第398話 第七章「王家の記憶庫」後編
庫の中央部には、棚ではなく卓があった。
長い卓。
その上に、七面王都の行政地図。
地図へ無数の小さな鏡粒が刺さっている。
赤。
青。
黒。
黄色。
「これは返還台帳ではない」とセレナ。
トーヴの眼鏡が光る。
「統治傾向図です」
「その『傾向』の範囲を定義してください」
「ここへ定義があります」
卓の引き出しに、古い運用書があった。
トーヴはページへ触る前に手袋を替える。
紙の端へ、王家印。
『赤――武装官を見た際の恐怖反応』
『青――税門通過時の抵抗感』
『黒――他国語への嫌悪または警戒』
『黄――王族像への親和』
記憶の中身を、その人へ返すための分類ではない。
住民を扱いやすくする分類だった。
「人の記憶で、街の機嫌を測っていた」とハル。
「機嫌ではありません」と返還官が言う。「暴動予防です」
「暴動する前の人を、暴動しそうな色に塗る?」
「治安維持のため、危険を予測する」
「恐がった人が危険なの?」
「恐怖が集団化すれば」
「恐がらせた側は何色だ」
返還官は答えない。
ハルの声が低くなる。
肩書を呼ばない時の声。
「税門で手が震えたら、税が高いんじゃなくて、その人が青になる。兵士を見て怖かったら、兵士が怖いんじゃなくて、その人が赤になる。便利だな。原因を全部、測られた方へ戻せる」
「事実だけを」とセレナ。
ハルを見る。
「今の推論は、運用書の記載から合理的ですが、実際の運用例が必要です」
「分かった」
彼は怒りを引っ込めない。
証拠へ変える。
卓の下から、実施簿が見つかる。
黒鏡通り。
武装官増員。
理由――恐怖反応の上昇。
その翌週。
同通りで抵抗事件。
増員が抵抗を生んだ可能性。
抵抗の予測が抵抗を作った可能性。
しかし実施簿だけでは因果を断定できない。
セレナは書く。
『恐怖反応の上昇を根拠として武装官を増員した事実。増員後に抵抗事件が発生。因果は未確定』
「弱い書き方ですね」と返還官。
「強く見える誤りより、弱く見える事実を選びます」
ユノは地図の黄色い鏡粒を見る。
王族像への親和。
「私の演奏会の後、黄色が増えている」
「殿下の外交成果です」と返還官。
「私の幻像を見せた後、人々が王家を好んだという記憶だけ集めた?」
「親和の上昇を確認した」
「反対した人の記憶は」
「黒か赤へ」
ユノの微笑みが崩れる。
目元から先に。
「演出で同意を作り、同意した記憶を証拠に、次の演出を正当化した」
「王国の安定に寄与しました」
「安定という言葉は、揺れない人の側からしか見えない」
敬語が落ちる。
「僕が止める」
「殿下」
「今、王家権限で運用停止を命じる――」
「待って」とリゼ。
ユノが止まる。
「王家権限で止めるの?」
「今すぐ止めなければ使われる」
「止めた後、兄さんが再開できる」
「しない」
「兄さんがしなくても、次の王がする」
「では法へ」
「今は都市が壊れてる。永続法を二分で作らないで」
ネムの空拍が、遠い土地から届いたようだった。
決めないことを永遠へしない。
決めることを永遠へもしない。
ユノは代理印を下ろす。
「二十四時間の緊急停止。再開には、王家以外の監査者二名と、当事者窓口の承認が必要。恒久法は住民手続きへ」
「当事者窓口は未設置です」とトーヴ。
「だから再開できない」
「一時的な安全弁としては合理的です」
「脚注は」
「九つ」
「多い」
「少なくしました」
記憶庫の最奥に、紙があった。
鏡でも、香油でも、銀糸でもない。
普通の紙。
普通すぎて、王家の保管庫では異物だった。
