第389話 第三章「記憶の通行料」前編
税には、集めやすいものと集めにくいものがある。
麦は数えられる。
硬貨は量れる。
家畜は逃げるが、足跡が残る。
記憶は数えにくい。
一日の思い出を一日分と呼べるのか。
母の声と、知らない町の匂いは同じ重さなのか。
忘れた事実を、忘れた本人が不足として申告できるのか。
だからこそ、権力は記憶を徴収しない――とは限らない。
数えにくいものは、返還を要求しにくい。
目に見えない税は、徴収者にとって都合がよい。
鏡砂環サリフの鏡門は、かつて記憶を徴収する鏡通行料〈メモリー・トール〉を旅人へ求めた。
通行者は一つの感覚を預ける。
味。
匂い。
声。
痛み。
誰かの顔を見た時に胸へ浮かぶ、名前のない温度。
王家はそれを「門を動かすための代価」と説明した。
説明は、完全な嘘ではなかった。
完全な嘘でない説明は、最も長く制度に残る。
「返されたくない」
片手袋の鏡磨きは言った。
七面王都の南朝市で、四十年近く鏡を磨いてきた女性である。
左手だけ黒い手袋。
右手は素手で、銀粉が爪の間へ沈んでいる。
彼女の前には、細い光の糸が浮かんでいた。
王家記憶庫から戻ってきた、記憶の断片。
映像ではない。
焦げた布の匂い。
熱い石床の感触。
男の声らしい低い震え。
言葉までは聞こえない。
けれど彼女は、それが誰の最期か知っている。
「夫の声?」とユノ・ヴァレント。
「質問を一つにして」
「これは、あなたが鏡門へ預けたものですか」
「そう」
「戻すことを望まない?」
「望まない」
「理由は記録しなくてよい」
隣で、鏡門返還官が眉を寄せた。
「理由がなければ、拒否の正当性を確認できません」
リゼ・ヴァレントの面紗が、朝光の中で揺れる。
「拒否に正当性が必要なら、拒否じゃなく審査です」
「王家記憶は本人財産です」
「本人財産なら、受け取らない選択も本人のもの」
「返還しなければ、王家が保持し続けることになる」
「保持と受領の間に、封印という言葉があるでしょう。仕事で使ったことは?」
返還官が黙る。
「沈黙を同意に数えないで」とリゼ。
「……封印庫は現在、負荷超過です」
「それは本人の倫理ではなく、機関の都合」
「都市が崩壊しています」
「都市を救うためなら、今の人格へ過去を押し込んでいい?」
リゼの声は平坦である。
怒るほど母音が短くなる。
「よくない」
ユノが言った。
返還官は第一継承者を見る。
「殿下。記憶負債の返還は、昨日の判決で――」
「判決は、返還を王家が一括管理できる権利を否定した。本人が必ず受け取れとは命じていない」
「しかし、返還路が止まります」
「止める」
「後続の七十六件も」
「一人の拒否を七十六人の圧力に使うな」
敬語が落ちた。
ユノの本気は、声量ではなく文の短さに出る。
片手袋の鏡磨きが彼を見た。
「王子は、私の夫を知ってる?」
「知りません」
「私がなぜ捨てたか」
「知りません」
「戻したら幸せになるか」
「知りません」
「なら、分からないまま止めて」
「止めます」
ユノはアルマを持っていない。
美しい幻で、彼女が記憶を受け取った後の安らかな姿を見せない。
受け取らなかった後悔も見せない。
見せられない未来を、見やすい像へ整えない。
返還官が制御環へ触れる。
鏡路の光が止まった。
同時に、建物全体が横へずれた。
一枚の壁が二つになる。
片方では鏡磨きが椅子へ座っている。
片方では立っている。
返還官が叫ぶ。
「停止で位相が分岐!」
「停止のせいとは限らない」とトーヴ・セル。
「今起きた!」
「同時発生は因果ではありません。脚注一」
「今、脚注?」
「今だからです」
トーヴは分厚い眼鏡を押し上げる。
「返還量、閉鎖門数、中央塔照度、街区複製数。四つが同時に増減しています。一つだけを原因にすると、残り三つを見落とす」
「じゃあ何を」と返還官。
「測る」
