第401話 第九章「万華鏡が回る」前編
都市は、動かないことで人を守る。
家が昨日と同じ場所にあり、井戸が朝と同じ角にあり、病院へ向かう道が夜になっても病院へ続く。
この平凡は、石の性質ではない。
測量する者がいて、修理する者がいて、門を開ける者がいて、道を勝手に売らない者がいる。その仕事が毎日成功した結果を、人は「街は動かない」と呼ぶ。
逆に都市が動き始めると、建物は建物でなくなる。
壁は床になり、窓は落とし穴になり、近道は刃になり、昨日の安全は今日の加速装置になる。
その時、人を救うのは街を知っている者だけではない。
街が変わったと認められる者である。
「作戦を言う」
ハルは地図を見ない。
見ても分からないからではない。
今は、見ても正解が一つではないからだ。
中央広場の床へ、エリアが七十二枚の透明板を立てている。
百の都市位相。
九十九枚の過熱鏡。
一枚の中央鏡。
線は花のように見えた。
花なら踏まなければよい。
これは踏まなければ街が落ちる。
「位相順に、鏡を一枚ずつ開ける」とハル。
「正確に」とエリア。
「時計、風、砂の三つが次へ揃った瞬間、過熱してる鏡を開ける。一枚開いたら負荷が隣へ逃げる。隣が限界へ来る前に次を開ける」
「全門同時ではない理由」とセレナ。
「同時に開けたら、記憶庫と同じ。全部が中立位相へ戻ろうとして、中央へ集まる」
「推論根拠」
「ロロ」
「人に投げるな!」
ロロは片腕を黄色い布で固定したまま、円形計測板を叩く。
「第七章の試験で、一箱を中央経由へ出した時、同じ位相番号が百個付いた。開放自体が悪いんじゃねえ。中央を通る開け方が悪い。外周から位相順へ一枚ずつ逃がせば、荷重は輪を走って空へ抜ける」
「空へ?」とカイル。
「ゼロスター号の帆で受ける」
「一枚しかないぞ」
「一枚しかないから、順番に受けるんだよ! 百枚あったら同時にやってる!」
「景気が悪いな。一枚の帆で都市百個分か」
「都市百個じゃねえ! 同じ都市の百位相だ! 値段が百倍に聞こえる言い方すんな!」
「修理費は百倍で請求する気だろ」
「危険手当込みで一・七五倍!」
「半端だな」
「公爵令嬢が値切った!」
エリアは聞こえない顔をする。
「役割を確認します」
透明板へ、名前を書く。
外周。
ゼロスター号。
ロロが機関と負荷受け。
フリードリヒが封鎖針の逆開放。
セレナが時刻と作動記録。
内周。
エリアが位相順と可逆路。
ユノとリゼが住民選択の共有、白縁表示。
トーヴが王家記録の接続条件を照合。
移動班。
ハル。
カイル。
ノクス。
「三人で九十九枚?」とカイル。
「三人じゃない。各街区の門守と住民が、自分の鏡を開ける。俺たちは開けられない場所を走る」
「王子の見せ場が減る」
「街の見せ場が増える」
「悪くない」
カイルが右籠手を左拳で二度叩く。
「王盾炎、連続十二拍。八拍で交代信号。十拍で撤退。十二拍は崩落物が人へ届く場合のみ。痛み返しは肋骨と背中へ来る」
「十一拍で格好をつけない」とセレナ。
「格好は一拍目からつける」
「制限を軽口にしない」
「怖いから言ってる」
冗談の後ろに隠さない。
セレナは頷く。
「ハル」とエリア。
「左肩、痛み一。耳鳴り二。方向感覚は信用しない。零星針は使わない」
「なぜ最後を」
「方向を一つに決める道具だから。今は一つにすると消える」
「賢明です」
「珍しい?」
「継続評価中」
「長い」
「私。両踵三、左肺一。路図は五分ごとにリゼへ表示更新を移す。痛み四で座る。呼吸三で完全交代」
「完全交代の相手」とハル。
「あなたの歩数と、街区の案内人」
「俺一人にしない?」
「しません」
「よし」
以前なら、自分が任されたことを喜んだ。
今は、自分一人へ任されないことに安心する。