ハルが足を止める。
紙は透明板の中に挟まれている。
鏡砂環の外縁を、鉛筆で描いた手書き地図。
線は歪んでいる。
方位記号はこの世界のものではない。
地球で使う北向きの矢印に似ていた。
道の角へ、小さな丸。
坂には短い斜線。
迷いやすい分岐には、二重の下線。
凪浜配送店の配達地図で、父ソウジが使っていた印だった。
ハルの親指が、羅針盤の蓋を弾く。
一回。
二回。
三回。
四回。
「触らないで」とセレナ。
「触ってない」
指は透明板から一寸離れている。
「これ」
「事実を順に」
「父さんの字に似てる」
「似ている、まで」
「丸の付け方。配達先じゃなくて、戻る角へ丸を付ける。坂の線。鉛筆を寝かせてる」
声が速くなる。
「右上の汚れも。父さん、考える時に鉛筆の尻を噛む。黒鉛が指へ付いて、紙の右上を押さえるから――」
「ハル」
エリアはいない。
代わりに、セレナが名を呼ぶ。
「一つずつ」
ハルは息を吸う。
左肩を回す。
「地図がある。地球式に似た方位矢印。父さんの癖に似た印。紙の右上に黒鉛汚れ」
「署名は」
「ない」
「年代」
トーヴが保存枠の番号を読む。
「十五年前から十一年前の間。再複写は九年前。原本所在、記載なし」
「俺が七歳の時より前か後か、広すぎる」
「そうです」
「父さんがここに来た?」
「可能性はあります」とセレナ。「この写しだけで、本人の通行は証明できない。誰かが地図を持ち込んだ可能性、別人が同じ記号を使った可能性、写しが後から作られた可能性」
「分かってる」
分かっている、と言いながら、目は紙から離れない。
待合室で鳴らない電話を見続ける目だった。
「持っていく」とハル。
「原資料は不可」
「じゃ写す」
「緊急立入の目的外です」
「後で消えるかもしれない」
「だから外形を記録します」
「記録が残っても、俺が見られなきゃ」
セレナは返答前に、単眼鏡の縁を押す。
規則を守ればよい場面ではない。
規則を破ればよい場面でもない。
「透明板の外形、紙寸法、線の位置、筆圧を証羽へ記録します。災害後、正式な複写申請を私が提出する。申請却下の場合、却下理由を公開記録へ残す」
「今、写さない?」
「今は人を救うために来た」
ハルの顎が上がる。
怒っている。
それでも、紙を奪わない。
「忘れたら」
「私が覚えているとは言いません」
「記録する?」
「外形だけ」
「中身は地図だ」
「見えている線は外形です。意味はまだ確定していない」
ハルは羅針盤の蓋を閉じる。
「分かった」
「納得しましたか」
「してない。でも分かった」
同意と妨げないことが違うように、理解と納得も違う。
セレナは、その違いを記録したくなる。
しない。
それは彼の内側にある。
庫の中心機関は、巨大な円形鏡だった。
鏡面へ人は映らない。
代わりに、無数の番号が浮いている。
門番号。
位相番号。
返還待ち番号。
未確認番号。
全ての記憶断片は、ここで一度「中立位相」へ置かれ、そこから各人へ返される仕組みだった。
「中立」とトーヴが読む。
「誰に対して」とハル。
「王家の定義上、どの街区にも属さない位相です」
ロロが鏡の裏へ潜る。
「属さないんじゃない。全部がここへ属するよう番号振ってる」
「同じことでは?」と返還官。
「逆だよ! どこにも属さない空箱じゃねえ。全部を一回ここへ寄せる集荷場だ!」
ハルが反応する。
「配送センター」
「そう。荷物を各家へ返す前に、一つの倉庫へ集める。普段は順番に出るからいい。今は返還契約が一斉解除され、閉じた門からも記憶が逆流してる」