ユノは片手袋の鏡磨きへ向き直る。
「ここから動けますか」
「足は動く。道が二つに見える」
「どちらを選びたい?」
「選びたくない」
「では、選ばずにいられる場所へ」
「そんな場所、ある?」
「作る」
「王子が?」
「僕だけでは」
言い終える前に、ハルが椅子の背を持つ。
「これ、運ぶ」
「人を椅子ごと?」
「立ってる像と座ってる像がある。椅子ごとなら、少なくとも今の身体の姿勢を変えない」
「雑だけど正確」とリゼ。
「褒めてる?」
「継続したら」
「感染が広い!」
片手袋の鏡磨きは、初めて少し笑った。
右手で椅子の縁をつかむ。
「落としたら、鏡磨き代を取る」
「俺、金ない」
「労働でもらう」
「得意」
「値段を先に決めて」
「ロロみたい」
「職人は似る」
返還所の隣には、受け取りを望む者もいた。
朝鐘見習いの少年は、両手で小さな鈴を抱えていた。
十歳か十一歳。
髪の左半分だけ、鐘楼の煤で灰色になっている。
「僕は戻してほしい」
「何を預けたか分かる?」とリゼ。
「母さんの歌」
「映像ではなく、声の断片かもしれない」
「それでも」
「別人の声が混じる可能性もある」
「それでも」
「戻った後、今覚えている歌と違うかもしれない」
「それでも」
リゼは三度目で質問をやめた。
質問を一度で諦める人が好きだ。
だが一度で諦めれば、説明不足になる時もある。
「受け取る権利はある。でも、今すぐ受け取る義務はない。途中で止めてもいい」
「全部じゃないと、歌にならない」
「歌にならなくても、あなたの記憶」
「歌にしたい」
少年は自分で言う。
ユノが膝を折り、目の高さを合わせる。
「受け取る時、誰にいてほしい?」
「鐘の先生」
「今はどこ」
「鐘楼」
「鐘楼へ行けない」
鏡門は閉鎖中。
街路は三方向へ分かれている。
「待つ」と少年。
「返還を?」
「先生を」
「期限は」
少年は考える。
「朝鐘がもう一回鳴るまで」
どの朝鐘か。
百方向に鐘がある。
少年は自分の小鈴を鳴らす。
「これ」
「自分で鳴らすの?」とハル。
「先生が来たら、先生が止める」
待つとは、何もしないことではない。
誰を待つか。
何を合図にするか。
いつ待つのをやめるか。
三つが決まれば、待機は選択になる。
決まらなければ、待機は放置になる。
エリアは、その会話を地図の余白へ書いた。
『保留。合図あり。再確認者あり』
まだ道にはしない。
返還所には、受け取る者と受け取らない者の間に、もっと多くの人がいた。
制度は二択を好む。
受領。
拒否。
窓口が二つなら、職員は並ばせやすい。
台帳も二列で済む。
人間は二列へ収まらない。
塩パン屋の男は、舌の記憶を返してほしいと言った。
「十五年前から塩味が薄い。通行料へ預けたのは、たぶん最初に焼いたパンの味だ」
「たぶん?」とリゼ。
「何を預けたか、当時は選べなかった。門が取った」
返還糸から来るのは、塩ではない。
焦げた小麦。
汗。
父親の手の温度。
客が一人も来なかった店の静けさ。
「味だけ戻せる?」
返還官が首を振る。
「感覚断片は結合しています」
「全部入れたら、父を思い出す」
「望まない?」とユノ。
「望む。でも今、窯を止められない。思い出して動けなくなったら、避難所のパンが止まる」
「では後で」
「後っていつだ」
ユノは答えを持たない。
期限のない後回しは、拒否を丁寧に言い換えただけになる。
エリアが仮札へ書く。
『窯の交代者到着後。本人が一口ずつ試す。停止合図は木匙三回』
「交代者は」とセレナ。
「弟。今、北区から徒歩で来てる」
「到着確認までは封印」
「パンは?」とハル。
「お前は話を聞いていたか」
「聞いたから心配」
「二百個焼く」
「尊敬」
「代金は取る」
「もっと尊敬」
次は退役門兵だった。
戻ってきたのは、顔ではない。
制服の金具が鳴る音を聞いた時の、胃の収縮。
