第411話 第二章「一両だけない」前編
物が消えた時、人は最初に目を疑う。
目が正しければ、次に魔法を疑う。
魔法も使われていなければ、ようやく物の方を疑う。
修理工は順番が逆だった。
ロロ・ピクスは自分の目を信用せず、魔法の説明を嫌い、物が消えたという言い方へ最初から喧嘩を売った。
「消えてねえ」
七号車のあった空白を見ながら、そう断言する。
「見えないけど」とハル。
「見えねえ物が全部消えてたら、お前の考えもこの世から消滅してる」
「ある。今、反論を考えてる」
「見えねえ」
「じゃ消えた?」
「うるせえ!」
四本の補助腕が一斉にハルを指した。
ロロ本人の両手は、すでに連絡扉下の点検板へ潜っている。
停電から三分。
ブラック・ラインは減速していない。
監獄列車の規則に、異常時停止はある。ただし「停止が周辺島への収容権移転を生じさせないこと」が先に書かれていた。つまり止まるには、囚人がどの土地の法へ移るかを決めなければならない。人命より管轄が先に必要な規則である。
歴史上、悪法は悪人が作るとは限らない。
複数の善良な官吏が、昨日の例外を二度と起こさないため一行ずつ加えた結果、今日の救助を一度も起こせない規則になる。
「運行局へ緊急停止を申請しました」
テトが耳管を押さえる。
「返事は」とセレナ。
「審査開始の返事が来ました」
「停止の返事は」
「審査の終了後です」
「終了予定」
「三十分以内」
七号車の患者は、三十分を持たないかもしれない。
それを誰も口にしなかった。
口にしないことと、考えないことは違う。
「三十分あれば、列車は何島進む?」とハル。
「通常速度で九つ。今は雷圧が強いから十一」とテト。
「十一の管轄を逃げられる」
「逃げるという表現は運行局が嫌います」
「じゃ、責任が十一回乗り遅れる」
テトは返事をしなかった。
故郷の駅を列車が通過した音を知る少年には、その比喩が冗談に聞こえなかった。
「表示上、前部六両と後部五両の間隔は十八・二メートル」
ロロが点検板の計器を読む。
「七号車の全長は十八・二メートルです」とエリア。
「つまり空白は車両一両分」とハル。
「算数で勝った顔をするな」
「勝ってない。参加した」
「参加費を払え。点検板の封印、一本二十ルク」
「俺が壊した?」
「これから俺が壊す」
「請求先が未来」
「修理業はだいたいそうだ!」
ロロは封印線を切る前にセレナを見る。
無断で分解する少年が、証拠保全官へ確認を求めた。
それだけで、旅の年月が分かる。
「切断前を記録」
セレナが証羽を一枚立てる。
黒い羽根へ、点検板、封印番号、ロロの六本の腕が薄い光像として刻まれる。
「記録終了。最小範囲で開けて」
「最小って言葉は機械に使うと危険だぞ。中で最大に壊れてるかもしれねえ」
「必要範囲」
「最初からそう言え」
工具が走る。
ねじ四本。
留め輪二枚。
雷除けの薄板一枚。
ロロは金属を歯へ軽く当てた。
「何味」とハル。
「材質だ! 舌で味わってねえ!」
「歯で味わう?」
「振動で見てんだよ。お前は黙って赤い布でも揺らしてろ」
「マフラー」
「材質名じゃねえ!」
点検板の奥へ、二本の細い光索があった。
六号車と八号車の距離を測る索。
数値は正常。
連結状態も正常。
前後の速度差、零。
「だから七号車はある」と護送責任者が言った。
名をグラド・メインという。四十代半ば。灰鉄色の制服。胸へ運行局、収容局、保安局の三章を並べている。それだけの章を一人につけたのは責任を集めたからではなく、どの責任で話しているか後から選べるためだった。
「表示故障だ。囚人車の外壁が雷雲へ同化しているだけだろう」
「透明化ですか」とセレナ。
「軍用遮蔽の可能性」
「使用記録」
「ない」
「残留誓力」
「計器上、ない」
「では、現時点で可能性ではなく希望です」
セレナの声は乾いていた。
グラドの敬称が一段長くなる。
「星律官クロウ殿は、運行局の機密装備を全てご存じではない」
「その部分は、私は知りません。知らない装備を根拠に、見えていない車両が存在すると断定もしません」
「存在しないと断定している」
「していません。七号車の位置が未確認だと記録しています」
「言葉の差で現場を遅らせるな」
「言葉の差で人を囚人、証人、荷物へ分けている列車の責任者が、それを言いますか」
カイルが乾菓子の袋をそっと閉じた。
景気の悪い冗談を入れる隙がないと判断した時、彼は食べ物をしまう。
「グラド」と呼ぶ。
肩書を外した。
「王太子殿下」
「王子として命じると紙が増えるそうだ。だから乗客として聞く。七号車にいる二十四人の安全確認を、何分でやる」
