第408話 第十二章「双界鏡と白い縁」後編
ユノは、ゼロスター号の客員席を空けた。
彼がゼロスター号へ乗ってから、四つの事件が過ぎた。
鏡砂の千扉隊商。
七夜舞踏会。
公女誘拐裁判。
万華鏡都市の最後の朝。
彼は一行と歩き、自分の国へ戻った。
戻った後にも、暮らしと責任は続く。
白縁規則は二十四時間後に失効する。
国民の一部は王家の記録を全公開しろと叫んでいる。
別の一部は、王家への侮辱として制度改訂を拒む。
記憶庫職員は仕事を失うと恐れ、被害者は職員を加害者と呼び、職員の中には命令へ逆らって記憶を守った者もいる。
ユノには、ここから先の失敗がある。
遠くの仲間が代わりに解決してくれる失敗ではない。
「残るんだな」とハル。
「ここが私の国だから」
「王になる?」
「決めていない」
「決められない王」
「ガンガに失礼だ」
「王じゃない」
「では、決められない第一継承者」
「長い」
「肩書好きだろ」
「美しい肩書は好きだよ」
「今のは美しくない」
「だから正確かもしれない」
ユノは白いヴァイオリンを背負う。
ひびを隠さない。
右手薬指には薄い固定帯。
「ハル」
「何」
「君の父の地図を、見せてほしいとは言わない」
「珍しい」
「見たい。だが、見たいことと見せてもらう権利は違う」
「そのうち、俺が見せるかもしれない」
「そのうち、を予約しない」
「面倒だな」
「制度を学んだ」
「友達としては?」
ユノの目元が先に崩れる。
「見せてくれたら嬉しい」
「それでいい」
リゼが横から言う。
「兄さん、今の方が短い」
「演出なしは語彙が減る」
「本音が増えた」
「継続して?」
「その言葉、流行らせないで」
ユノがゼロスター号へ別れを告げる前に、白縁規則の最初の公開聴聞が開かれた。
二十四時間の暫定規則は、英雄の署名だけでは延長されない。
中央広場へ、賛成者より先に反対者が来た。
「王家の記録を全部開け」と、昨日石を投げた男。
「王家への侮辱を止めろ」と、古い礼装の貴族。
「記憶庫職員を犯罪者扱いするな」と、職員組合。
「命令に従っただけで免責するな」と、被害者。
四つの声が同時に来る。
以前のユノなら、争点を美しい一枚へ並べた。
互いに理解できる共通像を作り、感情の尖りを丸め、会議を前へ進めた。
今日は、像を出さない。
「一人ずつ」とも言わない。
一人ずつにすれば、最初に話した者が議題を決める。
広場へ四つの白枠を置く。
『全公開要求』
『非公開要求』
『職員責任』
『被害回復』
同じ人が複数へ立てる。
「分類するのか」と男。
「あなたの話を一つへ減らさないためだ。違うと思えば枠を書き換えて」
「王子の許可で?」
「街区記録係と公開板の前で」
男は『全公開要求』へ、細い線を足す。
『王家の公務だけ』
「昨日より狭い」とユノ。
「考えた」
「訂正を歓迎する」
「褒めるな」
「では記録する」
貴族は、白縁規則そのものが王権を弱めると主張した。
「外敵が来た時、記録公開を選んでいる間に国が滅びます」
「緊急条項はある」とトーヴ。
「六者のうち四者と期限付き記録。未設定席への後日異議」
「空席へ権限を与えるなど、政治ではない」
リゼが空の椅子を指す。
「呼ばれてない人を、いないことにする方が政治?」
「十四歳の学生が国家を」
「年齢で正しさを軽くするな」
ネムの言葉が、遠い土地から移っている。
ユノが妹を止めない。
代わりに貴族へ聞く。
「あなたの恐れる具体的な場面は」
「敵国の攻撃時、軍路の記憶が封印される」
「公共の軍路記録は私的記憶と分ける。昨日の規則でそうした」
「職員が間違えれば」
「監査と訂正。私も間違える」
「王が間違えると言うのか」
「言わない王より危険かな」
貴族は納得しない。
それでも議題は、「王権を守るか壊すか」から「緊急時の軍路記録をどう分けるか」へ具体化した。
職員組合は、命令系統の公開を求めた。
「誰の印で分類したか出せ。末端だけ名前を晒すな」
被害者側は反発する。
「職員も私たちを傾向図へ入れた」
「拒めば解雇された」
「拒まなかった」
「家族がいた」
「私にもいた!」
正しさが正しさへぶつかる。
ユノの指がアルマの弓へ行く。
右手薬指が痛む。
それだけではない。
演奏すれば、全員の呼吸を同じ拍へ近づけられる。
議論は静かになる。
静かになった分、誰が先に怒っていたか分からなくなる。
ユノは手を下ろす。
「休憩」と言う。
「逃げるのか」と被害者。