彼はその感覚を「臆病」と呼んだ。
「返せ。怖さが戻れば、昔の失敗を忘れずに済む」
隣の娘が言う。
「戻したら、私の制服も見られなくなる」
娘は現役の門守だった。
「俺の記憶だ」
「でも私の生活へ来る」
「だから返すなと言うのか」
「今すぐ全部は」
二人の意見は対立している。
どちらも本人の人生へ関係する。
だから家族の多数決では決められない。
「今の私に聞いて」とリゼ。
退役門兵が見る。
「何だ」
「あなたの昔の自分じゃない。娘さんでもない。今ここにいるあなたに。怖さを受け取る時、娘さんの制服が見えない場所にする? 娘さんがそばにいる? 別の人を呼ぶ?」
男は即答しない。
「……娘は外。昔の同僚を一人」
「その同僚に内容を話す?」
「話さない。倒れたら支えるだけ」
「娘さんへは」
「終わったら、俺から言う」
娘は不満そうだった。
それでも頷いた。
「私が知る権利は」と言う。
「お父上の感覚内容にはありません」とセレナ。「ただし、その返還で家庭内の安全に具体的危険が生じる場合、あなたは自分の安全条件を提示できます」
「殴る人じゃない」
「なら、その事実も条件です。恐怖が戻ることと、暴力が起きることを同じにしない」
人を守る制度は、人を危険な可能性として先に完成させてもいけない。
三人目は、六歳の少女だった。
戻ってきた匂いを、母親は「花」と呼んだ。
少女は首を振る。
「薬」
「花よ。あなたが赤ちゃんの時、私が付けていた香油」
「苦い薬」
感覚断片は、意味を持って帰ってこない。
同じ匂いが、母には抱擁で、子には発熱の夜だった。
ユノが説明しようと口を開く。
閉じる。
自分の言葉で二人の記憶を一つの美しい母子像へしない。
「二人とも違う意味で覚えている」とだけ言う。
「どっちが本当」と母。
「匂いが同じだったこと。意味は同じとは確認できない」
「王子なのに決めないのね」
「王子だから決めてきた。今は決めない練習をしている」
少女が笑う。
「下手?」
「かなり」
「継続して」とリゼ。
「家族の前で厳しい」
少女は匂いを一呼吸だけ受け取る。
すぐ蓋をする。
「薬だった」
母は泣かない。
「そう」と言う。
花だったことへ訂正しない。
返還官の台帳は、受領と拒否の二列から崩れた。
部分受領。
条件付き受領。
第三者同席。
非閲覧保管。
本人再確認待ち。
生活交代者待ち。
「欄が足りません」と返還官。
「人を欄へ減らすな」とリゼ。
「帳面を増やす予算が」
「王家の記憶庫へ、帳面代くらいあるでしょう」
ユノが言う。
「僕の儀礼衣装予算を止める」
「殿下の公務衣装は外交上――」
「今朝、都市が百枚に分かれた。衣装を同じ数用意するより安い」
ハルが見る。
「百着のユノ」
「悪夢だね」
「本人が言う?」
「一着でも管理が大変なんだ」
掛け合いの間に、トーヴは返還量を数えた。
全部を受け取った者、一。
部分受領、三。
保留、五。
拒否、二。
返還機関の光は、全量返還一件で大きく揺れた。
部分受領三件では、別々の細い脈へ分かれた。
「量だけでなく、返し方でも負荷の集まり方が違う」とエリア。
「現時点では観測十一件」とセレナ。
「少ない?」とハル。
「結論には。仮説には使えます」
ユノは二列だった台帳を見る。
制度は、人間を扱いやすくするため分類する。
分類そのものが悪いのではない。
分類を変えられない時、人間の方が例外になる。
「例外欄を増やす」とユノ。
「例外を増やしたら、例外ではない」とリゼ。
「では、選択欄」
「それも固定しすぎる」
「何と書く」
リゼは空欄を一つ作る。
『本人の言葉』
「長文になる」と返還官。
「人だから」
その空欄が、後に都市を救う負荷分散の最小単位になるとは、この時点では誰も断定しなかった。
ただ、同じ返還を全員へ行わないと決めた。
それだけで、返還所の壁に増えていた像が一枚、重ならずに残った。