第409話 第一章「雷雲を走る牢獄」前編

監獄は、壁でできているとは限らない。

 壁とは越えられない境界のことである。石でも、鉄でも、法律でもよい。さらに言えば、停車しない列車ほど優秀な壁はない。

 列車の右側へある島の裁判官が令状を出した時、列車はもう左側の島へ入っている。左側の島が受刑者の待遇を調べようとすれば、車輪は別の鎖を渡っている。管轄とは地面に線を引く技術であり、地面を走り去る物へ線を追いつかせる技術ではなかった。

 雷鎖環ガルドの歴史家は、後にこう書く。

 移動監獄は囚人を逃がさないために走り続けたのではない。

 責任を追いつかせないために走り続けたのだ、と。

 もちろん、その歴史家は列車の中で揺らされていなかった。

 揺らされている人間にとって歴史とは、たいてい酔い止めより役に立たない。

「次の停車は、ありません」

 錆赤の髪をした少年車掌が、そう放送した。

 十五歳くらいだった。紺の車掌帽が大きすぎて、頭を下げるたび帽子だけ半拍遅れて追いつく。肩には木札。左右の手には、色ではなく縞、丸、三角で区別された二本の小旗。

「停車がないのに『次の停車』って言うの、言葉として故障してない?」

 凪野ハルが聞いた。

「故障してません。停車しない予定を案内してます」

「ない物を案内するのか」

「ないって知らず待つより親切です」

「親切の形が暗いな」

「この列車、明るい案内をすると苦情が来るんです。『囚人輸送で楽しそうにするな』って」

「暗くしたら囚人が喜ぶの?」

「そこまで聞かれたの、初めてです」

 少年は帽子の鍔を二度叩いた。

「見習い車掌、テト・ヴァンです。ヴァン。バンじゃありません」

「まだ何も間違えてない」

「都会の人は先に間違えます」

「俺、都会の人に数えられた」

「地球は大都会ですか」

「場所による」

「良い答えですね。時刻表にも欲しいです」

 テトは一枚の検札板を左手で抱え直す。

 その背後、窓いっぱいに雷雲が走っていた。

 正確には、列車が走っている。

 しかし窓の外の景色は、観測者の謙虚さを要求しない。黒紫の雲が後ろへ吹き飛び、白い稲妻が鎖から鎖へ飛び、岩島の底へぶら下がる工場灯が一瞬ごとに上下を変える。空に敷かれた二本の光線を、鉄の車輪が火花で踏み鳴らす。

 雷雲を走る空中列車〈サンダー・ライン〉

 岩島と岩島の間へ張られた導雷鎖を、電光が一時的な軌道へ変える。車輪は鉄路を踏んでいるのではない。雷が「今ここを線路とする」と決めた場所を踏んでいる。

 そして彼らが乗っているのは、一般列車ではなかった。

 走り続ける監獄列車〈ブラック・ライン〉

 十二両編成。

 一号車は運行局と護送責任者のための指揮車。

 二号車は武装警備。

 三号車は証拠保管。

 四号車は公的証人。

 五号車は医療・救護。

 六号車から十号車が収容車。

 十一号車が機関補助。

 十二号車が後部制動。

 同じ列車の中に、銀食器の出る卓と、名前を呼ばれない寝台がある。

 距離にすれば百八十メートル。

 社会にすれば、百八十年ほど離れていた。

「正確に言えば、四号車は『公的証人および護送証人』です」

 エリア・ルーンベルグが言った。

 濃紺の髪。左だけ長い三つ編み。白と濃紺の旅装へ、右肩だけの短いケープ。手元には、鏡砂環から雷鎖環へ至る移動図が広がっている。

「俺たち、どっち?」とハル。

「両方です。万華鏡都市の救難記録について証言し、セレナの証拠を護送する」

「護送される証人が護送する証人」

「言葉遊びを始める前に、転倒防止帯を締めて」

「締めてる」

「腰ではなく座席へ」

「座席が俺を締めるの?」

「あなたを信用しない仕組みです」

「正しい」

 ハルは帯を座席金具へ通した。

 左肩が引かれ、わずかに痛む。

 鏡王都の百方向の朝から十一日。亜脱臼しやすい肩は日常動作へ戻っていたが、治ったとは言い切れない。治ったと断言する人間は、たいてい次の無茶を許可してほしいだけである。