「私が演奏したくなった。演奏せずに戻るため五分」
自分の危険を、会議手順へ開示する。
以前なら、王子の内面は会議と無関係とされた。
権力者の感情を無関係として隠すと、その感情は無意識の命令になる。
五分後、ユノは戻る。
アルマはケースへ入れたまま。
「続ける。職員個人の命令拒否可能性と、実際の加害行為を分けて記録する。組織命令は上まで追う。被害回復は、命令の存在を理由に止めない」
「両方へいい顔」と男。
「両方へ悪い顔かもしれない」
「笑わないのか」
「今は必要ない」
聴聞は決着しなかった。
白縁規則は、十二時間だけ延長された。
二十四時間ではない。
次の聴聞まで。
記憶庫職員の一部は業務停止。
生活に必要な返還窓口は継続。
王家公務記録の一次一覧だけ公開。
個人記憶は本人選択を維持。
「半端」とハル。
広場の端で見ていた。
「うん」とユノ。
「負けた?」
「何に」
「綺麗な決着」
「それには負けた」
「嫌?」
「かなり」
「でも残る?」
「ここからが私の失敗だから」
ゼロスター号と別れた後も、彼には会議がある。
怒鳴られる日がある。
自分の案が否決される日がある。
善意が別の支配になる日がある。
それを、航路通信の外へ追いやらない。
ユノは広場の公開板へ、自分の失敗欄を一つ足した。
『演奏衝動により休憩五分。会議誘導の危険を本人申告』
「そこまで書く?」とハル。
「書かないと、後世は『王子は終始冷静だった』と書く」
トーヴが頷く。
「既に草稿でそうなっています」
「消して」
「訂正履歴を残して消します」
「それでいい」
ユノは完璧な人物として国へ残らない。
訂正され続ける一人として残る。
客員席へ、四枚目の航路札が置かれる。
鏡砂の札。
薄い鏡片。
表面には何も映らない。
曇っているのではない。
像を返さないよう、裏側へ向けて作られている。
縁だけが白い。
像と本人を区別する線。
見ることと知ることを区別する線。
演出が始まる場所と、現実が続く場所を区別する線。
「無音ですね」とエリア。
「私の札だから」とユノ。
「ヴァイオリンではなく?」
「音を出さない選択も、私の物語へ入れたい」
札の裏へ、一行だけある。
『見えない部分を、勝手に完成させない』
ハルが読む。
「長い」
「君たちの札と比べれば短い」
「ミラの契約札は細字で裏まである」とロロ。
「請求条項が十五個」とエリア。
「俺の工房契約より多い!」
「あなたのは字が汚いだけ」とリゼ。
「王族に言われたくねえ!」
客員席の下で、ノクスが鏡片を隠そうとする。
「こら!」
全員が同時に言う。
ノクスは一度考え、鏡片を戻す。
代わりにユノの切れた弦を一本盗む。
「それは返して」
「ノゥ」
「対価は干し魚」
「ノゥ」
「二枚」
交渉が成立した。
ガンガとネムから、遅れて伝羽が届く。
ヴァルカの会議記録。
行き先を決めない小群れへ、期限付きの途中水場が認められた。
空拍は賛成票へ数えない。
期限が来たら、もう一度聞く。
最初の期限では、誰も最終行き先を決めなかった。
二度目でも決まらなかった。
それでも群れは干上がらず、別々の道で生きている。
「決まってない報告」とハル。
「続いている報告です」とエリア。
決着していないことと、失敗は同じではない。
物語が続いていることと、問題を先送りにしたことも同じではない。
期限と途中路と、次に聞く人がいるなら、未決は一つの状態として守れる。
出航の時刻。
七面王都の朝鐘は、もう一斉に鳴らない。
街区ごとに違う。
旧市場は風見羽根が三度回ってから。
学校は子どもたちの手鐘。
葬庭は鳴らさない日を選べる。
王宮は中央時計を使うが、唯一の時刻と呼ばない。
音が揃わない。
ユノは、その不協和音を聞く。
「美しい?」とハル。
「正直に言う?」
「食事の感想みたいに」
「少し耳障りだ」
「王子らしくない」
「でも、嫌いではない」
「それで十分」
ユノが船から降りる。
リゼとトーヴも残る。
ピコだけが、船縁と港鐘楼の間を三度往復した。
万華鏡都市は、もう一つの中央時刻へ戻らない。鏡門ごとに朝の速さが違い、人が入れない細い導管では、時計のずれも留め金の欠落も、次の点検まで見つからない。
「小型の観測機が要る」とトーヴ。「魔法像は観測時刻を混ぜます。十二秒でも、現場の音と像をそのまま運べる機体が」
「こいつは貸すだけだぞ」とロロが言った。「所有は移さない。十四日ごとに継続確認。左翼軸は塩へ弱い。十二秒を超えて録るな。壊したら、壊した時刻と原因を先に送れ。修理代はその後だ」
