第407話 第十二章「双界鏡と白い縁」前編
都市が救われた翌日、最初に問題になるのは英雄の銅像ではない。
水道である。
次に便所。
その次に、朝のパンをどこへ運ぶか。
歴史書は制度の成立日を、王の署名や議会の採決で記す。
人々が制度を本当に受け入れた日は、もっと地味だ。
昨日まで通れなかった路で牛乳が届き、戻り矢印の前で子どもが考え直し、役所の窓口が「保留」を拒まず、修理代の請求先が決まった日である。
七面王都の新しい朝は、一方向から昇らなかった。
正確には、朝日そのものは一つだった。
各街区が、それぞれの時計と風と砂で朝を確認した。
同じ光を、同じ時刻と呼ぶ必要がなくなった。
「パンが来ない」
ハルは市場の空箱を見た。
「都市救難の翌朝としては、重大事件です」とエリア。
「腹が重大」
「昨日、粥を三杯」
「昨日と今日を同じ腹で数えるな」
「胃は連続しています」
「じゃエリアの紅茶も昨日のでいい?」
「それは別です」
「制度が不公平」
新しい市場路は、昨日の地図から七メートルずれていた。
パン車は旧経路へ行き、保留広場で止まっている。
事故ではない。
運転手が、初めて見る四本の矢印の前で「今は選ばない」を選んだ。
「正しい」とエリア。
「パンが止まってる」
「迷った運転手が、分からないまま進まないのは正しい」
「腹には間違い」
「迎えに行きます」
ハルが走ろうとする。
左肩が痛む。
顔へ出る前に、エリアが言う。
「痛み」
「二」
「昨日三。回復傾向。走行は」
「軽くなら」
「軽く、の速度を定義」
「パンより遅く」
「止まっているパンより?」
「……歩く」
ノクスが先へ行く。
今日は匂いが一つに戻っている。
それでもパンの匂いだけ追わない。
ハルの足音を待つ。
群れを選んだ実績を、一日でやめない。
保留広場には、パン車と三台の荷車があった。
運転手は路標の前で腕を組んでいる。
「王宮路、旧市場路、診療所経由、戻る」とハル。
「旧市場へ行きたい。しかし旧市場路は十二分後に再評価とある」
「待ってた?」
「待っている」
「パンが冷める」
「事故よりいい」
「正しい。でも腹が」
「少年、君は何を優先している」
「正直に言えばパン」
運転手が笑う。
エリアは路標の裏を確認する。
「風向きが変わって、旧市場路の再測定が必要です。私が測ります。運転手は待つ、戻る、診療所経由を選べます」
「待つ。あと十二分」
「今、八分です」
「更新されたのか」
「裏面に変更履歴があります」
運転手は路標を裏返す。
昨日なら、役所が上書きして終わった。
今は、誰がいつ何を変えたか残る。
「八分待つ」
ハルは空腹でうなる。
ノクスも鳴く。
「ナァ」
「お前も?」
ノクスはパン車でなく、運転手の弁当袋を見ていた。
「それは別料金だ」と運転手。
ノクスは硬貨の穴へ爪を入れ、ハルのポケットから一枚引き抜く。
「勝手に払うな!」
「対価を理解している」とエリア。
「俺の金!」
「借りは労働で返すのでしょう」
「ノクスの労働を俺が?」
「群れの共同債務ですね」
制度は、最初から美しく運用されない。
パンと弁当と小銭で揉めながら、生活へ馴染む。
八分後、パン車は旧市場へ着いた。
英雄の凱旋より遅く、行政の布告より確実に。
市場の空箱へ、焼きたてではないパンが並ぶ。
少し冷めている。
道を選び直したため、昨日より十三分遅い。
「味は」と運転手。
ハルが一つ取る。
エリアが見る。
「支払い」
「試食」
「購入者が決まっています」
運転手がパンを半分に割る。
「路の案内料」
「正当な対価」とハル。
「あなたは払っていません」とエリア。
「労働」
「契約した?」
「今した」
「事後契約」とセレナ。
「記録しないで」
「既に」
パンは、昨日の共同窯の種で焼かれていた。
少し酸っぱい。
旧市場の鏡磨き職人が食べる。
「塩が足りない」
新しい井戸筋の水に塩気が戻ったため、窯側が配合をまだ直していない。
「制度の味」とユノ。
「美しく言うな」とハル。
「では、調整不足」
「正確」