「ロロ」とセレナ。
「右眼二重。喘息一。補助腕一本停止。もう一本止まったら撤退。計測値が読めなくなったら、俺の勘で続けない。代わりは王都機関士三人。名前、ここ」
名前を言う。
彼だけが都市を直す物語にしない。
「ユノ」
「耳鳴り四。右手痛み三。演奏は短句のみ。住民が選んだ路を共有するだけ。選択肢を増減しない」
「私が監査」とリゼ。
「妹だからではなく」とセレナ。
「表示担当だから」
「よい」
ノクスが二本尾を逆方向へ向ける。
「お前は?」とハル。
「ナァ」
「匂いは使わない?」
「ノゥ」
「足音で群れを選ぶ?」
「ノゥ」
「撤退条件は」
ノクスはハルの耳を噛む。
「俺が約束破ったら?」
もう一度噛む。
「痛い。分かった。お前が戻る合図を出したら従う」
ノクスは前脚を床へ一度置く。
それを承諾と全員が解釈する。
本人が全員を噛まなかったので、暫定的に採用された。
作戦は、一枚目から失敗した。
南外鏡の門守が、開放取っ手を引けなかった。
取っ手が固いのではない。
鏡面の向こうに、門守自身の家が映っていた。
妻と娘が昼食を取っている。
今いる位相では、家は避難済みで空である。
「開ければ、あれが消える」と門守。
「像です」とユノ。
「分かってる!」
分かっているから、手が動かない。
幻ではない。
別位相の同じ家。
別時刻の同じ家族。
消えるのか、戻るのか、接続が切れるだけか。
誰にも断定できない。
エリアの白縁路が、門守の足元へ届く。
『開放後、本人は保留広場へ戻れる』
『家族像の存続は未確認』
『開放を拒否した場合、七分後に鏡枠が破裂する確率八十二』
ユノが美しい家族の未来を見せない。
「選ぶのは、あなたです」
「選べるか、こんなもの」
「選べない、を二分選べます」とエリア。「二分後、もう一度聞く。その間、次の鏡を先に開ける」
「順番を変えていいのか」とロロ。
「三枚先までなら負荷許容内」
「根拠」
「第二、第三、第四鏡の裏面温度差」
「よし!」
正解を急かさない。
しかし時間を止めない。
南外鏡を保留し、東市鏡へ走る。
ハルが先頭。
街路が四十五度傾く。
石畳が壁になり、屋台が滑る。
「一、二、三!」
ハルは魚屋の天幕へ飛ぶ。
布が帆になる。
身体を横へ運ぶ。
カイルが後ろから来る。
「先に飛ぶな!」
「今言う?」
「言いながら飛ぶ!」
二人が同時に、回転する看板へつかまる。
ノクスは看板を使わない。
壁になった路地を、爪で走る。
東市鏡の取っ手は、天井にある。
市場の女たちが長い物干し棒をつなぎ、取っ手へ掛けていた。
「王子、下から支えろ!」
「命令が雑で助かる!」
カイルが盾を開く。
深紅の王盾炎〈レグルス・ガード〉が、滑り落ちる屋台を受ける。
「一拍!」
住民が棒を引く。
「二!」
鏡枠が鳴る。
「三!」
開かない。
「横だ!」とハル。「取っ手、今は横へ回ってる!」
女たちが棒を捻る。
「四!」
鏡が開く。
正午の光が刃のように噴き出す。
ゼロスター号の白銀帆が、外周で受ける。
帆が一瞬、真昼の月になる。
『一枚目、開放』
セレナの声が伝羽から響く。
実際には二番目に予定していた鏡である。
記録上は、開けた順の一枚目。
計画と結果を混同しない。
「負荷、北東へ移動!」とロロ。
「次、学校鏡!」
学校鏡は、廊下の床にあった。
ただし重力は天井へ向いている。
子どもたちは天井梁へ腰を掛け、床の鏡を見下ろしていた。
鏡の向こうには、朝の教室。
自分たちが授業を受けている。
「僕が二人いる」と少年。
「どっちが本物?」
教師が答えられない。
ユノの声が白縁表示と共に届く。
『両方とも同じ住民の別位相像である可能性が高い』
『どちらかを偽物と断定する証拠はない』
