第421話 第七章「車輪の左右」前編

魔法が切れた後に残るものを、技術者は本当の現場と呼ぶ。

 光が消える。

 宣言が終わる。

 英雄的な一手が拍手を受ける。

 その後も血は流れ、ねじは緩み、熱は別の部品へ移る。

 人が生きるのは、たいてい魔法の使用時間外である。

『切開する』

 サナの声が戻った。

 患者の脈が止まった、とは言わなかった。

 言えば周囲が一つの結論へ固まる。

 彼女は動詞を選ぶ。

『テト、車輪拍を数えろ。揺れの小さい四拍目を言え』

「聞こえますか、こっちから」

『聞こえる。早く』

 テトは床へ耳を当てる。

 雷音で肩が跳ねる。

 帽子の鍔を叩く暇はない。

「一、二、三、四――今!」

『皮膚切開』

 短い金属音。

「一、二、三、四――今!」

『肋間へ入る』

 サナは車輪の揺れを手術の拍へ変える。

 列車を止められないなら、止まらない時間へ刃を合わせる。

「一、二、三、四――今!」

『金属片、確認』

 患者の声はない。

 サナの呼吸だけが通信へ入る。

 甘い励ましも、祈りもない。

『ユール。右手一回。聞こえるか』

 小さな打音。

 一回。

『選べる状態ではない。今は私が続ける。終わったら異議を聞く』

 イヴァは拘束席で目を閉じた。

 サナは代理判断を悪としない。

 判断できない状態を見極め、時間制限を付け、後で解除する。

 イヴァは誰かの目的地を決めることを恐れすぎて、決めた事実を「救助だから」と見ないふりをしてきた。

「一、二、三――」

 テトが止まる。

 四拍目が来ない。

 下層車両の車輪音が変わった。

 がたん、がたん、が――。

『何だ!』

「右車輪が浮いた!」

 ロロが計器を叩く。

「下層線、片側沈下! 車体が左へ七度!」

『左はどっちだ』

 サナの問いは冗談ではない。

 下層線では重力が反転し、車両は上層から見て逆さに走る。七号車内の左と、上層計器の左は一致しない。

「進行方向を向いて、患者の頭側が内周!」とエリア。

『内周へ傾いた、で合ってるな』

「合ってる!」

『四拍目を作れ』

「作る?」とテト。

『車輪が浮いてるなら、車体を叩け。一定の拍を寄越せ』

 ロロが補助腕二本を床梁へ当てる。

「俺が打つ! テト、数えろ!」

「一、二、三、四!」

 がん。

「一、二、三、四!」

 がん。

 上層車両の床を打った振動が、伸縮連結器を通り、下層車両へ届く。

 サナは人工の四拍目で手術を続ける。

『把持』

「一、二、三、四!」

『抜く』

 がん。

『金属片除去』

 通信の向こうで、複数の人間が息を吐いた。

『まだ終わりじゃない。圧迫。輸血袋を上げろ。バスク、腕を使え』

『俺は強盗だぞ』

『腕が二本ある』

『罪状じゃなく本数で使うな』

『一本は拘束具だ。残り一本』

『医者ってのは人権を何だと』

『生きて文句を言う権利だ。袋を上げろ』

 男が笑い、命令へ従う音。

 セレナは「強盗が医療へ協力した」ことを、刑の免除とも人格の証明とも記録しない。

 一つの行為として置く。

「脈は」とイヴァ。

『戻った。弱い。次の大揺れは越えない』

「残り時間」

「四分十二秒」とテト。

『なら四分で車両を水平へ』

「命令するな」とイヴァ。

『お前に言われたくない』

 放送口調が二人とも消える。

 古い友人は、敬意を失ったから名前で刺すのではない。

 相手が逃げる役職を外すために名前を使う。

 ロロは手術の四拍を打ちながら、別の耳で車輪を聞いた。

 右眼の度入りゴーグルへ、鉄粉の拡大像。

 七号車から連結器へ飛んだ削り粉は二種類あった。

 外周側の車輪粉は細長い。

 内周側は丸く潰れている。

 普通の曲線なら、外側車輪が長い距離を走る。外周の摩耗が強くなる。

