第406話 第十一章「最後の朝を残さない」後編
エリアは中央塔へ入る。
ハルが隣。
ノクスは足元。
カイルは後方で盾班を指揮する。
「王子、来ないの」とハル。
「俺が行けば見せ場を奪う」
「本当は」
「背中が四。盾は三拍。ここで人を守る」
「了解」
「驚かないのか」
「継続評価中」
「誰の言葉だ」
「便利だから借りた」
カイルは犬歯を見せる。
「帰ったら使用料を払え」
「王室勘定なしで」
「景気が悪いな」
中央塔の内部は、六角形の回廊が連なる。
床がゆっくり傾く。
エリアは踵を二度鳴らす。
母から教わった路祖礼。
神へ祈るのではない。
自分がここから出発すると、身体へ知らせる。
「痛み」とハル。
「三。呼吸一」
「俺、肩三。耳鳴り三」
「方向を任せない」
「足を任せろ」
「具体的に」
「地図線が途切れたら、俺が走った段差で次の扉まで連れていく」
「分かりました」
塔中心へ、位相軸がある。
百枚の鏡片を支える、透明な柱。
その周りへ、エリアの地図点が浮く。
住民。
門守。
救難者。
保留中の人。
点の一つがない。
ハルの点。
「俺、どこ」
「現在位置は隣です」
「地図に」
「描いていません」
「なんで」
エリアは地図槍を握る。
「あなたの行き先を、私が決めたくないから」
「現在地まで消す?」
「あなたは地球へ帰る道を探している。ここへ残ると描けば、所有になる」
「残る線を引けって言ってない」
「点を置けば、次に線を引きたくなる」
「それはエリアの問題だろ」
「そうです」
声が冷たくなる。
顎が上がる。
「だから制御している」
「俺を消して?」
「消してはいない。地図へ入れていないだけ」
「同じに見える」
「違います」
「走る森で、地図に載らない人を何て言った」
エリアが黙る。
走る森の国境線。
地図へ載らなかった移動集落。
存在しているのに、行政上はいない者。
「俺を国境の外へ置くな」
「あなたを縛りたくない」
「だからって、今いる俺までいないことにするな」
塔が一段回る。
床が壁になる。
会話は中断される。
「つかまれ!」
ハルが右手でエリアの腕を取る。
左肩は使わない。
エリアが地図槍を柱へ刺す。
二人が宙へぶら下がる。
ノクスはハルの赤いマフラーへ爪を立てる。
「伸びる!」
「首は?」
「締まる!」
「先に言って!」
エリアが片手でノクスを抱える。
左肺が圧迫される。
「呼吸!」
「二!」
「一度降りる」
「軸の反対側へ足場!」
ハルは、走った段差を思い出す。
三歩先に、鏡枠の出っ張り。
「一、二」
三が出ない。
左肩が抜けそうになる。
助けを求める時の数え方。
「エリア、手伝って」
具体的な役割を言う。
「右足の次の枠を照らして」
エリアはすぐ路図を出す。
一本だけ。
今の足場まで。
「右斜め下、四十センチ!」
ハルが蹴る。
三。
足場へ着く。
エリアとノクスを引き上げる。
「頼めましたね」とエリア。
「今それ?」
「継続評価へ加算」
「点は」
「後で」
「今」
「作業中です」
「作業も話も途中でいい。点を置け」
エリアは地図針へ触れる。
しかし置かない。
まだ恐れている。
ハルは言う。
「君の地図から自分が消えるのは嫌だ」
塔の機関音が、言葉を半分飲む。
エリアは聞き返さない。
正確に聞こえた。
「残ると約束するの?」
「永遠は約束しない」
「では」
「線は、俺が答えるまで引かなくていい。でも点は消すな」
「点だけなら、行き先がない」
「今いる場所はある」
「地球へ帰ったら」
「その時は移す。勝手に消さず、俺に聞いて」
「また旅へ出たら」
「変更履歴を残す」
「他の道を選んだら」
「行き先は何度でも相談する」
「私以外と?」
「そこまで地図で聞く?」
エリアの礼儀が急に整う。
「一般論です」
「今、礼儀正しすぎる」
「作業へ戻ります」
「逃げた」
「可逆路です」
「戻ってくる?」
「二十秒後に再評価」
右手で口元を隠す。
笑った。
透明板へ、一つの点が灯る。
『凪野ハル』
『現在位置・本人確認済み』
『進路・未選択』
『変更は本人へ再確認』
線はない。
点はある。
ハルはそれを見る。
「長い」
「正確です」
「でも、いい」
位相軸を回す。
エリアが住民選択を読み上げる。
