第388話 第二章「閉じるほど明るい」後編
港十六門の測定だけでは、都市全体の命令へ逆らう根拠として足りない。
セレナがそう言った。
ロロは「燃えてから書類を増やすな」と怒り、怒りながら追加検証へ行った。
門守長も同行した。
「監視?」とハル。
「確認だ」
「何を」
「この少年が、都合のよい場所だけ測らないか」
「俺の身長で少年って言うな!」
「十四歳は少年です」とセレナ。
「年齢で測るな!」
「法では測ります」
第一の検証先は、港浴場だった。
鏡砂の旅人は、門を越える前後に身体へ付いた反射粉を洗う。浴場は観光施設ではなく、火傷と誤接続を防ぐ公共設備である。
閉鎖された北鏡の裏は、冷たかった。
その隣の湯鏡から、沸騰した湯が天井へ噴いている。
「火を弱めた!」と浴場主。
「火じゃねえ。鏡から来てる」とロロ。
湯鏡の温度、五十一。
閉鎖前の記録、三十八。
床の排水が逆へ流れ、脱衣籠が壁へ貼り付いている。
「全員出したか」
「三十二人。老人一人が服を取ると」
「服は後!」
「その人にとっては、門札と薬が入ってる」
ハルが脱衣籠へ縄を掛ける。
「じゃ人を先に出して、荷物も後で取る。どっちかを笑うな」
門守長が一瞬、彼を見る。
命令書では、避難者は人数になる。
現場では、薬を持たない一人は、避難済みの一人ではない。
浴場の湯鏡を半目盛り開く。
噴湯が弱まる。
同時に、三路地先で白い霧が上がった。
「次」とロロ。
第二の検証先は、氷薬庫。
鏡門の向こうの夜冷を利用し、熱に弱い薬を保管する場所である。
閉鎖後、庫内温度は下がった。
「安全になった」と薬庫番。
「棚を見ろ」とロロ。
薬瓶が、棚から浮いていた。
熱は下がった。
重力負荷が抜けた。
閉じた鏡が受け持っていた下向きの力まで、隣へ送られている。
「冷たいから安全じゃない」とハル。
「温度だけ測る書式なら、安全判定になる」とセレナ。
薬庫番が記録板を見せる。
確かに、非常時点検には温度欄しかない。
「薬庫は冷えればよいと、誰が」とエリア。
「百二十年前の規格」とトーヴ。「当時は重力鏡を併用していません。脚注二。正確には百十七年前」
「古い規格へ新しい機械を足した」とロロ。
「改訂しなかった?」とハル。
「改訂した。追加紙を三枚貼った」
「一枚にまとめなかったの」
「予算が別!」
「制度が機械より壊れてる」
薬瓶を網で固定する。
その途中で、ロロの右眼が白く霞んだ。
鏡光が床から上がっている。
補助腕二番が、同じ留め具を二度つかむ。
エリアが何も言う前に、ロロが口を開いた。
「右眼、二重。補助腕二番を停止。俺は計測読み上げだけ。固定作業、薬庫番へ」
自分の限界を先に申告する。
薬庫番は驚く。
「任せるのか」
「ここ毎日触ってるの、お前だろ」
「修理工ではない」
「俺も薬屋じゃねえ。だから瓶の並びはお前が決めろ。固定の締め具合は俺が言う」
役割を分ける。
専門性は、万能な一人を作るためではない。
異なる無知を、互いに露出させるためにある。
第三の検証先は、港診療所だった。
診療所の鏡は閉じていない。
閉じられなかった。
隣区画の鏡が三枚閉鎖され、負荷が流れ込んだ結果、診療所そのものが朝と正午の二つへ重なっている。
一方の寝台では、患者が治療前。
もう一方では、包帯を巻かれた後。
同じ患者の身体は一つだった。
だが医師の手は二つの処置順へ引かれ、針を刺せない。
「鏡を閉じる!」と門守長。
ロロが叫ばない。
「閉じたら、どこへ行く」
「患者を守る」
「今いる患者から負荷をどこへ送る」
門守長は答えない。
「浴場か。薬庫か。子どもの学校か。閉じるって言葉の中に、送り先を書け」
門守長の右頬の傷が、白光で浮く。
十五年前、南港鏡が爆発した。
当時、彼は見習いだった。
開門を続けた上官は、逃げ遅れた旅人を通そうとした。
爆炎で七人が負傷し、一人が死んだ。
門守長は、それ以来、閉鎖を命令ではなく弔いとして信じてきた。
「閉じていれば、あの日は助かった」
「そうかも」とロロ。