市場の長机へ、救難に関わった者が集まる。
王子。
公女。
修理工。
門守。
鏡磨き。
窯番。
朝鐘の教師と見習い。
名前を記録しなかった避難者。
席順はない。
ユノが上座へ案内される。
断る。
「王家が謝罪する席は、中央へ」と市場役。
「食事の中央と政治の中央を同じにしないでくれ」
「どこへ座る」
ユノは端を選ぶ。
リゼが隣へ座らない。
二席空ける。
「家族なのに」と市場役。
「今朝は別の仕事」とリゼ。
兄妹の距離を、他人が和解の演出へ使わない。
カイルは、背中へ板を入れた椅子へ座る。
「王太子用の椅子?」とハル。
「負傷者用」
「王太子も使える?」
「人だからな」
王盾炎を使った背中は、痛み三。
食卓で強がる必要はない。
セレナが右側へ水を置く。
「左から来ないの、覚えてる」とハル。
「友人の身体条件です」
「記録?」
「生活」
短い答えだった。
ロロは食卓へ来ない。
ゼロスター号の甲板で、六裂帆を調べている。
ハルがパンを二つ包む。
「一つでいい」とエリア。
「ロロは食べながら怒る」
「もう一つは」
「ピコ」
「機械鳥はパンを食べません」
「盗む」
「それは食事ではなく犯罪」
案の定、甲板へ着く前にピコが一つ奪う。
『あさ! 修理代! あさ!』
「朝と金しか覚えてねえ!」とロロ。
「飼い主に似た」とハル。
「誰が飼い主だ!」
帆の裂け目は、昨夜より広がっていた。
壊れたのではない。
負荷を一か所へ集めないため、あえて切り広げた線。
白銀帆は六枚の細い羽根へ分かれたまま。
「元へ縫わない?」
「一枚へ戻せば強い。でも次に違う位相を受けたら同じ場所から裂ける」
「都市と同じ」
「船の方が先に賢い」
「作ったのロロ?」
「今から賢くする!」
六枚それぞれへ、異なる継ぎ材を付ける。
自由港の銅。
王獣の腱糸。
鏡砂の薄布。
学院の規則布。
幽霊艦隊の旧帆糸。
まだ空いている一枚。
旅の傷を消さず、次の機能へ使う。
「空いてる」とハル。
「不足じゃねえ。次の荷重を見て決める」
「保留」
「機械にも期限付きだ。三航行ごとに再確認」
「学んだな」
「俺が教えた!」
ロロはパンを受け取る。
代金を聞く。
「案内料の半分」とハル。
「お前がもらったのを又貸し?」
「共同債権」
「ミラの悪影響!」
「継続してる」
「褒めねえ!」
ノクスが帆の下で寝ている。
匂いが一つに戻っても、三つの船影を探す夢を見ているのか、前脚が時々別方向へ動く。
ハルは起こさない。
群れを選び直した獣にも、休む時間が要る。
甲板の端で、エリアが新しい路図を広げる。
昨日なら一枚の完成図を見せた。
今日は、重ねた透明板を一枚ずつ置く。
「旧市場の水路」
「学校の菓子屋路」
「葬庭の静穏印」
「港の係留期限」
ロロがパンを噛みながら見る。
「誤差欄、でかいな」
「未確認を小さく書くと、確認済みに見えます」
「完成図は」
「ありません」
「売れない地図」
「使う人が直せます」
「修理代は」
「地図の?」
「何でも無料と思うな!」
フリードリヒが、少し離れた場所で聞いている。
「公共地図の改訂費は予算化する」
「本当に?」
「変更履歴の保存を条件に」
「公爵、今日は話が早い」
「五秒待った」
「気づかなかった」
「改善ではなく、君たちが騒がしい」
市場から新しい朝鐘が聞こえる。
一斉ではない。
少しずつ、違う場所から。
食事を終えた者から立つ。
誰も号令を待たない。
窯へ戻る。
窓口へ行く。
鏡を磨く。
船を直す。
事件が終わった後に仕事へ戻れることは、物語上は地味である。
生き延びた者にとっては、最も大きな結末の一つだった。
双界鏡は、中央塔の地下から運び出されなかった。
運び出せなかったのではない。
誰の所有物にするか決めず、場所だけ共同管理へ置いた。
鏡の周囲へ、七つの鍵穴がある。
一つは王家。
一つは街区代表。
一つは門守。
一つは記憶権窓口。
一つは機関保守。
一つは外部監査。
一つは未設定。
「未設定を残すのですか」と返還官。
「将来、今の六者が見落とした当事者のために」とトーヴ。
