第390話 第三章「記憶の通行料」後編
ユノたちは返還所を出て、七面王都の南街区を歩いた。
歩く、と言っても、同じ石畳が三つに見える。
一本目は朝の市場。
二本目はまだ閉店中。
三本目は正午の影を落としている。
ユノの耳鳴りは、鏡が多いほど高くなる。
右耳に持続音。
左耳に断続。
頭痛、一。
アルマはリゼが持っている。
「自分で持てます」とユノ。
「右薬指、痛み二」
「一・五」
「小数で軽くするな」
「外交では小数が戦争を止める」
「医療では止めない」
リゼはケースを返さない。
兄を守るためではない。
兄が自分の痛みを演出へ使わないため、本人が申告した条件どおり持つ。
ユノは不満を言わない。
言えば妹が勝つ。
言わなくても既に勝っている。
「返還量と複製数、相関が出ました」
トーヴが脚注札を広げる。
街区ごとの表。
第一南街区。
返還済み二百十二件。街路像四つ。
第二南街区。
返還済み六十七件。街路像二つ。
旧朝市区。
返還済み五件。街路像一つ。
王家周辺区。
返還処理中千件以上。塔像十三。
「返すほど増える」とハル。
「そう見えます」とトーヴ。「ただし、返還件数が多い場所ほど門利用者も多く、閉鎖門数も多い」
「全部一緒に増えてる」
「だから原因を一つへ絞れない」
「でも関係はある」とエリア。
「強い」
ユノは表を見る。
「記憶の内容は関係する?」
「現時点で、内容別の差はありません」とトーヴ。「喜び、悲嘆、味覚、痛覚。返還された感情の種類ではなく、量に連動している」
「悲しい記憶が街を壊す、ではない」とハル。
「その物語は分かりやすい」とユノ。
「だから違う?」
「分かりやすさは反証にならない。ただ、僕たちは分かりやすい物語へ寄りすぎる」
「お前が言うと説得力ある」
「褒めていないね」
「継続したら」
「本当に感染している」
ユノは笑う。
完璧な微笑みではない。
片側だけ遅れる。
南街区の古い鏡門庁には、記憶通行料の台帳が残っていた。
紙ではない。
薄い鏡片へ、通行者ごとの光角が刻まれている。
名前の横に、記憶の内容はない。
『香り・一単位』
『声・三拍』
『痛覚・左掌』
『顔貌・輪郭のみ』
「内容を書かない配慮?」とハル。
「または、内容に興味がなかった」とトーヴ。
彼は眼鏡を二段階に開き、刻印へ顔を近づける。
「ここを」
記憶種別の横に、細い数字がある。
十二桁。
通行時刻でも料金でもない。
「位相番号」とエリア。
「古い鏡門技術の用語では、通行者を同時刻の他者と区別する番号です」
「名前じゃだめ?」とハル。
「同名がいる。偽名もある。名前を持たない者もいる」
「身体の特徴」
「変わる。傷つく。成長する」
「記憶なら一人ずつ違う」とリゼ。
声が冷える。
「だから取った?」
トーヴはすぐ答えない。
「可能性があります」
「門を動かす燃料じゃなく、通行者へ番号を付ける札」
「少なくとも、二つの役割を持っていた。誓力の代価と、位相識別」
「王家は説明した?」とユノ。
「現行教本には代価とだけ」
「古い教本」
「『旅人の唯一性を門へ渡す』」
「美しい言い方」とリゼ。
「嫌いですか」
「美しい言葉で盗られると、盗られた方が感謝しなきゃいけなくなる」
ユノは古い鏡片を見た。
自分は、美しい説明で争いを止めてきた。
説明が真実を含むほど、人はそこから外れにくくなる。
「記憶を戻したら、番号はどうなる」
「返還処理は、記憶内容を本人へ戻す。位相番号の再発行手順は見つかっていません」
「番号なしの通行が増える」
「全員、同じ既定番号へ落ちている可能性」
「同じ位相」とエリア。
百の朝。
同じ街が、異なる時刻へ見える。
別々だった通行路が、一つの番号へ重なる。
「だから返すほど街が増える?」とハル。
「仮説です」とトーヴ。
「閉じるほど増えるのは」
「閉じた門の負荷が、同じ既定番号の開門へ集中する」
ロロの計測とつながる。
記憶返還。
門閉鎖。
二つは別の事故ではない。
記憶が通行者を分けていた。
閉鎖した門が負荷を分ける出口を減らした。
同じ番号へ、同じ光と重力が集まる。
「じゃあ、記憶をもう一回取れば直る?」
返還官が言った。
最も早い解決である。
最も古い解決でもある。
ユノは即答しなかった。
片手袋の鏡磨きを見る。
返されたくない記憶を前に、椅子へ座っている。
朝鐘見習いを見る。
