第402話 第九章「万華鏡が回る」後編

 三十二枚目から四十九枚目まで、鏡は数字どおりには開かなかった。

 数字は順序を示す。

 現場は生活を示す。

 三十四枚目は、空中菜園の灌漑鏡だった。

 街が回ったため、水路が輪になり、同じ水が畑を通らず空を巡っている。

 鏡を開けば、水柱が下へ落ちる。

 下がどこかは、三拍ごとに変わる。

「次の下、診療所!」とエリアの声。

「落とせない」とハル。

「二拍後、空き広場」

「待つ」

 菜園主たちは取っ手へ手を掛ける。

 一拍。

 水柱が学校屋根へ。

 二拍。

 王宮回廊へ。

 三拍目の直前、ノクスが床を二度叩いた。

「まだ?」

 耳を伏せる。

 広場に、避難者の足音がある。

 地図では空き。

 今、空きではない。

「開けるな!」

 ハルが叫ぶ。

 取っ手が止まる。

「計画時刻です!」と門守。

「足音がいる!」

「確認不能」

「だから開けない!」

 可逆路の更新が遅れ、避難者二十人が広場へ入っていた。

 ノクスは破られた約束の匂いでなく、群れの足音を選んだ。

 エリアが地図を更新する。

「次の空き面、七拍後。待機路を維持」

「七拍も持たない」とロロ。

『水路圧、限界五拍!』

「水を別へ」とハル。

「どこ」

 菜園主の少女が、畑の中央を指す。

「種貯蔵槽。空」

「作物が濡れる」と大人。

「種は濡れたら売れない」

「人より先に守るものじゃない」

「来季の食べ物!」

 今の命と未来の食糧は、競争させるべきでない。

 だが時間は競争させる。

 少女が決める。

「槽へ半分。残りは七拍後」

「誰が決めた」と大人。

「私が管理してる種」

「損失は」

「記録して。全部じゃない」

 半分を貯蔵槽へ落とす。

 乾燥種の一部が濡れる。

 残りの圧が下がる。

 七拍後、避難者が広場から出る。

 鏡を開く。

 水柱が本来の重力へ落ち、畑を潤す。

 三十四枚。

「種の弁償」と少女。

「王家救難費」とユノ。

「後で削らないで」

「公開記録へ入れる」

「王子の約束?」

「期限と担当者付き」

 セレナが記録する。

 少女はそれで取っ手から手を離した。

 三十九枚目は、織工区の巨大織鏡。

 鏡面の間へ、街区全体の布が張られている。

 開放すれば布が百方向へ裂ける。

 閉じたままなら負荷が次へ進まない。

「切る」と織工長。

「財産」とカイル。

「布はまた織れる」

「誰の布」

「全員分」

「全員へ聞く時間は」

「ない。だから、切る線だけ全員が決める」

 織工たちは、布の模様を読む。

 婚礼衣。

 葬布。

 学校旗。

 借金の記録を織り込んだ帯。

 どこを切っても、誰かの意味が裂ける。

 最年少の織工が言う。

「縦じゃなく、模様の間」

「強度が落ちる」

「補修しやすい」

「今は早さ」

「後で直せる切り方にする」

 可逆の考え方は、道だけに使われない。

 損失をゼロにできない時、後から直せる傷を選ぶ。

 百人が一本ずつ糸を切る。

 一人へ破壊の責任を集めない。

 布が二つへ分かれ、鏡が開く。

 切断面には、白い糸が結ばれた。

 どこを切ったか、後で分かるように。

 四十一枚。

 四十六枚目は、無人だった。

 誰もいない小さな鏡室。

「簡単」とハル。

「待って」とエリア。

 床に、食べかけの朝食。

 湯気はない。

 椅子は引かれたまま。

 窓へ子どもの手形。

「無人、ではなく不在」とセレナ。

「違いは」とカイル。

「無人は人がいない状態。不在は戻る人がいる可能性を含む」

 部屋の札に、夜勤者用休憩所とある。

 今の勤務者は、都市のどこかで門を守っている。

 勝手に開ければ、その人が戻る場所を変える。

 伝羽で該当班を探す。

 返事は三つ来た。

 同じ班が三位相にいる。

「どれへ聞く」と門守。

「三つとも」とユノ。

 三者の答え。

『開けろ。戻らない』

『朝食を取ってから』

『保留。薬が棚にある』

 同じ人の異なる状態が、異なる希望を出す。