「開けたら、朝の僕は死ぬ?」
ハルは鏡へ近づく。
「分からない」
「大人なのに?」
「十五歳」
「もっと分からない」
「俺も」
「じゃ、どうするの」
「今ここにいるお前が、何をしたいか聞く」
「帰りたい」
「どっちへ」
少年は二つの教室を見る。
一つには友人がいる。
一つには鞄がある。
「鞄」
「友達じゃなく?」
「鞄に、妹の薬がある」
目的は、見栄えのよい答えではない。
「じゃ薬を取る路を作る。朝の教室へ本人を入れるか、鞄だけ出すか、どっち」
「鞄だけ」
エリアが遠隔で路を描く。
鏡を全開にせず、幅三十センチの物品口だけ開く。
子どもたちが天井からロープを下ろす。
ハルが逆さにぶら下がり、鏡の向こうへ腕を入れる。
左肩が引かれる。
「痛み」とエリア。
「二」
「右手で」
「届かない」
「カイル」
「五拍目!」
盾が足場を作る。
ハルは身体を回し、右手を鏡へ入れる。
配達鞄をつかむ。
同じ瞬間、朝の教室にいる少年が鞄へ手を伸ばす。
二人の手が、鏡面一枚を挟む。
どちらも同じ傷。
同じ爪。
同じ震え。
ハルは鞄だけを引く。
朝の少年は消えない。
ただ、鏡が閉じる寸前に、こちらを見た。
何か言った。
音は届かなかった。
「開放!」
子どもたちが取っ手を引く。
学校鏡が位相順へ開く。
朝の教室は、光の粒になって外周へ流れる。
死んだのか。
統合されたのか。
別の記録へ残ったのか。
今は分からない。
少年は薬を胸へ抱く。
「僕、あっちに何て言ったと思う?」
「勝手に決めない」とハル。
「正解」
「決めてる」
「今のは僕が決めた」
子どもは、少し笑った。
三枚。
七枚。
十二枚。
鏡を開けるたび、街は別の形へ折れる。
宮殿橋では、重力が拍ごとに上下した。
カイルが盾を床ではなく、空中へ置く。
「次の下は、今の右だ!」とハル。
「右は二つある!」
「赤い旗の方!」
「最初からそう言え!」
二人は盾を蹴り、裏返った橋を渡る。
ノクスが一拍遅れて飛ぶ。
王子のマントへ着地し、そのまま爪で登る。
「俺の肩は宿じゃない!」
「俺のも!」
「お前の肩から来たんだ!」
鏡を開けるのは宮廷兵ではない。
橋の掃除人たちだった。
毎朝、鏡裏の砂を払ってきた人々。
取っ手の癖を知っている。
「三段引いて、一段戻す!」
「ロロと同じ言い方!」とハル。
「機械は大体そうだ!」
鏡が開く。
二十枚。
葬庭では、誰も鏡へ触れなかった。
向こうに死者が映っていたからだ。
埋葬前の朝。
最後の会話。
見送れなかった顔。
「王家が、戻った記憶を像へしている」とユノ。
「消せ」と遺族。
「私の能力ではない」
「王家だろ!」
「だから私が命じれば消せる、と言えば同じことを繰り返す」
「では何もできないのか!」
ユノはアルマを持つ。
弾かない。
「像へ白い縁を付ける。現実ではないと表示する。見たくない人の前へ遮光幕を置く。鏡を開けるかは、ここにいる人が決める」
「時間がない」
「五分ある」
ロロの声。
「四分五十秒だ!」
「訂正。四分五十秒」
遺族たちは言い争う。
見たい者。
見たくない者。
開けたい者。
あと十秒だけ待ちたい者。
全員一致を待たない。
遮光幕で区画を分ける。
見たい者は最後に見る。
見たくない者は別路へ移る。
鏡の開放は、死者像を保存しないことではなく、現在の人間が死なないために行う。
「開ける」と、最年長の女。
「私が代表ではない。ここに残った六人が、それぞれ開ける」
六本の縄を、六人が引く。
一人の号令にしない。
鏡が開く。
死者の像は、光の中で消える。
女は泣く。
「消えた」と言う。
ユノは「心に残る」と言わない。
「消えた」と繰り返す。
失ったものを、美しい意味へ変えない。
三十一枚。