「この庫が、同じ位相へ集めている」とセレナ。
「たぶん。確かめるには中央鏡の負荷弁を――」
「開ければ逃がせる?」とユノ。
ロロは答えない。
鏡裏から出て、右ゴーグルを外す。
片目をこする。
「分からねえ」
「時間がありません」と返還官。「正午位相が拡大している。庫を開き、記憶を所有者へ返せば負荷は分散する」
「戻すのを拒否した人もいる」とリゼ。
「緊急時です」
「緊急時は人格が安くなる?」
「都市が消えれば人格もない」
「その二択を作ったのは都市の側」
「では何をする!」
返還官の声が棚へ反響する。
数百人の怒鳴り声に増える。
その中に、泣き声が混じった。
誰かの記憶断片か。
今の反響か。
セレナには判別できない。
「事実だけを」と自分へ言う。
中央鏡の周囲に、四つの弁がある。
一つは返還。
一つは封印。
一つは分類。
一つは廃棄。
廃棄弁だけ、王家印が二重だった。
「開放ではなく、試験をします」とセレナ。
「何を」
「一つの無所有断片を、庫外の空棚へ移す。所有者が確認できず、内容を閲覧しないもの。移動前後の負荷だけ測る」
「人の記憶を試験材料に?」
「既に王家が無所有と分類した断片です。その分類自体の正当性は別途監査する。今は内容を見ず、容器ごと移す」
完璧な倫理ではない。
災害現場に、完璧な倫理は用意されていない。
だから不完全さを隠さず、誰が何を決め、どこまで戻せるかを残す。
リゼが言う。
「移動後、元の棚へ戻せる?」
「物理的には」とロロ。
「記録上は」とトーヴ。
「移動履歴を削除しない」とセレナ。
「なら妨げない」
無所有断片の箱を一つ選ぶ。
内容表示は伏せる。
ハルとユノが持ち、ロロの仮設導光線へ乗せる。
重量は軽い。
人の過去は、持ち上げる時だけ軽い。
背負わせる時に重くなる。
弁を一段開く。
箱が中央鏡を通る。
庫外の空棚へ移る。
「負荷」とセレナ。
「中央、三上昇」とロロ。
「下がらない?」
「待て」
四。
六。
九。
中央鏡の番号が増殖した。
一つの箱へ、同じ位相番号が百枚付く。
「閉じろ!」
ロロが弁へ飛びつく。
補助腕が一本、鏡枠へ挟まる。
金属音。
補助腕の肘が逆へ曲がる。
「一本停止!」
「撤退条件」とセレナ。
「まだ三本――」
「一系統停止で撤退と申告した」
「でも弁が!」
「誰に助けを求めます」
ロロの口が開く。
工具名が出ない。
「ハル!」
本名だった。
ハルが走る。
「どこ持つ!」
「青い軸! 左へ二回、戻して半回!」
「二回半?」
「二、戻す、半! まとめんな!」
ハルが青軸へ両手を掛ける。
左肩が鳴る。
「肩!」とセレナ。
「一!」
「数字を軽く言うな!」とロロ。
「本当に一!」
「上がったら離せ!」
ハルが回す。
二回。
戻す。
半回。
弁が閉じかける。
中央鏡が、白く膨らむ。
移した一箱の中身が、庫中へ漏れた。
映像ではない。
冷たい水。
息ができない感覚。
遠くで鳴る木の鐘。
誰かの手を離した指の痛み。
全員が同じ断片を受ける。
ハルは溺れたと思い、床を蹴る。
ユノは誰かを失ったと思い、右手を伸ばす。
返還官は「洪水事故だ」と叫ぶ。
セレナは膝をつきながら言う。
「解釈するな!」
水はない。
濡れていない。
木の鐘が洪水の鐘だった証拠もない。
手を離した相手が人だった証拠もない。
「感覚断片です! 原因を補わない!」
自分の肺は空気を吸っている。
右手を床へつく。
乾いている。
機関時計は十二時七分四秒。
事実を身体へ戻す。
ユノが目を閉じる。
「床は乾いている」
リゼが言う。
「私は立っている」
