第397話 第七章「王家の記憶庫」前編

国家が記憶を集め始める理由は、たいてい善意である。

 戦争で家を失った者の名を忘れないため。

 災害で途切れた家系をつなぐため。

 旅人が門の向こうへ置いてきた過去を、いつか返せるようにするため。

 善意は保存箱へ入れられた瞬間から、別の用途を持つ。

 誰が何を恐れたか。

 どの道で怒ったか。

 どの国の制服を見て脈が速くなったか。

 どの税札へ手が震えたか。

 記憶は人を理解する手掛かりになり、理解は人を予測する手段になり、予測は人を先回りして扱う権力になる。

 王家の記憶庫は、忘れ物置き場として始まった。

 歴史の途中で、忘れ物をした人間の方を分類する場所になった。

 正午が百方向から来ると、影は消えない。

 逃げ場を失う。

 中央塔の階段を降りるセレナ・クロウの影は、右壁に一つ、左壁に二つ、天井へ細長く三つ、足元へ輪のように四つあった。

 そのどれも、彼女の動きから半拍ずれている。

 左眼の単眼鏡を通すと、遅れが余計に大きく見えた。

「外形記録。中央塔地下、第三隔壁。機関時計、正午十二時三分十一秒」

 黒い証羽が、彼女の右肩の高さを滑る。

「影像は記録しない。通路形状と温度だけ」

「なぜ影は記録しないのです」と、王家の返還官が尋ねる。

「誰のどの時刻の姿か確定していないからです」

「全て星律官殿の影でしょう」

「そう見える、までです」

「慎重すぎる」

「雑すぎる人には、慎重が過剰に見えます」

 返還官は口を閉じた。

 セレナは勝ったと思わない。

 言い負かすことは、立証ではない。

 今の言葉を証羽へ入れなかった。

 彼女の後ろを、ユノ、リゼ、トーヴ、ハル、ロロが続く。

 カイルとエリアは地上の避難路を保つため残った。フリードリヒは全門封鎖に使った封鎖針を一本ずつ解除している。解除は遅い。遅いことを隠さず、時刻表へ書いた。

 王盾炎は中央塔の外周で使われていた。

 カイルは出発前、右籠手を左拳で二度叩いた。

「十二拍だ。十三拍目は張れない。十二拍の中で帰れない時は、俺を待たず次の遮蔽へ移れ」

 以前の彼なら、十五拍と言った。

 そして十六拍目まで立った。

 今は十二拍と言い、十二拍で交代する者を二人決めた。

 英雄譚としては弱くなる。

 救難計画としては強くなる。

 地下へ続く階段は、七段ごとに素材が変わった。

 白石。

 黒硝子。

 乾いた木。

 鏡砂を固めた銀灰の板。

 ハルは足裏で数える。

「白七、黒七、木七、砂七」

「地図を見れば書いてあります」とトーヴ。

「地図が回ったら?」

「紙は回りません」

「床が回る」

「その場合、あなたの足も回ります」

「だから段差を覚える」

「反論が雑なのに有用なのが腹立たしいですね」

 トーヴは脚注札へ書き足す。

 ロロの右ゴーグルが青く明滅した。

「裏面温度、三度低下。下へ行くほど冷えてる」

「負荷が上に集中している?」とユノ。

「逆かもしれねえ。上が熱いから下が冷たいんじゃなく、下から何か吸い上げてる。温度は結果だ。原因の顔して座らせるな」

「機械にも冤罪があるのですね」

「人間が勝手に部品へ罪状を付けるんだよ」

 セレナはそれを記録する。

「比喩です」とロロ。

「後で構造説明へ直してください」

「俺の感情まで図面にしろって?」

「あなたは感情だけ機械比喩で話すでしょう」

「観察すんな!」

 補助腕の一本が、驚いて天井を指した。

 天井に扉があった。

 先ほどまでは正面だった扉である。

 階段の重力が九十度折れた。

「止まって」とリゼ。

 全員が手すりへつかまる。

 彼女は薄墨の面紗の下で片目を細めた。

「扉の縁。金が三、紫が一。現実位置の確度は三分の一。開いた先が庫である確度は四分の三。王家表示は全部金に塗ってる」

「見栄えを優先したのだろうね」とユノ。

「兄さんの得意分野」

「返す言葉がない」

