第410話 第一章「雷雲を走る牢獄」後編
四号車から七号車まで歩く許可を得るのに、書類が三枚必要だった。
人を閉じ込める制度は扉を重くする。扉を開ける制度は紙を重くする。
その三枚を集める間に、ハルたちは列車を前へ歩いた。
一号車の床には濃紺の絨毯があり、雷の振動を半分だけ吸った。壁際の食堂卓では、運行局員が銀の蓋を開けて温かい豆煮を食べている。二号車へ入ると床は鉄格子へ変わり、油と武器革の匂いがした。三号車の証拠箱には一つずつ温度計が付き、四号車の証人席には二人で一本しか毛布がない。
「証拠の方が暖かい」とハル。
「証拠は温度が変わると価値を失います」とセレナ。
「人は?」
「温度が変わると命を失います」
「じゃ、毛布」
「配給権限が別です」
「命より細かい」
「命が一項目しかないことを理由に、他の項目を消す制度があります」
セレナは証拠箱の保温布を人間へ回さない。代わりに自分の黒い外套の内布を一枚外し、証人席の毛布へ足した。
「私物です。配給記録不要」
「制度に勝った?」
「制度の外で一枚減りました。勝ってはいません」
五号車は救護車だった。
白い寝台。固定具。壁へ一本ずつ留められた薬瓶。だが設備の半分には封緘札が付いている。患者がいない時に使われないようにではない。収容者へ使うには収容局の許可が要るからだった。
「急病人が七号車にいるのに、こっちの寝台は空」とハル。
「移送すると拘束等級が変わるんです」とテト。
「身体を移すと罪が変わる?」
「罪じゃなく、管理する局が変わります」
「本人は同じ」
「だから書類が要ります」
テトは説明しながら、壁の小さな水差しを一つ見た。
『乗務員用』
隣には、もっと小さい差し口。
『収容者用』
同じ水槽へつながっている。
「口の大きさが違う」とハル。
「一回量を制限するため」
「喉の渇きにも等級?」
「暴動時に水を貯められないように」
「水を貯めると暴動になる?」
「水がないと暴動になります」
「規則が自分で原因作ってない?」
テトは帽子の鍔を二度叩いた。
「見習いは、質問へ答えすぎると配置換えです」
「どこへ」
「質問が少ない駅」
「そんな駅ある?」
「中央には多いです」
六号車へ入る。
空気が変わった。
窓は細い。座席ではなく、床へ固定された区画帯。人影が鉄網の向こうへ並ぶ。顔を向ける者。向けない者。眠る者。眠ったふりをする者。
配膳口から、固い黒パンが一つずつ入る。
番号が呼ばれる。
名前は呼ばれない。
「食事、余ってる?」とハル。
配膳員が見る。
「証人用なら一食追加可能です」
「こっちへ」
「収容者用の配給札が必要です」
「同じパン?」
「証人用は白パンです」
「じゃ黒い方を買う」
「購入制度がありません」
「金を払う制度がない?」
「無償配給です」
「無償なのに渡せない?」
「対象が違います」
カイルが自分の携帯食を出す。
「王族用非常食なら」
「政治的贈与になります」とセレナ。
「パン一個が外交?」
「収容者へ王太子が個別に物品を渡せば」
「王子、便利じゃない」とハル。
「生まれてから薄々思っていた」
鉄網の向こうで、誰かが笑った。
短い笑い。
配膳員は番号札を見る。笑った者を特定しようとする。
ハルは先に自分の腹を押さえた。
「俺」
「何が」と配膳員。
「腹が鳴った」
「笑い声だった」
「腹にも色々ある」
「声帯付きか」とカイル。
「王子、援護が雑」
配膳員は諦めて進む。
鉄網の向こうから、小さな声がした。
「白パン、まずいぞ」
「食べたことある?」ハル。
「昔は外にいた」
それだけだった。
全ての囚人に過去があるという、当たり前の事実だけが残る。
テトは乗員板へ目を落とす。
「列車は、切符の穴を見ます。穴にないことは、見ない」
「人は?」
「見習いなので、見ると怒られます」
「見た?」
テトは答えず、帽子の鍔を二度叩いた。