返してほしい記憶を前に、先生を待っている。
二人の望みは逆だ。
だから、どちらも本人の望みである。
「取らない」
ユノは言う。
「都市が落ちます」と返還官。
「別の識別札を作る」
「記憶ほど一人ずつ違うものはない」
「違うものを、本人の内側から奪う必要はない」
「時間が」
「ない。だから考える」
「考えている間に死者が出たら」
「僕の責任にもなる」
「責任で門は動きません」
「知っている」
ロロと同じ言葉を、別の場所で受ける。
責任は機械を動かさない。
しかし、責任を理由に人間を燃料へ戻すこともできない。
「ユノ」とハル。
「何」
「難しく言うな。何を守る」
ユノは答える。
「選んだ後の本人」
「都市は」
「守る」
「両方?」
「両方」
「無理かも」
「うん」
「それでも?」
「無理だと決める権限を、僕一人へ集めない」
仮説を確かめるため、返還所の一件だけを動かした。
朝鐘見習いの記憶は戻さない。
片手袋の鏡磨きの記憶も戻さない。
代わりに、古い位相番号だけを仮の空札へ移す。
記憶内容へ触れず、番号の器だけ作る。
ロロが薄い銅板へ十二桁を打つ。
「これで門が人を区別できる?」
「一回だけ。複製できるから恒久は無理」
「試験」とセレナ。
「試験。成功しても解決じゃねえ」
片手袋の鏡磨きの前へ、空札を置く。
「触らなくていい」とユノ。「使うことにも同意しなくていい」
「道を作るのに?」
「拒否した場合の結果も確かめる」
「私の拒否を実験にする?」
「あなたが望まないなら、しない」
彼女は右手で椅子を二度叩く。
「やって。拒否したまま通れるか見たい」
「記録範囲」とセレナ。
「門の温度と道の数。私の記憶は書かない」
「了解」
空札を鏡枠へ近づける。
門が細く開く。
壁の二重像が、一瞬だけ一つになる。
「効いた」とハル。
次の瞬間、空札の数字が全て同じ零へ戻った。
門が閉じる。
返還所から避難所へ続く光路が消えた。
床が裂れる。
正確には、二つの床が別方向へずれた。
片手袋の鏡磨きの椅子が、その間へ傾く。
ハルとユノが同時につかむ。
ハルは椅子の背。
ユノは女性の右手。
右薬指が伸びないため、左手で握る。
「離して」と女性。
「落ちます」とユノ。
「記憶を受け取れば、道が開くんでしょう」
返還官が答えそうになる。
ユノが先に言う。
「開く可能性はある。でも、受け取らなくていい」
「七十六人が待ってる」
「それをあなた一人の責任にしない」
「都市が落ちる」
「あなたを燃料にして立つ都市を、守ったとは呼ばない」
床の裂け目が広がる。
カイルの盾が下へ入る。
「右腕、六拍!」
「五」とセレナ。
「五!」
エリアが椅子までの短い光路を描く。
「測定済み、一・八メートル。戻る道だけ」
「戻る?」と女性。
「進まなくてもよい道です」
ハルが椅子を引く。
女性は記憶を受け取らない。
避難路は開かない。
後続七十六件の返還も止まる。
返還官たちの顔に焦りが広がる。
誰か一人が、善意で彼女の光糸へ触れれば、全てが進むかもしれない。
ユノはアルマを取らない。
人々へ、彼女が受け取った未来を見せない。
「止めたままにする」
「いつまで」と返還官。
ユノは答えられない。
答えられないことを、美しい永遠へ言い換えない。
「次の安全な方法ができるまで」
「期限がありません」
「……そうだ」
期限のない保留は、守ることと放置することの境にある。
ユノは、その欠陥を認める。
片手袋の鏡磨きは、戻らない記憶を見た。
「王子」
「はい」
「止めるなら、止めたまま忘れないで」
「忘れません」と言いかける。
記憶を扱う場所で、守れない断言はしない。
「記録して、戻ってくる」
セレナが証羽を伏せて置く。
「本人の記憶内容は記録しません。停止時刻、再確認条件、担当者名だけ」
「担当者」
ユノが自分の名を書く。
『ユノ・ヴァレント。次の確認まで、王家権限で受領を強制しない』
署名の下へ、空欄がある。
『次回確認時刻』
書けない。
都市の朝が百方向へ分かれ、正しい時計がない。
期限を決める時計すら、今は一つではなかった。
返還所の外で、朝鐘が鳴る。
六時の鐘。
七時の鐘。
正午の鐘。
全て同じ塔から来る。
止めた救助路の向こうで、七十六人が待っている。
一人の住民が記憶を拒否したためではない。
拒否を許したまま通れる道を、都市が持っていなかったために。