「返さなくていい。勝手に美しく言い換えないなら」

 ユノは目を伏せる。

 右手の薬指が、白いヴァイオリンの弦を押さえる形で固まっていた。演奏していないのに、身体が楽器を探している。

 セレナは見た。

 記録しない。

 身体の不随意な動きは、事件の証拠ではない。

 ただし本人の限界としては、救難計画へ入れる。

「右手の状態」

「痛み二。反響音は四。長い演奏はしない」

「しない、で確定します」

「必要になったら」

「必要性をあなた一人で確定しない」

 リゼが言う。

 ユノは頷いた。

 王家の記憶庫へ入る扉には、取っ手がなかった。

 代わりに、人の顔ほどの曇り鏡が埋め込まれている。

 鏡面へ文字が浮く。

『本人確認のため、最初に失った記憶を一片提示せよ』

「お断り」とリゼ。

「同意します」とセレナ。

「入れないぞ」と返還官。

「その認証は今の災害条件で、同じ位相へ記憶を追加します」とロロ。「火事場の入口で、火を一束持ってこいって言ってるようなもんだ」

「王家の最高機密です。本人確認なしに――」

「では入らない」とリゼ。

「都市が壊れます」

「私の記憶を差し出さないと都市が壊れる仕組みを作った人へ言って」

 返還官の喉が動く。

 善意を拒まれた者は、悪意を拒まれた者より傷ついた顔をすることがある。

 自分が相手のために用意した正解が、相手にとっては檻だったと知るからだ。

 トーヴが折り畳み眼鏡を一枚増やす。

「脚注を一つ。これは本人確認ではありません」

「何です」

「王家が保有している過去との一致確認です。現在の本人を確認していない」

「同じことだ」

「違います」

 トーヴの声から、長文が消えた。

「同じではない」

 リゼは曇り鏡へ正面を向かない。

「私の最初に失った記憶を王家が知っているなら、王家が私を演じられるだけ」

 ハルが扉の下へしゃがむ。

「物理鍵は?」

「殿下、今は倫理の話です」とセレナ。

「分かってる。でも倫理が正しくても扉は開かない」

「逆です。倫理を壊して開けた扉は、後で閉じられません」

「じゃ、壊さず開ける物理鍵」

 ロロも隣へしゃがる。

「呼ばれる前に触るなよ」

「まだ触ってない」

「指が三ミリ出てる」

「測るな」

「測らず修理できるか!」

 扉下には、砂を払う細い溝があった。

 旅人が靴底の砂を落とすためのものではない。

 曇り鏡から落ちた光を、左右へ逃がす導光溝だった。

 ロロが針を差す。

 補助腕二本で温度を取り、一本で裏側を叩き、最後の一本でハルの手首を押さえた。

「触んな」

「俺を?」

「扉を」

「信用ないな」

「実績がある」

 青い光が溝を走る。

 右へ七。

 左へ九。

 中央へ一。

「認証鏡は記憶そのものを読んでない。入れた記憶へ位相番号を付けて、左右の溝へ振り分けてる」

「番号を物理的に代替できますか」とセレナ。

「今朝集めた三つなら」

 ハルが配達鞄から出す。

 公共時計の時刻を打った薄板。

 風向きを示す羽根。

 旧市場の砂粒を封じた小瓶。

 私人の過去ではない。

 今ここにある世界の状態。

「この三つを同じ位相番号へ変換する」

「成功率」とセレナ。

「六割」

「低い」

「七割って言えば上がる?」

「上がりません」

「じゃ六割。失敗したら扉は開かず、溝が焼ける。爆発はしない。たぶん」

「最後を削除」

「爆発しない設計だ。今の網が設計どおりなら」

「前提を明示。よい」

 セレナは扉を開ける権限を自分で出さない。

 この国の庫であり、この国の人々の記憶である。

 ユノへ視線を向ける。

 彼は父王の代理印を持っていた。

 先ほどまでなら、それを押せば済んだ。

 今は、押す前にリゼを見る。

「王家権限で、外形と運用記録への緊急立入を提案する。個別記憶の内容は閲覧しない。記録しない。持ち出さない。異議は」

「期限」とリゼ。

「中央塔の負荷測定が終わるまで。最長二十分」