否定しない。
「今回は閉じた先で別の奴が焼ける。事故が違う」
「また開けて死んだら」
「俺も怖い」
ロロの声は高い。
怒鳴る時より、少しだけ細い。
「怖いから、一枚だけ見て決めたくねえ」
門守長は診療所の二つの寝台を見る。
閉鎖取っ手から手を離す。
「何をする」
「三枚隣の閉鎖を一目盛りずつ戻す。診療所だけで受けないようにする」
「誰が責任を」
「測定は俺。操作は各門守。医療継続は医師。記録はセレナ。命令への異議は王子。誰か一人の美談にするな」
「美談を嫌うな」とカイル。
「修理代を払う美談なら好きだ!」
三枚の鏡を、同時ではなく順に半目盛り戻す。
診療所の二つの時刻が近づく。
完全には重ならない。
医師は治療前と治療後の像の間で、現在の患者の脈を指で取る。
「今ここ」を、映像でなく身体から確認する。
針が入る。
門守長は記録板へ、自分で書いた。
『閉鎖門に事故なし』
一度、消す。
『閉鎖負荷、浴場・薬庫・診療所へ移動。事故なしとは判定できない』
「長い」とハル。
「短くして人を消すよりよい」
エリアが右手で口元を隠す。
ロロは見逃さない。
「笑ったな」
「記録の改善を評価しました」
「褒め方が公務!」
三施設の測定値を重ねると、閉鎖した鏡の種類によって、熱、光、重力の送り先が異なった。
共通していたのは一つ。
負荷は消えない。
閉じた本人の視界から、見えなくなるだけだった。
ゼロスター号を一隻へ戻す試験は、もっと難しかった。
三つの岸壁へ接岸した同じ船を、どこか一つへ引けば、別の二方向の舷へ力が掛かる。
ロロは三本の係留索へ、同じ長さの震動計を付けた。
「一本ずつ切る?」とカイル。
「切った負荷が残りへ行く。今は触るな」
「船内に人は」
「ピコだけ」
機械鳥ピコが、三つの船首から同時に鳴いた。
『あさ! あさ! あさ!』
「語彙が事故」とハル。
「お前が教えた!」
「一回だけ」
「機械は一回でも覚える!」
ピコが別の声を再生する。
『修理代、誰に請求すりゃいいんだよ!』
「そこ覚えるな!」
三つの船首で、ピコが同時に首を傾ける。
だが一羽である。
中央船首のピコが右へ向けば、北側のピコも、天井側のピコも右へ向く。
各船から見た右が違うため、三つの頭は空間上で別方向を向く。
「同じ動作が、別の座標へ投影されてる」とエリア。
「投影なら索に力は掛からねえ」とロロ。
彼は一本目の索を指で弾く。
三本全部が鳴る。
音程は違う。
北索は低い。
南索は高い。
天井索は、その間。
「張力が違う。同じ船を、三つの重力が引いてる」
「どれか一つを選べば?」とハル。
「選ぶだけじゃ船体は納得しねえ。残り二つの力を逃がさないと裂ける」
「人間みたいだな」とカイル。
「機械へ雑な感情移入するな」
「三か所から役割を引かれる王族には分かる」
「それは後で政治の請求書に書け」
ロロは三本の索を切らず、同時に少しずつ緩めた。
北を一目盛り。
南を二目盛り。
天井を半目盛り。
船体のきしみが減る。
像は消えない。
だが裂ける音は止まる。
「止めるんじゃない」とロロ。「分ける」
彼の機械説明は、感情へ使う時だけ比喩になる。
今は誰も指摘しなかった。
中央宮殿から、二度目の命令が届いた。
鏡紙は一枚。
だが百の朝を映し、百回読み上げる。
『第一非常令。
七面王都および連結七都市の鏡門を全て閉鎖する。
王家記憶庫、中央位相塔、保護宮殿を優先保全。
外部救援者は現地門守の指示へ従うこと』
末尾に王家印。
緊急時の真正印。
ユノは紙を見た。
「僕の父の印だ」
「命令を止められる?」とハル。
「第一継承者権限なら、以前は」
「今は」
「裁判で、包括的な代行権を止めた」
「自分で止めた権限を、都合よく戻さない」とリゼ。
「うん」
ユノは即座に印を上書きしない。
自分の自由を守った判決を、都市危機の一言でなかったことにしない。
カイルが鏡紙を取る。
「外国王太子として、救難上の異議は出せる。命令権はない」
「異議で門は止まる?」
