第396話 第六章「決められない王」後編

 脱皮溝へ向かう道は、地図では道ではなかった。

 王獣が前季に皮を落とした跡。

 深い溝へ、白い外皮が橋のように残っている。

 歩けば鳴る。

 乾けば割れる。

 雨が降れば底へ水が溜まる。

 行政は「一時的地形」と呼び、恒久路へ数えない。

 移動する群れにとって、一時的でない地形の方が珍しい。

「渡れる?」と年長者。

 ガンガは即答しない。

 裸足で皮へ乗る。

 振動を読む。

 一歩。

 二歩。

 全員の心拍を広げず、自分の足裏だけで確かめる。

 中央は薄い。

 右縁は硬い。

 左は、下に空洞。

「右縁。大獣は一頭ずつ。荷車は荷を半分降ろす」

「何を降ろす」と年長者。

 また同じ問題が来る。

 水。

 祖霊骨。

 天幕。

 薬。

「俺は決めない」

「時間がない」

「だから、重量だけ言う。荷車一台、今の半分。何を持つかは持ち主」

「一人が水を捨てたら、全員が困る」

「共用水は別に数える。個人の荷から半分」

「祖霊骨を個人荷と言うな」

「じゃ、群れの荷として数える」

「他の群れは認めない」

「今ここでは、俺たちが運ぶ」

 ガンガは鐘棍を担架棒へ変える。

 倒れた幼獣を乗せる。

「それでお前の荷が増える」

「俺が選んだ」

「王の格好つけ」

「王じゃない。格好はつける」

 カイルが聞けば喜びそうな言い方だった。

 小群れの子供が笑う。

 笑った拍は、術を使わなくても聞こえた。

 渡り始める。

 最初の荷車は、祖霊骨を下ろさなかった。

 代わりに、銅鍋を二つ置いた。

「食事は」とガンガ。

「一つあれば煮える」

「二つ目は」

「婚礼用」

「置いていい?」

「次の婚礼があるなら、別の鍋を作る」

 その選択を、他人が美談にしてはいけない。

 鍋を置いた人は、捨てたいわけではない。

 生きるために、未来の祝い方を変えた。

 次の家は天幕を半分切った。

 布の一方へ、家族の刺繍がある。

 切る場所で言い争う。

 ガンガは待つ。

 皮橋が軋む。

「急げ」と年長者。

「どこを切るかは、家だ」

「橋が割れる」

「二十拍」

 期限を言う。

「二十拍で決まらなければ、天幕を丸ごと持ち、俺の鐘棍を置く」

「武器を?」

「担架棒でもある」

「それなら置けない」と倒れた幼獣の母。

 役割が一つではない物は、価値も一つではない。

 十五拍目に、家族は刺繍を二つへ切り分けた。

 一方を持つ。

 一方を橋の手前へ防水袋で残す。

「戻る?」と子供。

「地面が残っていたら」

「残ってなかったら」

「覚える」

 ガンガは言いかける。

 記憶があれば十分だ、と。

 やめる。

 物を失う痛みを、心へ移せば軽くなるとは限らない。

「残ってなかったら、なくなったと記録する」

 子供は頷く。

 橋の中央で、皮が割れた。

 音が先。

 裂け目が後。

 荷車の右輪が落ちる。

 全員の恐怖が跳ねる。

 ガンガの術が、反射的に広がりかけた。

 万獣鼓動で同じ拍へそろえれば、全員が一斉に引ける。

 同時に、橋の上で一斉に動けば、皮はさらに割れる。

 彼は術を閉じる。

「止まれ、じゃない!」

 大声を出す。

「動く人だけ言う! 前の二人、荷車を右へ。後ろはその場。幼獣は呼吸だけ!」

 命令は全員へ出さない。

 必要な役割へだけ出す。

 年長者が右輪を持つ。

 子供が荷縄を外す。

 祖霊骨の箱が傾く。

 母親が箱を抱く。

 荷車を救えば橋が落ちる。

「荷を捨てろ!」と誰か。

「誰の荷」とガンガ。

「箱だ!」

「持ち主が決める!」

 母親は箱を見る。

 幼獣を見る。

「縄を切る。箱は抱く」

「重い!」

「私の腕」

 ガンガは彼女へ命じない。

 代わりに、自分の肩を箱の下へ入れる。

「半分持つ」

「施し」

「共同荷重」

 言葉を変えただけではない。

 腕の重さが、二人へ分かれる。

 荷車だけが雲海へ落ちた。

 橋は持った。

 全員が渡り終える。

