第403話 第十章「住民が選ぶ門」前編
秘密には、二種類ある。
隠した者を守る秘密と、隠された者を守る秘密。
前者は権力の道具になりやすい。
後者は権力から逃げる最後の壁になりやすい。
問題は、同じ箱へ入れられることである。
王の不正と、子どもの傷。
軍の失敗と、病人の告白。
外交上の欺瞞と、家族へだけ話したくない記憶。
全てを「機密」と呼べば、王は個人の痛みの後ろへ隠れられる。
全てを「真実」と呼んで公開すれば、個人は王の罪と一緒に裸にされる。
全公開と全封印は、対立しているようでよく似ている。
どちらも、本人へ聞く手間を省く。
「開けろ」
王家の返還官が言った。
「全公開なら、鏡は開く。都市が救われる」
「装置表示では」とセレナ。
「九十九枚の開放で、条件が一つに絞られた」
「条件を表示した装置が、王家の制度です」
「今、制度批判をしている場合か」
「今、制度へ従えば人が傷つく場合です」
「都市が落ちれば、もっと傷つく!」
黒い鏡の裏で、負荷線が脈打つ。
一拍ごとに中央塔が半寸沈む。
外周のゼロスター号は、六裂帆で光を受け続ける。
帆の端が赤く焼けている。
『残り五分二十秒』
ロロの声。
冷静ではない。
それでも秒を丸めない。
ユノ・ヴァレントは、白いヴァイオリン・アルマを床へ置いた。
楽器を持たず話す。
「全公開はしない」
返還官が息を呑む。
「殿下」
「王家の罪録は公開対象へ分ける。外交上の判断も、公共責任の範囲は出す。だが個人記憶は、都市を救う名目でも勝手に開けない」
「分ける時間がない」
「作る」
「どうやって」
「鏡が二択しか認めないなら、鏡へ三つ目を教える」
「機関は法律ではありません」
「法律も機関も、人が作った。作った人間より偉い顔をさせるな」
敬語がない。
微笑みもない。
聞き手の呼吸へ合わせた声でもない。
ユノ自身の声は、演奏会の声より低く、少し掠れていた。
「リゼ」
「何」
「選択を分けたい。戻す。見る。封じる。公共部分だけ出す」
「削除は」
「今は不可逆すぎる」
「保留」
「入れる」
「途中停止」
「入れる」
「本人が返事できない時」
「代理者を自動で決めない。期限付き封印」
「期限が来ても返事できなければ」
「聞き直す」
「その間に国が困る」
「国は困ればいい。人を急かす理由にするな」
リゼの面紗の下で、金輪が細くなる。
「今のは、いい」
「兄として?」
「制度案として」
「厳しい」
「継続して」
ハルが横を見る。
「それ、エリアの」
「便利だから借りた」
「使用料」とエリア。
「公爵家は言葉にも値段を付けるの」
「ロロほどではありません」
『聞こえてるぞ!』
伝羽から怒声。
都市が落ちかけていても、掛け合いは完全には止まらない。
止めれば恐怖が勝つ者もいる。
黒い鏡の下部に、古い条文溝があった。
トーヴが膝をつき、折り畳み眼鏡を三枚重ねる。
「脚注を一つ。いや、二つ。三つになる可能性があります」
「時間」とセレナ。
「一つにします」
指で溝をなぞる。
「この機関は、全公開と全封印だけで作られていない。古い治療記録用の例外条項が残っています」
「何」とリゼ。
「見ないことを選ぶ条項〈ウェイク・クローズ〉」
鏡砂の古い夢治療では、患者が悪夢から目覚めた後、再現記録を見ない選択をできた。
治療師は記録を保管する。
患者は見ない。
研究者は統計だけ見る。
家族は内容へ入れない。
「なぜ廃れた」とユノ。
「王家記憶庫へ統合された際、閲覧拒否が『返還未完了』として扱われたからです」
「条文は生きている?」
「法的には削除されていません。運用停止」
「機関側は」
「溝がある。おそらく受け付ける」
「おそらく」とセレナ。
「動作試験が必要です」
「人の記憶で試験しない」とリゼ。
「同意します」
ハルが黒い鏡の枠を見る。
「空欄で試せない?」
「空欄を拒否として扱うと、沈黙を選択へする」とエリア。
「じゃ、本人が『見ない』って書いた札」
「内容なしの意思表示」とトーヴ。
