第400話 第八章「可逆の路標」後編
片手袋の鏡磨き職人は、記憶を戻さないまま市場へ来た。
右手だけに手袋。
左手には、鏡粉で白くなった古い傷。
第三章で拒んだ、夫の最期の感覚断片。
返還官は彼女の通行札を止めていた。
記憶返還が完了しなければ、本人位相が確定しないという理由で。
「今は三つで確定できます」とエリア。
時計札。
風。
砂。
職人は砂瓶を握る。
「これで、あれを受け取らずに家へ帰れる?」
「帰れる可能性のある路を示します。実測済みはここまで。二十二分後に風が変われば、途中広場へ戻る」
「家が同じ場所にある保証は」
「ありません」
ユノが、きれいな慰めを言いかける。
止める。
職人はエリアを見る。
「正直だね」
「不親切に聞こえますか」
「親切に嘘をつかれるより、道具になる」
「戻らない選択を、今後も変えられます」
「変えたら、今の拒否は間違いになる?」
リゼが答える。
「ならない。今日受け取らないのと、来年受け取るのは別の選択」
「ずっと受け取らなくても」
「別に壊れてない」
職人は左手で、保留札を選ぶ。
手袋の右手ではない。
「家へ行く。途中で無理なら戻る。記憶は受け取らない」
エリアが路を描く。
線の起点へ、職人自身が砂瓶を置く。
王家が位置を与えるのではない。
本人が、今いる場所を確定する。
「ハル」とエリア。
「百二十七歩」
「職人の歩幅では」
「百四十六。左膝を庇ってる。段差三つ避ける」
職人が眉をひそめる。
「見すぎ」
「ごめん。道に必要なとこだけ」
「謝れるならよし」
ハルは先へ走らない。
職人の半歩後ろを歩く。
彼女が自分の速さで、最初の曲がり角を選ぶ。
朝鐘見習いの少年は、教師の寝台の隣にいた。
鐘楼から救出された教師は、右腕を固定されている。
少年が戻したいのは、母の歌だった。
記憶庫の箱へ、音声断片として保管されている。
「全部、聞きたい」と少年。
「先生がいる時だけ?」とユノ。
「最初は」
「途中で止める合図は」
少年は小鈴を鳴らす。
「一回で止める。二回で続ける」
「鳴らせなくなったら」とリゼ。
少年は考える。
「先生が止める」
教師が首を振る。
「私が決めていいのか」
「僕が返事できない時だけ」
「返事できない、をどう決める」
「目を閉じて、小鈴を落としたら」
「眠っただけかもしれない」
ハルが言う。
「手を握る。二回返したら続ける。一回なら止める。返らなかったら止める」
「勝手に決めるな」と少年。
「案」
「……それでいい」
「今決めた。後で変えていい」
ユノはアルマを持たない。
母の歌を美しい舞台へしない。
返還装置の小さな音筒へ、白い縁だけ付ける。
『保存音声断片』
『完全な記憶ではない』
『停止可能』
『現在の本人が選択』
最初の一音が流れる。
高い声。
歌詞はない。
息を吸う音だけ。
少年は泣かない。
教師も泣かない。
母の声と断定できない。
それでも少年は、小鈴を二回鳴らす。
次の音。
皿の触れ合う音。
風。
誰かが笑う前の息。
一回。
停止。
「もう?」とユノは聞かない。
「今日は、ここまで」と少年。
「分かった」
戻すことは、全部を一度に受け取ることではない。
回復は、完成へ向かう一本道ではない。
仮設路は、七街区へ増えた。
成功した路もある。
失敗した路もある。
砂瓶を他人と取り違え、違う位相へ入りかけた老夫婦。
風向羽根が鏡塔の排気に影響され、誤表示した学校路。
公共時計そのものが、二枚の朝へ引かれて針を二本に分けた南門。
エリアは失敗線を消さない。
赤い訂正線を引き、理由を書く。
「地図が汚れる」と門守長。
「使われた地図は汚れます」
「市民が迷う」
「訂正前の線を消せば、同じ失敗を繰り返す」
「美しくない」
「地図は舞踏会の床ではありません」
ユノが隣で咳払いする。
「舞踏会の床にも、落下防止線は必要だった」
「あなたが言うと反省が装飾に聞こえます」
「厳しいな」
「正確です」
彼は笑う。
完璧な微笑みではない。
右手の痛みが三へ上がっていた。
「休んで」とリゼ。
「路の共有だけ」
「『だけ』が一番長い」
「七分で交代する」
「誰と」
「君」
「私に幻は出せない」
「出さなくていい。白縁の更新を頼む」
「それなら」
ユノの虚実奏は、今まで全員へ同じ像を見せた。
今は逆に使う。
各人が選んだ異なる路を、混ぜずに同じ空間へ並べる。
赤い路。
青い路。
白い路。
色ではなく、選択者ごとの印。
誰かの道が中央に大きく出ない。
王族の道も、子どもの道も同じ太さ。
観客を一つの物語へ導く能力が、異なる物語を同時に置く舞台へ変わる。
「兄さん」とリゼ。
「何」
「中央の路だけ、少し明るい」
ユノは見る。
王宮へ向かう路。
無意識に明るくしていた。
「消す」
「明るさを同じにして。王宮路を消すのも誘導」
「難しい注文だ」
「王は難しい注文を受ける仕事でしょ」
「まだ王ではない」
「なら練習」
ユノは明るさを揃える。