「具体的でない」
「具体的でない席を埋めるため、未来の人を勝手に決めない」
「鍵が六つでは開かない?」
「通常は開かない。緊急時は六者のうち四者と、期限付き公開記録。未設定席へ後日異議を提出できる」
「誰もいない席へ異議?」
リゼが空の椅子を置く。
額へ札。
『まだ呼ばれていない人』
「空席は、誰もいないって意味じゃない。まだ見つけてない、という表示」
双界鏡の表面に、白い縁。
現実の窓か。
予測像か。
遠方の反射か。
まだ確定していない。
だから王家は「異世界への門」と発表しない。
新聞は書きたがった。
ユノは公式発表へ、短く記す。
『二つの異なる空を映す鏡。接続性、距離、時刻は未確認』
「売れない見出しです」と新聞記者。
「売るための鏡ではない」
「第三の天鍵なのでしょう」
「名称は確認された。用途は未確認」
「世界を救う鍵では」
「その結論まで、誰が整えた?」
記者は黙る。
ユノは微笑まない。
説明を拒むのではない。
分からないことを、分かる物語へしない。
王家記憶庫の前には、三つの窓口ができた。
返還。
非閲覧。
保留。
正式法ではない。
二十四時間の暫定運用。
だから入口へ大きく終了時刻が書かれている。
片手袋の鏡磨き職人が来る。
非閲覧窓口へ、自分の札を置く。
「一年封印。三か月後に一度、選択を聞き直す。私が来なければ自動返還しない」
「確認者は」と窓口係。
「いらない」
「緊急連絡は」
「妹。内容は話さない」
「記録分類は」
「王家の傾向図から削除。削除した履歴は残す」
「承りました」
職人は、泣かない。
夫を忘れ続けることを選んだのでもない。
今日、自分の仕事へ戻る。
鏡を磨く。
ただし王家の完璧な鏡面は断る。
「裏のある鏡だけ請ける」と言う。
朝鐘見習いは、教師と一緒に来る。
小鈴を二回。
母の歌の続きを、一音だけ受け取る。
今度は、鍋の蓋が落ちる音。
歌ですらない。
少年は笑う。
「母さん、料理下手だったかも」
「断定しない」と教師。
「分かってる。でも、そうだったら面白い」
感覚断片は完全な真実ではない。
完全でないから、人生へ入れられないわけでもない。
本人が仮の意味を持ち、後で変えられるならよい。
リゼは自分の窓口へ行かない。
行かないことを、誰も問題にしない。
「二十四時間後、聞く?」とユノ。
「窓口が聞く。兄さんが寝室へ来て聞かない」
「分かった」
「一回で分かるなら成長」
「継続して?」
「便利だから借りた」
セレナは、ハルへ一枚の複写申請書を渡した。
王家記憶庫で見つけた手書き地図。
「正式複写が許可されました」
「早い」
「緊急記録監査の一部です。原本所在は不明。写しの写しになります」
「父さんのだって分かった?」
「分かっていません」
「即答」
「筆跡照合資料が足りない。凪野ソウジ本人の署名と比較できない。あなたの証言する筆癖とは複数点一致」
「何点」
「戻り角の丸印。坂の斜線。二重下線。紙右上の黒鉛汚れ。地球式に似た方位矢印。五点」
「五点あっても」
「本人と断定しない」
「厳しい」
「あなたが父上のものだと思って読むのは自由です。公的事実としては別」
複写を受け取る。
紙の線。
鏡砂の外縁。
見覚えのある父の癖。
答えはない。
行き先もない。
ただ、父がここへ来た可能性が一つ増えた。
ハルは喜ばない。
怒りもしない。
「これ見たら、すぐ走ると思った?」
「思いました」とセレナ。
「正直」
「実績です」
「今日は走らない」
「なぜ」
「今、行き先がない。線だけで走ったら、父さんが決めた道を追うだけになる」
地図を配達鞄へ入れる。
なくし物を見つけた時のように、一度だけ最後に正しかった向きへ戻す。
北矢印を上へ。
「でも持ってく」
「複写はあなたのものです」
「借りじゃない?」
「申請費を払えば」
「いくら」
額を聞く。
地球の菓子パン三十個分に換算し、固まる。
「高い!」
「王家記録の精密複写です」
「働いて返す」
「国庫は労働払いを受けません」
「ロロに頼む」
「偽造させないで」