ハルが言う。
「ロロの腕が挟まってる」
「最後が一番現実だ!」
ロロの補助腕を、青軸から外す。
一本は完全に垂れた。
「撤退」とロロ。
今度は自分で言う。
中央鏡の番号は減らない。
一箱を外へ出したことで、その箱が百の位相へ複製された。
「仮説を訂正」とセレナ。
息を整える。
「庫を開けば負荷が逃げる、は反証された。少なくとも現状の中立位相を経由する開放は、同位相への集中を最大化する」
「つまり」とハル。
「集荷場の扉を開けたら、荷物が出るんじゃなく、住所札が全部同じになった」
「最悪の配送センターだな」
「お前の例えだと修理費が軽く見える!」
庫の棚が動き始める。
一本ずつではない。
列ごと。
壁ごと。
地下空間そのものが、巨大な万華鏡の筒のように捻れる。
箱の森が、六角形へ折れる。
「出口!」とセレナ。
「白七、黒七、木七、砂七!」
ハルが先へ出る。
床が壁へ変わる前に走る。
ユノはリゼの腕をつかまない。
「右、行ける?」
「自分で走る。面紗の端だけ見て」
「分かった」
彼は半歩後ろを走る。
トーヴの眼鏡が落ちる。
世界が彼にとって一歩先で消える。
「動かないで!」とセレナ。
証羽を一本、床へ刺す。
黒い羽根が眼鏡の位置を示す。
しかし棚が倒れる。
眼鏡と、王家実施簿の一箱が、別々の方向へ滑った。
トーヴが実施簿へ手を伸ばす。
セレナは眼鏡を取る。
「資料が!」
「あなたが読めなければ資料ではない」
「唯一の実施簿です!」
「複写番号を記録した」
「原本の紙質が――」
棚が落ちる。
実施簿の箱が鏡裂へ消える。
トーヴの顔が白くなる。
セレナは眼鏡を彼の手へ押しつける。
「損失を記録します。救えなかった理由も。資料を失った責任は、後で私が負う」
「私もです」
「走って」
証拠を守るため人を残す星律官ではなく、人を連れ帰り、失った証拠を失ったと記録する星律官になる。
完全な記録は失われた。
だから事件の事実まで失われるわけではない。
彼らは走る。
庫の出口が、四つへ増える。
一つは白石の階段。
一つは黒硝子。
一つは木。
一つは砂。
順番が違う。
「白七から!」とハル。
「根拠」とセレナ。
「入る時、最初が白。俺の足が覚えてる」
「今の位相で同じとは限らない」とトーヴ。
「分かってる。だから一段だけ!」
ハルが白石へ足を置く。
響きが返る。
一拍遅れ。
「違う!」
次、木。
乾いた音。
二拍。
黒硝子。
音がない。
砂。
足裏へ、今朝の旧市場と同じ粗い粒。
「砂!」
全員が飛び込む。
後ろで中央鏡が割れる。
割れたのではない。
同じ一枚が、百の角度へ開いた。
地上へ出た時、中央宮殿は塔ではなかった。
六角形の鏡片を積み上げた、巨大な筒になっていた。
王都の街路が、その筒の内側へ映る。
市場。
学校。
井戸。
法廷列車。
ゼロスター号。
全てが百枚ずつ。
正午の光が、中央へ集まり続ける。
ロロが片膝をつき、残った三本の補助腕で計測器を支える。
「最大値、更新。庫を開けたせいで、中立位相が全記憶を同じ時刻へ縛った」
「閉じ直せますか」とフリードリヒ。
「閉じたら別の鏡へ飛ぶ!」
「では何を提案する」
「一つへ集めない。住所を記憶じゃなく、今ある物で付け直す」
エリアが透明板を上げる。
時刻。
風。
砂。
前半で集めた三つの証拠。
「同じ位相へ戻すのではありません」
彼女の淡緑の瞳に、百の都市が映る。
「それぞれが、戻れる道を描きます」
中央塔が一段、回った。
王家が保管した過去が、街の現在を百倍にした。
次の一段で、王都そのものが回り始める。