 誰も同じ速度ではなかった。

 速い者が先へ行き、戻って荷を受けた。

 遅い者が止まる時、後ろは追い越さず別縁へ回った。

 発熱した幼獣は担架のまま。

 群れは、一つの拍にならず進んだ。

 脱皮溝の底には、水があった。

 予想より少ない。

 白い皮の陰で、半分が蒸発している。

「全員分じゃない」と年長者。

「途中までの分」とガンガ。

「次は」

「ここで聞く」

「また会議」

「歩ける身体で会議」

 水場へ着いたことで、選択肢が増えた。

 北谷へ行く者。

 西湖へ向きを変える者。

 南井戸との契約を待つ者。

 同じ場所へ着くことが、同じ未来を選ぶことではない。

 ガンガは水を配らない。

 桶の数と必要量を示し、幼獣と病者の優先だけを提案する。

「反対は」と聞く。

 一人が手を上げる。

「祖霊骨を洗う水が要る」

 他の者が怒る。

「命より骨か」

「病が骨から広がる。泥を落とさなければ次の群れへ持ち込む」

 価値観ではなく衛生の理由だった。

 ガンガは決めつけた自分へ気づく。

「何桶」

「半桶」

「医療水から?」

「洗浄後、煮沸して布へ使える」

 獣医が確認する。

 半桶が認められる。

 沈黙していた小群れは、話せなかったのではない。

 話した時に、何を守っているか先に悪く解釈されると知っていた。

「大声だけが、群れの声じゃない」

 ガンガは自分へ言う。

 年長者が聞く。

「王の言葉か」

「今日の失敗から覚えた言葉」

 水場の中央へ、空の桶を一つ置く。

 誰の分でもない。

 まだ行き先を決めていない者が、途中で使える分。

「空なのに水場?」と子供。

「今は空。必要な人が来たら、他の桶から一杯ずつ移す」

「来なかったら」

「空のまま。空だから賛成って意味にはしない」

 遠い円座で、ネムもまた、空の太鼓を置こうとしていた。

 ネムは円座の中央へ、空の太鼓を置いた。

 誰も打たない太鼓。

「何だ」とハダン。

 ネムは紙を掲げる。

『各案の後、空拍を一つ置く。発言しない者を賛成に入れない。反対にも入れない』

「数が決まらん」

 次の紙。

『決めるのは人数ではなく、期限までに選ばれた進路と離脱条件』

「難しい」

『王一人に比べれば』

「皮肉か」

『説明』

 ハダンは杖で地面を二度叩く。

「期限」

 ネムが砂時計を出す。

 上半分に、二日分の粗い砂。

『明日の正午までに仮進路を選ぶ。最終地ではない。途中水場まで』

「異議は」

『出発後も一日受け付ける。異議が出た群れは、次の分岐で離脱できる』

「沈黙した者は」

『どの進路にも自動登録しない。水と医療の途中路だけ共有する』

「遅い」

『永遠より速い』

「危険だ」

『王一人より分散できる』

 ハダンは長くネムを見る。

「わしは、十三の時、会議が終わらず妹を失った」

 円座が静かになる。

 彼女が公に語っていない過去。

「それで、一人の命令を信じた。お前の空拍は、また待たせる」

 ネムはすぐ紙を書かない。

 喉へ手を当てる。

 掠れた声で言う。

「空拍は、待つ時間じゃない」

 一度咳をする。

「違う拍が、消えてないか聞く時間」

「聞いている間に地面が動く」

「だから一拍」

「一拍で足りん」

「足りないと記録して、期限で動く」

「不完全なまま」

「完全を待つ方が、妹を失う」

 ハダンの杖が止まる。

 ネムは彼女の傷を論破しない。

 同じ傷から、別の手順を作る。

「仮進路」とハダン。「途中水場まで。最終地を決めない」

 ネムが頷く。

「出発時刻」

 ネムは朝ではなく、太陽が角骨へ触れる時と書く。

 時計を持たない群れにも分かる基準。

「異議期限」

 次の夕刻。

「離脱路」

 三本。

 ハダンは円座の者へ向き直る。

「では歌う」

 ネムが太鼓を一度。

 空拍。

 誰も歌わない。

 沈黙は賛成ではない。

 次の一拍で、ハダンが仮進路を歌う。

 ガンガは小群れを脱皮溝まで連れて戻った。

 円座へ着いた時、会議は終わっていた。