さらに、全ての路へ出典を付ける。
『本人選択』
『救難提案』
『王家要請』
『未確認』
王家要請と書かれた路を、住民が選ばない。
ユノの喉がわずかに動く。
選ばれない自由を守る制度は、自分が選ばれない痛みも含む。
エリアの踵の痛みが四へ上がった時、彼女は地図槍を閉じた。
閉じた。
昔なら、もう一本描いた。
母と同じ事故を恐れる父へ反発するために、限界を越えた。
今は、限界を申告した自分の言葉を守る。
「交代」と言う。
ハルが振り返る。
「俺?」
「あなたに、旧市場から南門までの物理路を覚えてほしい。段差、匂い、鐘の距離。地図線が消えた場合の帰路にします」
命令形ではない。
「手伝って」
具体的な一つ。
ハルは、からかわない。
「分かった」
「一人で走らないで」
「ノクスと」
「ノクスが承諾したら」
黒い夜獣が、ハルの肩から降りる。
「ノゥ」
「承諾」
「あなたの翻訳は信用できません」
ノクスがハルの耳を噛む。
「痛っ。反対?」
「ナァ」
「条件付き」
今度はエリアの地図針をくわえ、返す。
「戻ってこい、という条件でしょう」とエリア。
「翻訳してる」
「私の方が正確です」
ハルとノクスが走る。
同じ街の、異なる位相へ。
ノクスは破られた約束の匂いを追わない。
今日は匂いが百枚へ重なっている。
代わりに、ハルの靴音を聞く。
ハルはノクスの爪音を聞く。
群れとは、同じ匂いを持つ者ではない。
互いの足音を選び直す者である。
旧市場。
揚げ生地の匂い。
段差二。
割れた井戸蓋。
風見羽根が三度鳴る。
南門。
砂が細かい。
鐘は遠い。
壁の内側へ、昼の熱。
ハルは戻る。
帰り道も覚える。
進んだ道と同じではない。
途中、鏡像のハルが三人現れる。
一人は右へ。
一人は左へ。
一人は戻る。
ノクスが迷う。
匂いは同じ。
ハルは靴底を二度鳴らす。
一、二。
ノクスが中央ではなく、戻るハルへ走る。
彼の足音を選ぶ。
「正解」とハル。
ノクスは噛む。
正解を決めたことへの抗議だったかもしれない。
中央塔の回転は、最初ゆっくりだった。
一時間で一度。
次に、十分で一度。
今は、一分で六分の一回転。
七面王都の街路は、中央塔から放射状に伸びている。
塔が回れば、街路も動く。
石畳が滑るのではない。
鏡門の接続先が、一斉に隣の面へ移る。
市場の出口が学校へつながる。
学校の階段が宮殿の天井へ出る。
診療所の窓を開けると、港の水面が垂直に立っている。
「回転速度、上昇!」とロロ。
仮設路標の砂瓶が、地面から浮く。
風向羽根が全部、中央を指す。
公共時計の針が外れ、空中で輪を描く。
三つの物理標識が、同時に壊れ始めた。
「路標が持たない」とフリードリヒ。
「固定しません」とエリア。
「何を」
「路標を地面へ固定しない。人へ渡す」
各人が時計札を持つ。
風向羽根を腕へ巻く。
砂瓶を腰へ下げる。
地面が回っても、本人と標識の関係は残る。
「地図を人へ持たせれば、地図を失った者が消える」とセレナ。
「だから対を作ります」
一人の標識を、二人で持つ。
本人。
確認者。
どちらかが失えば、もう一方が位置を返す。
「確認者を誰が選ぶ」と門守長。
「本人」
「身寄りがなければ」
「街区窓口から選ぶ。拒否できる。変更できる」
「時間が」
「二十分ごとに再評価」
ネムの空拍が、制度へ入る。
保留は無期限ではない。
期限は強制終了ではない。
次に聞き直す時刻である。
エリアは透明板へ、路を描く。
進む。
戻る。
保留。
別位相。
全てに白い縁。
全てに期限。
全てに出典。
線が多い。
美しくない。
都市の生活は、本来、美しい一枚へ収まらない。
エリアの左肺が狭くなる。
「呼吸」とハル。
戻ってきていた。
「二。路図継続、三分」
「三分後」
「あなたが歩数で引き継ぐ」
「地図読めない」
「線が消えた時の物理路です」
「任せろ」
「簡単に言わない」
「難しく任せろ」
「意味がありません」
「でも任せる?」
エリアは右手で口元を隠さない。
笑っている場合ではない。
それでも、口の端だけ動く。
「任せます」
王都が、音を立てて折れた。
市場の空が三角形になる。
宮殿の壁が六枚へ分かれ、互いを映す。
港の水が細長い鏡片へなり、空中へ立ち上がる。
七面王都全体が、巨大な万華鏡の内側へ入った。
中央塔が一段回るたび、街の模様が変わる。
人々の家が花弁になり、通りが星形になり、鐘楼が百本の針になる。
「綺麗」と誰かが言った。
「危険です」とエリア。
美しさと安全は同義ではない。
ユノの幻像ではない。
現実の都市が、演出のように回っている。
だからこそ、白い縁が必要だった。
何が像で。
何が現実で。
何が予測で。
誰が選んだ道で。
いつまで有効なのか。
エリアの可逆路が、回転する街へ張り付く。
一度進んだ線が、次の回転で帰路になる。
帰路が、別の誰かには進路になる。
中央はない。
正しい一枚もない。
百方向の王都が、巨大な万華鏡として回り始めた。