 多数決は二対一にならない。

「身体位置が確認できる人」とセレナ。

 現時点の本人は、中央港で負傷者を運んでいた。

 連絡する。

『薬だけ移して開けて。朝食は捨てていい』

「朝食を捨てる」とハル。

「そこに反応?」

「本人が決めたなら」

 棚から薬を取り、本人指定の保留箱へ移す。

 鏡を開く。

 休憩所の像は消える。

 食べかけのパンも消える。

 ハルは一秒だけ黙り、次へ走る。

 救難は、見える全てを保存する仕事ではない。

 誰が何を失うかを、可能な限り本人へ返しながら、今の身体を生かす仕事である。

 四十九枚。

 街の回転が速くなる。

 外周の帆が、限界音を鳴らした。

 五十枚目で、ゼロスター号の帆が裂けた。

 白銀帆の中央に、細い黒線。

 負荷を受けるたび伸びる。

「ロロ!」とエリア。

「見えてる!」

 ロロは外周甲板で、三本の補助腕を帆索へ伸ばす。

 一人で縫わない。

 王都機関士三人へ指示を渡す。

「上縁を二寸緩めろ! 下帆索、七度! 縫うな、今縫ったら硬い点へ全部集まる!」

「では何を」と機関士。

「裂け目を広げる!」

「壊すのか!」

「一か所で切れる前に、負荷を六本へ分ける! 修理は後だ!」

 ロロの再機は、壊れた物を元へ戻す能力ではない。

 残った機能を、別の形で働かせる。

 帆の裂け目を六方向へ浅く広げる。

 白銀の一枚帆が、六枚の細い羽根になる。

 見栄えは悪い。

 光を受ける面積は減る。

 代わりに、一点へ集まらない。

「修理じゃなくて怪我を増やした!」とハルの伝羽。

「お前らが生きて帰ったら縫う! 今は裂け方を選んだ!」

「料金は」

「聞くな、泣くぞ!」

 補助腕の二本目が震える。

 ロロは手を止める。

「右上腕系、反応遅延。撤退条件一歩前。機関士長、計測板を渡す」

「君が一番読める」

「読める奴が倒れたらゼロだ。今渡す!」

 機関士長へ板を渡す。

 自分は音だけを聞く。

 機関の心音を、一人の天才の耳へ独占しない。

 六十枚。

 七十二枚目は、旧市場の井戸底にあった。

 井戸が横向きになり、水が空中へ長い柱を作っている。

 鏡取っ手は水柱の中。

「泳げる?」とカイル。

「横へ?」

「水に上も横もあるか?」

「重力がある」

「景気が悪いな」

 カイルが盾を水柱の入口へ置く。

「八拍だけ空気を保つ」

「十二じゃ」

「水圧が三倍。八」

「俺が行く」

「左肩」

「右で引く」

「俺も」

「盾は」

「住民へ渡す」

 カイルは井戸番へ籠手の副環を渡す。

「俺が中へ入ったら、三拍ごとに叩け。八拍目で盾を閉じろ。俺が戻ってなくても」

「殿下を閉じ込める?」

「救難命令だ」

「王命ですか」

 カイルは一瞬止まる。

「期限付きの救難提案だ。断っていい」

 井戸番は副環を受ける。

「受ける。八拍で閉じる」

 二人が水柱へ飛び込む。

 水は横へ落ちている。

 身体が壁へ吸われる。

 ハルの耳鳴りが四へ上がる。

 方向が消える。

 上も下もない。

 零星針へ手を伸ばさない。

 カイルの足を蹴る。

「何だ!」

「今の前、どっち!」

「俺の顔がある方!」

「見えない!」

 暗い。

 ノクスが水外から爪を鳴らす。

 二拍。

 間。

 一拍。

 ハルが入る前に決めた足音。

 戻る方向。

「そっち!」

 水中でカイルの腕を引く。

 取っ手へ届く。

 一拍。

 井戸番が盾を叩く。

 カイルが取っ手を回す。

 二拍。

 固い。

 三。

 ハルが右手を重ねる。

 四。

 水柱の中に、別位相の井戸が開く。

 水が二方向へ裂ける。

 五。

 カイルの盾へひび。

 六。

「開け!」

 二人で引く。

 七。

 鏡が開く。

 水柱が外周へ光となって流れる。

 八。

 井戸番が盾を閉じる。

 約束どおり。

 ハルとカイルは出口寸前で水へ吐き出される。

 石畳へ転がる。

「閉じるの早い!」とカイル。

「八拍と殿下が!」