「止まらん。だが命令に従わなかった門守が、後で反逆者にされるのを防げる」
「必要」とセレナ。
「景気の悪い役だな」
「王子の仕事です」
「知ってる」
フリードリヒは命令紙の付属図を見た。
地図針を平行へ揃える。
「一斉封鎖には、航路相系統の封鎖針も使われる」
エリアが父を見る。
「公爵閣下の術」
「地図へ通行条件を固定する封鎖針〈ロック・ルート〉。私が解除手続きへ署名しなければ、ルーメン提供区画は自動閉鎖する」
「解除してください」とハル。
「解除には鏡王国側の共同署名が必要だ」
「今、共同署名できる人が百方向にいる」
「だからこそ、誰の署名か確定できない」
「確定するまで閉じる?」
「契約上は」
「機械上は」とロロ。「閉じたら中央が焼ける」
フリードリヒの五秒。
今度は、三秒で終わる。
「私の提供した封鎖針だけ、手動解除する」
「契約違反」とセレナ。
「後で責任を負う」
「解除手順が遅い」とロロ。「今すぐ全部は無理だ」
「何分」
「一地区十二分。ルーメン規格は七地区」
「八十四分」
「街が持つか分からねえ」
「では優先順位を決める」
「一人で?」とエリア。
父は止まる。
「提案する。温度上昇の大きい区画から」
「同意します。ただし住民避難路と照合を」
「分かった」
父娘の会話は短い。
和解ではない。
だが命令が提案へ変わるだけで、他人が参加できる余地は生まれる。
ロロは床のネジ図へ、七本の銀針を置いた。
「ここ、ここ、ここ。閉じたら中央へ直流する。先に解除」
「直流?」とハル。
「曲がる場所がなくなるってこと!」
「最初からそう言え」
「専門語を日用品へ値切るな!」
その時。
港の向こうで、全ての鏡戸が同時に下り始めた。
門守長が振り向く。
「私は命じていない」
「中央自動封鎖!」とロロ。
十六枚の鏡が、一枚ずつ暗くなる。
一枚目。
隣の鏡が二倍に明るい。
二枚目。
中央塔の輪郭が三つ。
三枚目。
地面が十五度傾く。
四枚目。
ゼロスター号の帆が、三方向へ膨らむ。
五枚目。
市場の同じ女性が、七つの窓へ現れる。
「止めろ!」
ロロが中央制御箱へ飛びつく。
封印札がある。
王家印。
七都市印。
外国顧問印。
許可を取る前に分解する少年が、工具を出す。
だが止めた。
箱を開ければ、全都市の証拠が変わる。
後で誰が何をしたか分からなくなる。
「セレナ!」
本当に助けを求める時、ロロは工具名ではなく相手の本名を呼ぶ。
セレナは一秒で来る。
「外形記録完了。封印の切断を許可できる権限はありません」
「じゃあ」
「救命上の緊急避難として切断してください。私が時刻、範囲、理由を記録します」
「責任」
「分けます」
ロロが左手の薄刃を入れる。
王家印を切らない。
印を支える蝶番だけ外す。
四本の補助腕が別々のネジへ入る。
「一番、左へ四分の一! 二番、触るな! 三番、熱逃がし! 四番――」
喘息の息が短くなる。
粉塵濃度は一。
作業続行。
右眼が白光で霞む。
工具を左側へ集める。
「ロロ、交代」とエリア。
「まだ一本」
「右眼」
「見えてる!」
「補助腕三番が同じネジを二度つかんだ」
ロロは否定しかける。
補助腕を見る。
三番が空をつかんでいる。
「……右眼、霞み。左視界で続行。三分」
「二分で交代」とエリア。
「二分半」
「二分」
「二分!」
交渉成立。
制御箱の中で、一本の銀針が抜ける。
閉じかけた鏡戸が止まる。
だが他の十五枚は止まらない。
中央塔が白くなる。
白いのに、明るく見えない。
光が多すぎると、形が消える。
七面王都の中心で、宮殿の影がなくなった。
閉鎖命令が百方向から繰り返される。
『全門を閉鎖せよ』
その命令のたび、閉じた鏡の裏面は冷えた。
隣の鏡は燃えた。
中央塔は、朝そのものを飲み込むように白く膨らんだ。
ロロは制御箱へ片手を入れたまま言った。
「閉じてるんじゃねえ」
補助腕が、一本ずつ震える。
「全部、中央へ押しつけてる」
最後の港鏡が、半分まで下りた。
都市の空に、二つ目の太陽が現れた。