「痛みは」とエリア。

「一」

「十段階で?」

「昨日より一少ない」

「尺度を途中で変えない」

「元気」

「それは診断名ではありません」

「お前ら、十一日ずっとそれやってるな」

 向かいの長椅子で、カイル・アークレイが苺の乾菓子をかじった。

 赤金の髪。深紅の半マント。王族用の白い礼装ではなく、旅の短外套。その右腕には盾型籠手があり、左膝を少しだけ前へ出している。

「十一日ずっと聞いてるなら、止めろよ」とハル。

「止めたらエリアが一人で心配するだろ」

「余計な補足をしないで」

「王子の仕事は、言わなくていいことを国民へ言うことだ」

「退位理由が増えました」とセレナ・クロウ。

 黒い外套を座席へ一分の皺も作らず下ろし、六角形の単眼鏡を左眼へ当てている。膝の上には、封緘された証拠箱。黒い羽根型の記録札が六枚、重さ順に並ぶ。

「まだ即位していない」とカイル。

「では、即位前不適格事由」

「語が長くなっただけで景気が悪い」

「事実だけを。乾菓子は三号車の証拠保管用非常食です」

「証拠番号は?」

「食べた者へ付します」

 カイルは最後の一枚をハルへ投げた。

 ハルは受け取らない。

 黒い影が横から飛び、空中で乾菓子を奪った。

「ノクス!」

 二本の青白い尾を揺らす夜獣が、棚の上へ着地する。金色の目。右耳先の三角の欠け。口いっぱいに苺。

「共犯が増えた」とカイル。

「主犯です」とセレナ。

「ノゥ」

「否認しました」

「食ってる時点で現行犯だろ」とロロ・ピクス。

 床へ腹ばいになり、座席下の固定器を分解している。黄色い作業上着。青い二眼ゴーグル。背中の四本の補助腕が、別々の長さのねじを並べていた。

「何してるの」とハル。

「転倒防止帯の金具が一個だけ新しい。新しい部品は信用ならねえ。古い部品は壊れ方を知ってる。新品はまだ自分がどう壊れるか知らねえ」

「人間にも言える?」

「お前は十五年使っても壊れ方を学習しねえ」

「長期保証」

「保証拒否だ!」

 列車が大きく震えた。

 ロロの補助腕が同時に床をつかみ、ハルの肩へ置かれたエリアの左手が一瞬だけ強くなる。カイルは右籠手を左拳で二度叩く。セレナは証拠箱を先に押さえ、それから人員を数えた。

 テトだけが笑った。

「通常揺れです。次は――右雷、停車零秒」

「天気を駅みたいに言うな」とロロ。

「駅が天気みたいに消える地域なので」

 白い光が窓を塗りつぶした。

 音は一拍遅れて来る。

 雷は光ってから鳴る。地球でもアステリアでも、光と音の速さが違うことは同じだった。ただし雷鎖環では、音が列車の骨を通って先に腹へ届く場合がある。

 どん、と座席が下から殴られる。

「今のは?」

「通常より一段大きい通常揺れです」

「通常の幅が広い」

「雷鎖環では生きている範囲が通常です」

 テトはそう言って、検札を始めた。

 この列車の切符は、目的地を示さない。

 停車しないからである。

 代わりに、乗車理由、拘束等級、開錠権限、医療優先、証言資格が穴の形で刻まれる。切符は旅の許可ではなく、車内で人間が何として扱われるかの小さな法律だった。

 テトの票鋏が鳴る。

 かちん。

 一号車。

 かちん。

 二号車。

 彼は車両ごとの検札板へ穴を開けながら、連絡扉を進んでいく。

 三、四、五。

 ハルは窓の外より、その音を聞いていた。

「何を数えているの」とエリア。

「切符の音」

「見れば番号があります」

「見るより数える方が迷わない」

「あなたは地図を見ると迷うでしょう」

「だから見ない」

「改善する気は」

「一回走らせて」

「列車内を?」

「屋根も」

「却下」

 六。

 七。

 八。

 音は雷の隙間を縫った。

 九。

 十。

 十一。

 十二。

 最後の音が遠ざかる。

 ハルは指を止めた。

「十三」

「十二両です」とエリア。

「今、十三回鳴った」

「途中で工具音が混じったんじゃねえか」とロロ。

「俺の音はもっと高い」とテトの声が隣車から返る。「それと俺、十二回しか穿ってません!」

「じゃ、十三回目は誰」

 床下から、低い金属音がした。

 かちん。

 今度は全員が聞いた。

 ノクスの二本尾が、逆方向を指す。

 片方は前。

 片方は下。

「列車の下に改札がある?」とハル。

「正確には、音源が下方」とセレナ。

「それを列車の下って言う」

「雷鎖環では下方が変わります」とエリア。

「じゃ、下っぽい方」

「精度を捨てるな!」とロロ。

 床板へ耳を当てる。

 聞こえるのは車輪音。

 規則正しい四拍。

 がたん、がたん、がたん、がたん。

 その奥に、別の拍があった。

 わずかに遅い。

 列車の音へ重なりながら、同じ線路を走っていないような音。

 ハルが床へ掌を置く。

 配送店の二階で育った彼は、トラックの種類を床の振動で当てた。大型冷蔵車は低く長い。軽トラックは細かい。母の配達車は左後輪だけ半拍遅かった。

「もう一本、走ってる」

「並走列車は運行表にありません」とテト。

「運行表にない物は走れない?」

「走ったら事故です」

「事故なら走れる」

「嫌な正論だな」とカイル。

 セレナは単眼鏡の縁を一度押した。

「先ほどの十三回目を主観記録として保存。音源、車両位置、時刻は未確定」

「時刻は?」

「機関時計、十八時四十二分十七秒」

 外の空は朝にも夜にも見えた。

 雷雲の中では、時計だけが空の代わりをする。