「機関が必要としているのは、記憶内容でなく位相識別と選択状態だった」とロロの声。「その条項が生きてりゃ、内容を中央へ流さず、状態だけ別枝へ逃がせる!」
「別枝」とユノ。
「全公開でも全封印でもない。『本人が選ぶまで接続しない』って枝だ!」
「それで負荷網から外せる?」
「一件なら試せる。四分四十秒!」
最初の試験者を、誰が選ぶか。
全員がリゼを見ない。
見れば、王家の記憶を失った本人として最も分かりやすい。
分かりやすい人間を、最初の実験材料へしない。
「私がやる」とリゼ。
「選ばなくていい」とユノ。
「今、私が選んだ」
「妹だから止めたい」
「妹だから止める権利はない」
「実験の危険が」
「内容を流さない。状態だけ。危険条件を言って」
ロロが答える。
「失敗したら、条項を機関が『返還拒否』じゃなく『未処理』へ戻す。お前の記憶自体は開かない設計。ただし中立位相へ負荷が一段増える可能性三割」
「都市側の危険」
「一段。今の速度なら十二秒減る」
「私の身体」
「鏡光が一回返る。片頭痛の可能性」
「面紗と遮光片を使う」
リゼは黒い鏡へ近づく。
正面を向かない。
三分の二角度。
「私は、母との記憶群を今は見ない。返還を完了しない。封印期間は二十四時間。その後も自動公開しない。私へ聞き直す」
左手で、条文溝へ触れる。
光が走る。
白い縁が、彼女の指の周囲へ現れる。
金でも紫でもない。
確度ではなく、選択の境界。
『非閲覧選択』
『内容未接続』
『本人確認、現在時刻』
『二十四時間後、再照会』
黒い鏡が、一寸だけ薄くなる。
「負荷!」
『中央、二低下!』
ロロの声が裏返る。
『成功! 成功って言うな、まだ一件! 再現条件を――』
「ロロ」とセレナ。
『分かってる! 時刻、風、砂、本人の明示選択、期限! 内容は流れてない!』
リゼが手を離す。
「今の私、消えてない?」
「消えていない」とユノ。
「兄さんの感想」
「事実は、ここに立っている」
「よし」
ユノは妹へ抱きつかない。
成功を、家族の和解へ勝手に変えない。
仕組みが見つかっても、選択を集める時間はない。
全住民を中央へ呼べば、同じ門へ集中する。
だから中央から答えを配らない。
各街区の鏡へ、選択窓を作る。
ユノの虚実奏〈ファントム・カデンツァ〉は、通常なら同じ像を全員へ見せる。
今は、像を送らない。
枠だけ送る。
白い四角。
その内側へ、各街区が自分の言葉を入れる。
『見る』
『一部だけ見る』
『今は見ない』
『封じる』
『公共責任部分だけ公開』
『保留』
文字が読めない者には形。
目の見えない者には突起。
手を使えない者には音。
声を出せない者には休符。
ネムが遠いヴァルカで使った空拍が、鏡王都の選択音へ採用される。
一拍目――開始。
二拍目――選択。
三拍目――確認。
空拍――まだ決めない。
沈黙そのものを賛成にしない。
意図した空拍だけを、保留として扱う。
「本人確認はどうする」と返還官。
「記憶ではなく、時刻、風、砂」とエリア。
「代理選択の不正が起きる」
「確認者を本人が選ぶ。選べない場合、二人以上の生活確認者。王家単独は不可」
「家族がいない者は」
「街区窓口。変更可能」
「犯罪者は」
「犯罪歴と記憶権は別です」とセレナ。
「敵国人は」
「人です」とハル。
「単純化するな。敵国の工作員が機密を封じる可能性がある」
ハルは一瞬止まる。
「ある」
「なら」
「公共責任の証拠と、本人の私的記憶を分ける。犯罪の物証は封じない。でも頭の中を全部国のものにしない」
「その線引きを誰が」
「今は、セレナとトーヴと各街区の代表。後で法にする」
「曖昧だ」
「曖昧だから、王一人へ渡さない」
ユノはその言葉を聞く。
自分一人へ渡されない制度を、自分で作る。
それは退位より難しい。
王座から降りれば、権力を捨てた人物として美しくなれる。
王座の近くに残り、毎回自分の権限へ鍵を掛ける者は、英雄になりにくい。
だが制度は、英雄になりにくい人間によって長く持つ。