「旧市場、正午位相へ固定せず、朝鐘基準を廃止。風・砂・地域時計の三点」
「接続!」
ハルが外輪を蹴る。
軸が一段回る。
旧市場の通りが、学校屋根から離れ、井戸広場へ戻る。
ただし以前の角度ではない。
産婆へ向かう非公開路が残る。
「南門、保留広場を常設。閉門時も帰路を一つ残す」
「接続!」
第二段。
門が宮殿命令だけで完全には閉じなくなる。
「葬庭、遮光区画と非閲覧路を維持」
「接続!」
第三段。
死者像を見ない人の道が、正式路になる。
「王家記憶庫、公共記録、私的記憶、未確認断片を別網へ。白縁規則、暫定二十四時間」
「接続!」
第四段。
中央塔が大きく揺れる。
外周で王盾炎が開く。
「一拍!」とカイル。
落ちる鏡片を受ける。
「二!」
街区救難員が人を移す。
「三!」
盾を閉じる。
カイルは膝をつく。
四拍目を使わない。
セレナが彼の肩へ左側から近づかない。
見える右側へ水を置く。
「継続不可」
「知ってる」
「言葉に」
「継続不可。次は救難員へ渡す」
「記録」
王子が守るのではない。
守る役割が、王子を通過して他者へ渡る。
最後の接続は、最古区画だった。
中央時計を持たない街。
朝鐘より前から存在し、鏡門網へ後から組み込まれた場所。
正規都市図では、細い余白になっている。
「接続先がありません」と測量官。
「以前の場所へ」と返還官。
「以前の場所は、中央宮殿の基礎へ上書きされています」とエリア。
「では宮殿をずらす?」
「そうします」
返還官が言葉を失う。
「王宮を?」
「最古区画が後から来たのではありません。宮殿が後から地図を上書きした」
「国家の中心です」
「中心は動けない理由にならない」
フリードリヒの声が伝羽から来る。
『宮殿基礎の西側荷重を解放する。移設可能幅、十三メートル』
「公爵閣下」と返還官。
『提案だ。決定は鏡王国側で』
ユノが答える。
『移す。宮殿を十三メートル』
『理由を』
『元からいた人の道を、後から来た王家が返す』
宮殿が動く。
十三メートル。
歴史書では短い数字になる。
王権の歴史では、大きな距離だった。
最古区画の井戸路が、正式な都市へ戻る。
老人たちが、拍手しない。
水桶を運び始める。
権利を取り戻した人は、いつも演説するとは限らない。
まず生活を続ける。
宮殿を十三メートル動かした後、作業は一度止められた。
止めたのはロロではない。
旧朝市の住民だった。
「井戸水が変」と鏡磨き職人。
返還官が焦る。
「接続は完了しました」
「水は完了してない」
井戸から汲んだ水は透明だった。
匂いもない。
職人は舌へ一滴置く。
「塩気が消えた」
「清浄化されたのでは」と測量官。
「この井戸は少し塩い。だから朝粥へ塩を減らす」
公式水質表では、微量の塩分は欠点だった。
住民にとっては、料理の基準であり、地下水路が正しい場所へつながった印だった。
エリアが井戸へ測定糸を下ろす。
水温。
深さ。
流向。
「地下水路が、宮殿移設の空隙へ一部流れています」
「戻す」と測量官。
「どこへ」とエリア。
「以前の井戸筋へ」
「以前、とは宮殿建設前か、建設後か」
また「元」が二つある。
職人が答える。
「塩い方」
「水量は五分減ります」
「雨の日に補う」
「衛生検査が要る」
「やって」
住民は、昔どおりを感情だけで選んでいるのではない。
味と量と手入れを知った上で選ぶ。
エリアは地下水路を完全には戻さない。
分岐弁を置く。
通常は塩気のある旧筋。
渇水時は宮殿側から補助。
変更には井戸利用者と保守者の確認。
「王家の許可は」と返還官。
「井戸を使うのは王家だけではありません」
「宮殿基礎へ影響が」
「なら行政として参加を。所有者としてではなく」
次に、学校区から異議。
新しい接続では、教室から避難広場まで近くなった。
だが、途中の菓子屋を通らない。
「それは安全上の問題?」と測量官。
子どもたちが一斉に頷く。
「おやつ」とハル。
「違う」と教師。
「違わない」と子ども。
菓子屋の前は、登下校時に店主が外へ立つ。
迷子、喧嘩、体調不良を最初に見つける非公式の見守り点だった。
最短避難路は、安全設備を一つ消していた。
「菓子屋を広場へ移す?」とカイル。
「店主に聞かず店を動かすな」とハル。
店主は移転を拒む。
「窯がここ」