 だが採取した粉は逆だった。

「さっき上下って言った」とハル。

「言った。けど『上下へ移った』だけじゃ説明が足りねえ」

「何が」

「左右」

「下へ行ったら左右も逆?」

「鏡じゃねえ。向きが変わるだけなら、左車輪は左のまま」

「下層線、逆向きに走ってる?」

「前後の速度差は同方向だ」

「じゃ何が逆」

 ロロは紙へ二本の輪を描く。

 上層線は島の外周を走る。

 下層線は島の腹を走る。

「同じ島を、表と裏から回る。上層から見て右曲線でも、腹側では重力の下が島中心へ向く。車輪が押される側が逆になる」

「車両の右左じゃなく、荷重の内外が逆」とエリア。

「そう。七号車の左右摩耗は、ただ別線へ行ったんじゃねえ。逆重力の曲線を走った痕だ」

「車輪粉だけで確定できますか」とセレナ。

「単独じゃ無理。雷痕と合わせる」

 ロロは屋根から採取した焦げ跡を出す。

 七号車前後の連結器へ、稲妻の枝が下から上へ伸びている。

 普通、雷は上層の避雷柱から車体へ流れる。

 枝は上から下へ残る。

 今回は逆。

「下層鎖の給電を車体下面で受けた」とロロ。「上層へ戻る途中、連結器へ逆向きに抜けた」

「車輪左右摩耗、逆向き雷痕、古い下層油」とセレナ。

「八秒暗転、伸縮器熱、下層線の目視」とエリア。

「時刻表」とテトが言う。

 全員が見る。

「何がある」

「現行時刻表だと、この区間は雷鐘が二秒暗転。でも実際は八秒。運行局は『異常な雷圧』って言ってました」

「違う?」

「下層線へ給電する古い時刻表だと、八秒です。しかも今夜の列車、旧表と同じ分でここへ入ってる」

「偶然同じ時刻」とグラド。

「一分単位なら偶然があります。車輪回転数まで同じです」

「誰かが現行表を旧表へ合わせた」とセレナ。

「速度を三回、ほんの少し落としてる。乗客は気づかない。でも雷鐘へ八秒で入るよう調整してる」

「運転席の記録は」とカイル。

「自動運転補正。入力者欄は空白」

「また空白」

「空白が全部同じ意味とは限らねえ」とロロ。「記録なし、削除、未入力、保留。見た目が白いからって同じ穴へ入れるな」

 ロロ自身が三枚歯の印へ姉の名を入れなかったように。

「皆へ立証するなら」とハル。

「誰へだ」

「俺たち」

「当事者だ!」

「当事者も読む」

「何を」

「列車の痕跡」

「お前、たまにそれっぽいこと言って煙へ巻くな」

「雷雲だけに」

「請求額を上げる!」

 ロロの補助腕は上を向いていた。

 怒っているが、考えがつながっている。

「確定」とセレナ。「七号車は停電八秒間に、島腹の旧保守線へ分岐した。連結表示を維持したまま、前後車両とは異なる重力層を走行。車輪摩耗、雷痕、連結器熱、給電時刻が一致」

「一両が消えた方法」とハル。

「消えていません」とエリア。

「別の線へ行った」

「見えない位置へ」

「でも、なぜ戻らなかった」はカイル。

「二つ目の条件」とイヴァ。

 拘束席から言う。

「誰かが車内で『次の接続点』を本線以外へ変更した」

「どこへ」

「下層線の終端」

「終端に何がある」

「二年前は、救護荷台と保守駅」

「今も?」

「知らない」

「十三番駅?」とテト。

 イヴァの目が細くなる。

「その名で呼ぶな」

「なぜ」

「駅名ではない」

「じゃ何」

「今は答えない」

「また」とハル。

「足りない事実へ言葉を置かない」

「でも列車が落ちる」

「だから行く」

「拘束されてる」

「行く方法を作れ」

「人の役を決めた」

「私の役だ」

 ハルは一瞬笑う。

「なら聞く。行きたい?」

「行く必要がある」

「必要じゃなく」

 イヴァは左耳をハルへ向ける。

 信頼の動作。

「行きたい」

 鋏音は鳴らない。

 セレナはその返事を証拠にしない。

 ただ私的記録へ一行書く。