「正しい!」

 カイルは笑い、咳き込む。

 背中の痛みを申告する。

「肋骨三。次の盾は六拍」

「交代」とセレナの声。

「六拍なら」

「交代」

「はい」

 王子は従う。

 見せ場の途中で交代することも、王になる訓練だった。

 八十枚。

 九十枚。

 街の回転は速くなる。

 鏡を開けるほど負荷が外周へ逃げ、中央に残った閉鎖鏡の割合が高くなる。

 残り九枚は、一枚あたりの重さが増える。

 路地が一拍ごとに別の街へつながる。

 ハルは地図を見ない。

 足で走った道を、段差と匂いでつなぐ。

 揚げ生地。

 井戸の湿り。

 薬草。

 鐘油。

 鏡粉。

 ただし匂いも位相で重なる。

「次、右!」とエリア。

 ハルは止まる。

「誰にとって」

「あなたの現在姿勢から、赤い壁側!」

「最初から!」

 右へ飛ぶ。

 壁が床になる。

 ノクスの足音。

 カイルは交代し、街区救難員二人と後方へ回った。

 ハルだけが先へ行かない。

 各区画の人間が、最後の取っ手を握る。

 九十五枚。

 九十六。

 九十七。

 九十八。

 南外鏡へ戻る。

 最初に保留した門守が待っていた。

 鏡の向こうの妻と娘は、まだ昼食を取っている。

 同じ動作を繰り返していない。

 娘が皿を片づけ、妻が窓を開けた。

 別位相の生活が続いている。

「二分どころじゃなかった」と門守。

「ごめん」とハル。

「謝るな。待つと決めたのは俺だ」

「今は」

「開ける」

「理由を聞いていい?」

「聞くな」

「分かった」

 門守は取っ手を握る。

「妻が窓を開けた。あいつは、暑いとすぐ開ける。像でも、別の朝でも、あいつが自分で開けた」

 ハルは何も言わない。

「俺も開ける」

 取っ手が回る。

 妻と娘の像が、光へほどける。

 門守は目を閉じない。

 九十九枚目が開いた。

「残り一枚!」

 ロロの声が、都市全体へ響く。

 中央宮殿の最奥。

 王家の秘密記録へ接続した鏡。

 百方向の都市で、そこだけ黒い。

 鏡面は光を映さない。

 人も映さない。

 白い文字だけが浮く。

『開放条件――王家記録の全公開』

 ユノが立つ。

 右手を押さえている。

 リゼが隣。

 トーヴとセレナ。

 エリアの透明板には、最後の鏡から中央塔へ伸びる負荷線が一本。

 太い。

 都市の残り全てを支えている。

「全公開すれば開く」と返還官。

「内容は」とセレナ。

「王家罪録、外交記憶、個人記憶、未確認断片、封印証言」

「当事者の同意は」

「緊急時の王権で代行できます」

「私が代行すれば、街は助かる」とユノ。

 白いヴァイオリンを持つ。

 弓は置いたまま。

「助かるかもしれない」とエリア。「公開によって鏡が開くことは、まだ装置表示だけ。実測していません」

「でも他に条件がない」

「条件を作った者が、二択しか用意しなかっただけです」とリゼ。

「全て見せるか、全て隠すか」とトーヴ。「私が若い頃に一度、同じ誤りをしました」

 外周で、ゼロスター号の六裂帆が悲鳴を上げる。

「残り時間、六分!」とロロ。

 黒い鏡の内側から、声が漏れる。

 泣き声。

 笑い声。

 告白。

 拒絶。

 誰かの母の声かもしれない音。

 誰かの父の足音かもしれない音。

 ハルの羅針盤が震える。

 父の地図が、この向こうにある。

 全公開すれば、地図の意味まで見えるかもしれない。

 父がここを通った理由。

 どこへ行ったか。

 見たい。

 見れば街が助かる、と言われている。

 見たい自分を、正義へ混ぜられる。

「ハル」とエリア。

「分かってる」

「何が」

「見たい。でも、俺が見たいから全員のを開けるのは違う」

 黒い鏡は開かない。

 最後の一枚が、王家の秘密と、住民の見たくない過去と、ハルの見たい父を、同じ錠前へ縛っていた。

 全て公開すれば、都市は救われるかもしれない。

 全て封じれば、都市は落ちる。

 二つしかないと表示された選択肢の前で、ユノは初めて、弓も笑顔も持たず立った。