「では路を曲げる」とエリア。
「二十三秒増える」と測量官。
「見守り一名が増える」
「災害時には」
「緊急直線路も残す。平時路と非常路を同じにしない」
地図へ、二本の線。
毎日の道。
緊急時の道。
最短だけが正しいわけではない。
日常の遠回りが、危機の早期発見を作ることがある。
港からも異議。
新しい係留位置では、ゼロスター号の片帆を修理しやすい。
代わりに、漁船三隻の朝日が遮られる。
「俺たち出るから一日だけ」とロロ。
「一日でも干し網が乾かない」と漁師。
「じゃ船を三メートル回す」
「帆が宮殿鏡へ近づく」とエリア。
「帆を畳む」
「負荷受けが」
「今は最終接続まで必要。終わったら畳む」
「期限」と漁師。
「最終段から十五分」とロロ。
「超えたら」
「係留料を返す」
「倍」
「一・二倍」
「一・八」
「都市救った船だぞ!」
「うちの網も生活を救う」
「一・五!」
「成立」
ミラがいなくても、契約の掛け合いは残っている。
過去の仲間は、本人がいない場面でも、言葉と制度の癖として船にいる。
葬庭では、道を一本増やさないでほしいという異議が出た。
「救難路が少ない」と行政。
「知らない人が近道に使う」と遺族。
「公共路です」
「ここは、見ない選択をした人が歩く」
完全な閉鎖ではない。
緊急時だけ開く折り畳み路。
平時は、入口に目的を表示する。
通る権利はある。
通らない配慮を求める。
「法的強制は」とセレナ。
「しない」と遺族。「でも知らずに通る人には知らせて」
禁止ではなく、文脈を表示する。
地図へ、白い縁の静穏印が付く。
確認は、予定より九分遅れた。
中央軸の摩耗限界は近い。
「異議を後回しに」と返還官。
「今拾わなければ、復旧後は既成事実になる」とエリア。
「全ては拾えない」
「拾えなかったものを記録する」
未確認欄。
返答待ち。
現地へ行けず。
利用者不在。
意見対立。
空欄を、完了として塗らない。
エリアの地図は、完成から遠ざかるほど正確になった。
線が増えたからではない。
描けなかった場所が、描けなかったと見えるようになったからである。
「最終段へ進めますか」とセレナ。
エリアは透明板を数える。
保留二件。
未確認四件。
現時点で危険なし。
変更路あり。
「進めます。ただし、完了とは記録しない」
「何と」
「生活再開可能。確認継続」
復旧は終わりではなく、次に直せる状態へ戻すことである。
「最終段」
エリアの呼吸が三へ上がる。
「交代」とハル。
「あと一段」
「完全交代って言った」
「地図は私が」
「読み上げをリゼ。位相順をセレナ。俺が外輪。エリアは確認」
「精度が」
「一人より落ちる。だから三人で確認する」
エリアは地図槍を握り続ける。
母の事故。
改革調査で、最後の一本を自分で描こうとした母。
父はそれを止められなかった。
娘は母と同じ姿で、同じ言葉を言いかける。
自分がやらなければ。
フリードリヒの声。
『エリア』
私的な呼び方。
『安全とは、次の日も続けられることだ』
「お父様」
『次の日、訂正できる地図を残しなさい』
エリアは槍を閉じる。
「交代します」
座る。
リゼが表示を引き継ぐ。
「最終段。全位相の変更履歴を保存。単一の原図を指定しない。次回変更は三者確認。緊急路は期限付き」
セレナが確認。
「住民選択との一致、九十八。二件は保留。保留路を維持」
ハルが外輪へ足を掛ける。
「回す」
「一、二、三」と今度は三まで言う。
外輪が動く。
中央塔の百枚の鏡が、花弁のように開く。
回転する街路が、少しずつ止まる。
市場が地面へ戻る。
港の水が下へ落ちる。
学校の屋根が空を向く。
宮殿の廊下が、宮殿の中へ戻る。
完全に元通りではない。
新しい保留広場。
戻り矢印。
非閲覧路。
十三メートル移った宮殿。
中央時計以外の位相標識。
変更履歴が、街の壁へ細い線で残る。
最後の朝を、原型として保存しない。
百方向のどれかを本物へしない。
百の朝を経た都市が、次の時間へ進む。
中央塔の底から、一枚の鏡が上がってくる。
表と裏がない。
一方には、鏡王都の空。
もう一方には、同じ空ではない青。
白い縁が、その二つを混ぜずに囲む。
第三の天鍵たる双界鏡〈ツイン・ワールド〉。
誰もまだ触れない。
鏡は中央で、二つの空を映した。