「返せなくなったら?」とユノ。
「返せない理由を送れ。理由も送れない時の確認日まで決める」
「機械一羽に、ずいぶん丁寧だね」
「機械だから雑にしていいって規則、どこにある」
ピコは話し合いを待たず、ユノの空の額縁から欠けた留め金だけを磁石嘴で抜いた。
「それ、要る部品!」とリゼ。
真鍮の羽が開く。ピコはゼロスター号へ戻らず、時刻の違う三つの鐘楼を結ぶ細い索へ飛び移った。いちばん高い鐘楼で首を一回転させ、ロロが請求書を開く音を十二秒だけ再生する。
『修理代、誰に請求すりゃいいんだよ!』
「もう答えた気になってる」とハル。
「返事か、記録の偶然かは決めるな」とロロ。「次の確認日に、もう一度見る」
「帰ってくる?」
ピコは鐘楼の影へ潜り、額縁の留め金だけを光らせた。
永久の返事はなかった。
その日の選択だけが、港の上に残った。
「また会おう」とカイル。
「約束を軽く使うね」とユノ。
「会う努力をする。会えなければ理由を送る」
「王子同士の契約としては雑だ」
「友人同士なら?」
「採用」
セレナはユノへ、白縁規則の複写を渡す。
「二十四時間後、失効前に再提出を」
「別れの言葉が期限」
「継続する物語には必要です」
「了解、星律官」
エリアはユノへ礼をする。
公爵令嬢としての完璧な礼ではない。
航路士が同行者へする、短い礼。
「次の地図で、あなたの国を勝手に完成させません」
「私も、君の行き先を美しく決めない」
二人は婚約候補だった。
舞踏会で踊った。
互いへ敬意があり、好意もある。
それを、恋の勝敗へ一枚にしない。
ハルが横で妙に静かなので、エリアが見る。
「何」
「別に」
「正確に」
「ちょっと礼が長い」
「四秒です」
「測ってた?」
「あなたが」
「一般論」
「礼儀正しすぎます」
エリアが右手で口元を隠す。
ユノが笑う。
「白縁を付けようか」
「不要です」と二人同時。
掛け合いは、別れを軽くするためではない。
重いまま持てる大きさへするためにある。
ゼロスター号が港を離れる。
六裂帆は応急状態。
ロロは甲板へ「高速航行禁止」の札を三枚貼った。
ハルが一枚剥がす。
「増やすぞ!」
「三枚同じ」
「お前が一枚しか見ねえから三枚!」
「今見た」
「じゃ戻せ!」
ハルは戻す。
少し曲がる。
ロロが悲鳴を上げる。
「角が!」
「読める」
「道具は読めりゃいいんじゃねえ!」
「前に傷一つない工具嫌いって」
「俺が付ける傷とお前が付ける傷は別!」
船はゆっくり進む。
エリアの地図には、ハルの点がある。
線はまだない。
『現在位置・ゼロスター号』
『進路・共同確認中』
「共同確認中って何」とハル。
「今、船に乗っている全員で航路を確認している」
「俺とエリアの話じゃ」
「地図に私情を混ぜません」
「礼儀正しい」
「一般論です」
「じゃ後で私情で聞く?」
エリアの歩幅が半歩大きくなる。
未知の道を見つけた時と同じ。
「後で再評価します」
「期限」
「次の食事まで」
「短い」
「保留にも期限が必要です」
船尾で、鏡王都が遠ざかる。
元の形ではない。
十三メートル移った宮殿。
複数の時計。
戻り路。
白い縁。
変わったまま、生きている。
双界鏡の片側へ、異なる空が映る。
王都の管理者たちは、誰も接続操作をしていない。
白縁が自動で浮かぶ。
『観測像』
『距離不明』
『時刻不明』
『接続未確認』
遠い雷雲。
雲の中を、光の鎖が走る。
地上ではない。
空に敷かれた線路のように、規則的な光が続く。
その上を、列車の影が横切る。
一両、欠けている。
先頭と後尾の間に、不自然な空白。
誰が乗っているかは見えない。
どこへ向かうかも分からない。
事故なのか、意図なのか、像なのかも断定できない。
ユノは白縁を消さない。
トーヴは原因欄を空白にする。
リゼは「見たい人だけ」と遮光幕を半分下ろす。
鏡の向こうで、遠雷が鳴る。
ゼロスター号の甲板でも、ほんの一拍遅れて同じ音が聞こえた。
ハルは振り返る。
「雷?」
エリアも聞く。
「方角は」
「分からない」
「では、まだ描きません」
「でも点は」
「消していません」
彼女の地図に、ゼロスター号の点。
ハルの点。
仲間たちの点。
行き先の線はない。
見えない部分を、勝手に完成させない。
だから空白は、終わりではない。
次に本人へ聞くための場所である。
遠雷の中を、一両欠けた列車影が横切った。