「収容者十九、護送員四、医療労務者一です」
「合計を聞いてない。時間を聞いた」
「外部から開扉すれば、収容等級が崩れます」
「死んだ後なら等級を守れるか?」
カイルの声量は落ちていた。
冗談のない王子は、盾より重い。
グラドは耳管へ命令を出す。
「後部制動車。七号車前後の連結応答を再測定。収容区画、全員点呼。武装班は六号車後扉へ」
「八号車側は?」とハル。
「収容者が多い。暴動防止を優先する」
「七号車に行くのはどっちからでも同じだろ」
「同じではない。八号車側を開ければ収容者同士が接触する」
「今、七号車と接触できてない」
グラドは答えない。
制度の優先順位は、質問にされると急に姿を現す。
六号車後部の点検廊は、人間一人が横向きで通れる幅しかなかった。
通常なら七号車の前壁が、扉一枚の向こうにある。いま扉の小窓から見えるのは、十八・二メートルの雷雲だった。
空白の左右を、二本の連結索だけが渡っている。
光の線は細い。
細いから頼りなく見える。
実際には、その内側へ折り畳み鋼節、給電線、伝声管、圧力管、距離光索が束ねられている。列車の前半と後半が、二本の臍の緒でつながっていた。
「開けるなよ」とロロ。
ハルの手は点検窓の留め具に掛かっている。
「開けない。温度を見る」
「目で温度が見えるか!」
「赤い」
「それは熱じゃなく警告塗料!」
「熱い時に赤くなる?」
「常に赤い!」
「紛らわしい」
テトが横から小さな札を出した。
赤い塗料の下へ、三角の凸印。
「熱警告は三角。通電は縞。安全確認済みは丸。色だけで読まないようにしてます」
「全部の列車が?」
「新型だけ。古いのは色だけです」
「テトが読めないから変えた?」
「俺だけじゃありません。雷で色が飛ぶ時もあるし、煙の中では全部灰色になる」
彼は明るく言う。
明るく言うことで、採用試験で色覚差を隠した事実まで軽くしたいのだろう。
「最初から形で作ればいい」とハル。
「中央は、正常な人には色で十分だって」
「正常って、誰」
「試験を作った人」
エリアが点検窓の枠へ測定針を当てる。
「窓外の光索、視認長十八・二。ですが中央部が雷霧へ隠れ、全長は測れません」
「計器は十八・二」とグラド。
「計器と目視が同じ数字でも、同じ事実を測っているとは限りません」
「数字が一致している」
「時計二つが同じ時刻を示しても、両方止まっている場合があります」
「縁起の悪い例を出すな」とカイル。
「王家の時計は止まっても正午を宣言できますか」
「昔はした」
「家の悪口が早い」とハル。
ノクスが廊下へ腹を伏せる。
二本尾の先だけが窓へ出る。
一本は連結索の風へ流される。
もう一本は、下へ引かれた。
「匂い?」
「ノゥ」
夜獣は鼻を押しつけるが、すぐくしゃみをする。
機関油。雷焼け。冷却樹脂。武器革。人の汗。
約束の匂いを追う鼻へ、列車は情報を詰め込みすぎていた。
「分からない時は分からないでいい」とハル。
ノクスが片耳を立てる。
「褒めてない。普通」
「ノゥ」
「怒った」
「勝手に翻訳しないで」とエリア。
ロロが長い温度棒を点検口へ差し込む。
棒の先が連結索へ触れる前に、目盛りが上がった。
「空気だけで八十。外筒は百超えてる」
「落雷?」カイル。
「落雷なら一発ごとに上がって下がる。こいつはずっと増えてる」
「何かが擦れてる」
「まだ仮説」
「ロロがエリアみたいになった」
「証拠の前で断定するほど金持ちじゃねえ。間違った部品を注文したら自腹だ」
彼は温度棒を抜く。
先端へ、黒い粉が薄く付いている。
ロロは指で触らない。
磁布へ包み、時刻を書き、六号車側と記す。
「何の粉」とハル。
「今は粉」
「材質」
「後で」
「向き」
「後で!」
「質問すると怒られる駅、ここ?」
「お前だけ通過扱いにするぞ!」
廊下が揺れる。
ハルの左肩が点検枠へ触れた。
痛みは一。
黙っていれば、誰も止めない程度。
エリアの手が、肩ではなく胸帯を引く。
「壁へ左肩を向けないで」
「見てた?」
「見えました」
「顔は証拠じゃない」
「肩が当たりました」
「事実」
「痛み」
「一」
「十段階」
「今回は十段階」
「今回は、を付けない」
「厳しい」
「列車の正常表示より信用がないためです」
窓の向こうで、二本の光索がわずかに上下へ離れた。
計器の数字は変わらない。
見た目だけが変わる。
正常とは、世界が正常であるという報告ではない。
機械が、自分へ与えられた質問に正常な答えを返しているという報告にすぎなかった。
「質問を変える」とロロ。
点検板へ戻る。
「『つながってるか』じゃねえ。『どうつながってるか』を聞く」