増えた。

 列車の前窓には王都中央港。

 右窓にも中央港。

 床の鏡にも中央港。

 同じ港へ、ゼロスター号が停泊している。

 いや。

 三隻、いた。

 白銀の帆を一枚だけ広げたゼロスター号。

 片帆の裂け目。

 船首に残る自由港の銅留め。

 王獣の抜け毛を編んだ緑の房。

 全て同じ。

「ロロ」とハル。

「見えてる」

「三隻ある」

「同じ傷。同じネジ。俺が昨日直してねえ箇所まで同じ。三隻じゃねえ」

「じゃあ一隻?」

「一隻が三か所に接岸してる」

「それ、一隻って言う?」

「言葉の規格外だよ!」

 港へ降りる鏡路が開く。

 王都側では、住民が鏡戸を閉じていた。

 一枚閉じるたび、別の窓が明るくなる。

 一つの路地を封鎖するたび、同じ路地が二つ現れる。

 門守たちが叫ぶ。

「反射像へ近づくな!」

「どれが反射像だ!」と住民。

「王家の指示を待て!」

「王家の指示は何時の王家から来る!」

 七面王都は、七つの都市が同じ王を仰ぐため作られた。

 城壁より鏡門が先にあり、街路より通行契約が先にあり、家の住所は石の位置だけでなく「どの朝鐘の後にどの鏡を抜けるか」で決まった。

 ゆえに、鏡が増えれば住所が増える。

 同じ家が三つに見えるという混乱は、景色の問題ではない。

 税をどこへ払うか。

 病人をどの診療所へ運ぶか。

 火事の責任をどの門守が持つか。

 夫がどの戸口へ帰るか。

 生活の全てが、百方向へ裂ける。

 ハルたちは港へ出た。

 砂混じりの朝風。

 右から吹く。

 同時に左から吹く。

 ノクスの二本尾が逆方向へ伸びた。

「どっちが船?」とハル。

 ノクスは三隻を嗅ぐ。

 一隻目へ「ノゥ」。

 二隻目へ「ノゥ」。

 三隻目へも「ノゥ」。

「全部?」

 ノクスがハルの耳を噛む。

「訳し方が雑だと怒っています」とセレナ。

「正確な訳は」

「本人へ聞いてください」

「聞いた!」

 ノクスは床へ前脚を三度置いた。

 三つの船から、同じ足音が返る。

 次に、自分の赤い布環を一隻目の舷へ投げた。

 布環は二隻目の舷にも現れた。

 三隻目にも。

「物まで」とリゼ。

「像じゃない」とロロ。「少なくとも、像だけじゃねえ」

 ハルは一隻目へ縄を掛ける。

 カイルが二隻目へ。

 エリアが三隻目へ。

「同時に引くな」とロロ。

「なぜ」と三人。

「同じ船なら船体を三方向から裂く!」

 三人が手を離す。

 遅かった。

 縄は三本とも張った。

 一本の甲板が、三方向へきしむ。

 ロロの補助腕が全部上を向く。

「誰も動くな!」

 動かなければ、港は止まる。

 止まった港にも朝は来る。

 百方向から。

 ゼロスター号は、同じ中央港へ、北から接岸していた。

 南からも接岸していた。

 空の真上からも、帆を下にして接岸していた。

 一隻の船が、三つの岸壁へ同時に舷を預けている。

 その船上で、同じ湯沸かし器が三度鳴った。

 ロロは顔を覆った。

「湯まで増えた」

「朝食、三回」とカイル。

「喜ぶな!」

 ユノは笑わなかった。

 百方向の朝を見上げる。

 完璧な微笑みより先に、目元だけが崩れた。

「これは、裁判の後始末だ」

 ハルが振り向く。

「お前が悪い?」

「僕一人のせいだと整えれば、理解は早い」

「整えるな」

「そうだね」

 ユノは、短く息を吸った。

「王家の記憶管理を停止した。返還が始まった。鏡門の封鎖も増えている。二つが同時に起きた」

「だから?」

「まだ分からない」

 王子は、分からないと言った。

 演奏せず。

 美しく言い換えず。

 自分を犯人にして話を終わらせず。

 七面王都の中央宮殿から、最初の非常鐘が鳴った。

 一つの鐘音が、百の時刻へ割れる。

 その全てが同じ命令を告げた。

『市民は最寄りの鏡門を閉鎖し、王家の次命を待て』

 港の門守が鏡戸へ手を掛ける。

 ロロが叫ぶ。

「閉じるな!」

 だが、命令は百方向から来た。

 人は一方向の危険より、百方向の命令へ弱い。

 最初の鏡戸が閉じた。

 港の朝日が、四つになった。