「俺抜きで決めた?」

 ネムが紙を出す。

『仮の手順を。進路は各群れが選ぶ』

 ガンガは胸を二度叩く。

 今度は、二度目が遅れない。

「良い」

「王候補が承認した」と誰か。

「違う」とガンガ。「俺も参加する」

「同じだ」

「違う。俺が否定しても手順は残る」

 権力者の賛成で正しくなる制度は、権力者の反対で消える。

 それでは分散ではない。

 ネムが一枚の細長い布へ、手順を書いた。

 文字だけでは、全ての群れに読めない。

 太鼓の長短。

 色の珠。

 砂時計の図。

 離脱路の三本線。

 同じ内容を、複数の形で残す。

「誰へ送る」とガンガ。

 ネムは緑の航路札を指す。

 王獣の抜け毛を編んだ房。

 旅立った仲間へ渡した対の札が、ゼロスター号にある。

 札そのものは会話道具ではない。

 だが、札へ結んだ伝羽は、同じ航路を知る鳥なら追える。

『鏡の人たち。決められない会議をしている』

「誰から聞いた」

『前の手紙。ユノが、公開範囲で止まってる』

 ガンガは布を巻く。

「役に立つか」

 ネムが肩をすくめる。

『役に立つと決めて送るな。使うかは向こう』

「厳しい」

『継続したら褒める』

「それ、誰の言葉だ」

『感染』

 伝羽が飛ぶ。

 七面王都では、朝が正午へ急いでいた。

 機関時計六時五十五分。

 窓の外は十一時の影。

 中央塔の白光が膨らみ、街路の位相が一拍ごとに進む。

 ユノは返還所の未記入欄を見ていた。

『次回確認時刻』

 時計が一つでないため書けない。

 その時、ゼロスター号の緑の航路札へ、伝羽が落ちた。

 ロロが紙を外す。

「獣の毛が機関室へ入る!」

 文句を言いながら、先に読む。

 太鼓記号。

 色珠。

 砂時計。

「ネムの字」とエリア。

 内容を読み上げる。

『沈黙を賛成に数えない。

 全員一致を待たない。

 最終地ではなく、安全な途中路を選ぶ。

 保留には期限、再確認者、離脱路を付ける。

 決めない者を置いていかず、決まるまで同じ場所へ閉じ込めない』

 片手袋の鏡磨きが、未記入欄を見る。

「私の保留にも、期限を付ける?」

「受け取る期限ではない」とユノ。

「何の」

「僕たちが別の通行法を持って戻る期限」

「守れなかったら」

「延期を本人へ伝える。担当を変えられる。別の場所へ移れる」

「永遠に待たせない?」

「永遠を約束に使わない」

 ユノは中央時計を書かない。

 朝鐘見習いの小鈴を基準にする。

『次に本人の小鈴が三度鳴るまで。機関時計換算、四十五分以内。延長には本人確認』

「四十五分で都市を直す?」とハル。

「直せない」

「じゃあ」

「直せないと報告に戻る」

「それでいい?」

 鏡磨きが言う。

「帰ってくるなら」

 ユノは署名する。

 同じ手順を、返還を望む朝鐘見習いにも使う。

 先生が治療を終えるまで。

 小鈴の合図。

 途中で受け取りを止められる。

 住民投票を一度に始めない。

 各街区へ、仮の選択窓を作る。

 開く。

 閉じる。

 保留。

 途中路だけ使う。

 四つ。

「王都全体の決定は」と門守長。

「今はしない」とユノ。

「時間がない」

「だから最終形を決めない。四十五分、生き延びる形を選ぶ」

「王が決めるべきだ」と返還官。

「王が決めれば早い」

 ユノは認める。

「早いだけだ」

 中央塔が鳴る。

 朝の鐘ではない。

 正午の鐘。

 影が足元へ縮む。

 鏡の中の夜明け前が、朝を飛ばして昼へ変わる。

 都市の位相が急加速した。

 透明板の時刻差が、一拍ごとに広がる。

「四十五分もない」とエリア。

「何分」とハル。

「分からない」

「決められない?」

「決めます」

 エリアは地図へ、一本の空白を描く。

「二十分後に再評価。そこまでの途中路を作る」

 ユノは未記入欄へ書く。

『二十分』

 完璧な合意ではない。

 全員が納得する時間もない。

 それでも、誰か一人の永遠の命令へしない。

 七面王都の百の朝が、同時に正午へ向かい始めた。