見た、という答えだった。
「護送責任者の許可が一枚、運行局の許可が一枚、収容局の許可が一枚」
セレナが説明する。
「同じ列車に三つ局があるの?」とハル。
「責任を分けるためです」
「分けたら軽くなる?」
「一人分は」
「全体は?」
「重くなる場合があります」
「知ってる顔だ」
「あなたが無断で開けようとしている扉を見た顔です」
ハルの手は、すでに扉の取っ手へあった。
「確認しただけ」
「回した」
「回るか確認」
「次は手錠が回るか確認しますか」
「誰の?」
「凪野ハル」
カイルが笑う。
「王太子権限で一枚減らせるぞ」
「増えます」とテト。「王族が監獄区画へ入る場合、政治安全票が二枚追加です」
「王権は紙を増やす力か」
「正確な理解です」とセレナ。
七号車の手前には、二重の鉄扉があった。
扉の上へ編成表示板。
青白い線で、十二の箱が並ぶ。
それぞれへ番号、重量、温度、鍵状態。
一から十二まで、全て点灯。
「七号車、政治・国家線妨害犯混載」とテトが読む。「本日二十四名。収容者十九名、うち医療観察一名。付き添い医一名。護送員四名」
「付き添い医も囚人?」
「記録上は『医療労務収容者』です」
「医者を医者って書くと困るの?」
「権限が発生します」
テトの声から、案内放送の硬さが消えた。
「名前は」とハル。
彼は名簿を覗く。
黒い線でいくつか伏せられている。
人間の名前が、罪状より先に隠されていた。
セレナが名簿を閉じる。
「今は閲覧権限がありません」
「名前を知るのも権限?」
「この列車では」
「景気が悪いな」とカイル。
「私の台詞を取るな」
「王家の知的財産か?」
「今からそうする」
冗談の間、列車は走り続ける。
扉の向こうから咳が聞こえた。
短い。
押し殺した咳。
次に女の声。
「息を吐け。吸うな。吐いた分だけ入る」
甘くない声だった。
患者を安心させるため声を柔らかくする人がいる。患者は子供ではないと、速度だけを落とす人もいる。
「ホルム医師です」とテト。
「囚人番号じゃなく?」
「本人の前で番号を言うと、止血具が飛んできます」
「正しい医療教育だな」とカイル。
列車が、また揺れた。
今度は通常ではなかった。
テトの表情が変わる。
帽子の鍔を叩かない。
「右鎖、給電落ちます。三、二――」
照明が消えた。
一秒。
二秒。
三秒。
雷が窓を白くするはずだった。
来ない。
暗闇が八秒続いた。
八秒は短い。
息を吸って吐けば終わる。
百メートルは走れない。
告白には足りない。
言い訳なら十分すぎる。
九秒目。
照明が戻った。
編成表示板が一度、全て消える。
再計算の白い輪。
箱が一つずつ戻る。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
次に八。
「七がない」
ハルが言った。
表示は十一の箱しか作らない。
六号車の次へ、八号車が直接つながっている。
扉の向こうの咳も、女の声も消えた。
「手動表示へ切替!」
テトが検札板を開く。
セレナは時刻を叫ばない。静かな声で、見た事実を並べる。
「停電開始、十八時四十四分零六秒。復帰、十四秒。衝撃なし。扉開閉なし。七号車表示消失」
「窓!」
ハルが横の点検窓へ走る。
列車は長く曲がっていた。
前方の六号車。
後方の八号車。
その間に、あるはずの車両がない。
空白だけが雷雲を切っている。
だが六号車と八号車は衝突していない。
切り離された様子もない。
青白く光る二本の連結線が、空白を渡ってつながっている。
「一両、どこ行った」
エリアは地図針を抜かない。
「描けません」
「消えたから?」
「消えたという結論が早い。位置を測れていないからです」
床下から、十三回目の票鋏音がした。
かちん。
今度は、列車のさらに下から。
ノクスが低く唸る。
二本尾が、一斉に下を指した。
雷雲の底で、見えない車輪が八拍だけ鳴った。