「途中撤回」

「一人でも撤回を表明したら個別棚から離れる」

「見えたものは消せない」

「見えないよう、鏡面を伏せて進む」

「完全には防げない」

「防げなかった時は、見た本人が内容を口にしない。セレナは外形だけ記録。トーヴは棚番号だけ」

「私の棚に近づかない」

「分かった」

「今の私へ聞いた?」

「聞いた」

 リゼは一度瞬く。

「異議なし。賛成ではない。緊急立入を妨げない」

 同意と妨げないことは違う。

 違いを言葉へ残せる制度は、急いでいる時ほど価値がある。

 ロロが三つの公共標識を導光溝へ接続した。

 時計の金属板を右。

 風向羽根を左。

 砂瓶を中央。

「風、南東三。砂温、二十七。時計、十二時四分二十二秒。位相札へ変換」

 補助腕が一斉に回る。

 ロロが咳をした。

 一度。

 二度目の前に吸入筒を口へ当てる。

 隠さない。

「呼吸、戻った。右眼、像が二重。十七分で交代」

「申告を記録」とセレナ。

「料金取るぞ」

「公費請求先を後で指定します」

「やった!」

 喜ぶところが、そこだった。

 扉の鏡に、三つの印が浮く。

 時刻。

 風。

 砂。

『現在位相、暫定確認』

 初めて、扉は過去ではなく現在で人を認めた。

 音もなく開く。

 冷気が出た。

 次に、焼いた砂糖の匂い。

 濡れた羊毛の感触。

 銅貨を舐めたような味。

 誰も何も口へ入れていないのに、舌の奥へ血の味が来る。

 ハルが顔をしかめる。

「今の、誰の?」

「問わない」とセレナ。

「でも」

「救助上必要な情報でない限り、問わない」

 記憶庫は、映像の並ぶ美しい宮殿ではなかった。

 地下へ広がる、低い棚の森だった。

 箱。

 管。

 薄い鏡片。

 色のない香油瓶。

 音を封じた銀糸。

 触覚を保存する毛織布。

 人は記憶を目で見るものだと思いがちだ。

 実際の記憶は、目だけでできていない。

 匂いだけ残り、顔を失うことがある。

 痛みだけ残り、理由を失うことがある。

 声の高さだけ残り、言葉を失うことがある。

 王家の記憶庫は、そうした欠けた断片を、完全な過去であるかのように番号で並べていた。

 入口の床へ、文字が刻まれている。

『感覚断片は、本人の真実を証明する』

 トーヴが立ち止まった。

「違う」

 彼は指で文字を括る。

「感覚断片が証明するのは、その感覚が保存されたことだけです。原因、対象、前後関係、本人の現在解釈を証明しない」

「碑文へ訂正札を」とセレナ。

「今?」

「今です」

「都市が百枚に割れている最中に?」

「最中だからです。後で誰かがこの碑文だけ見て、庫の記憶を完全証言として使う」

「星律官殿、あなたは急ぐ時ほど仕事を増やしますね」

「あなたは急がない時でも脚注を増やすでしょう」

「反論できません」

 トーヴは薄い札へ書く。

『感覚断片は、保存時点の一部であり、原因・人物・同意を単独では証明しない』

 元の碑文を削らない。

 間違いがあった事実ごと残す。

 棚の間を進む。

 一つの箱が震える。

 中から、子どもの笑い声が漏れた。

 ユノの足が止まる。

 リゼは止まらない。

「母の声に似ている?」

「分からない」

「なら、似ている顔をしないで」

「していた?」

「目だけ」

「ごめん」

「謝罪で私の記憶にしないで」

「分かった」

 箱の札には、母の名がない。

 ただ、年代と門番号と、徴収された感覚の種類がある。

『音声・幼児笑声・所有者未確認』

 ユノは弓へ触れない。

 箱を開ければ、誰かの子ども時代が聞こえる。

 それが妹のものかもしれない。

 違うかもしれない。

 似ているというだけで、家族の過去へしてよい理由にはならない。

 彼らは通り過ぎた。

 セレナは棚番号だけ記録する。

 内容は書かない。

 黒い証羽を、一枚だけ伏せて置く。

 記録しない選択を、外形として残すために。