第420話 第六章「脱獄か救難か」後編

 同じ頃、鏡砂環サリフでは、列車の代わりに人の怒りが止まれずにいた。

 王家の秘密記録を公開すれば、被害を受けた者は真実を知る。

 真実を知れば、王家を監査する。

 監査すれば、同じ過ちを繰り返さない制度ができる。

 ユノ・ヴァレントは、その順番を信じていた。

 信じていたというより、信じやすい順番へ事実を並べていた。

 美しい演奏には導入、展開、終止がある。

 歴史にはない。

 被害の記録を読んだ人間は、同じ結論へ終止しない。

 王都七面広場。

 白いヴァイオリン・アルマを持つユノの前で、二つの集会が向かい合っていた。

 一方は、記憶通行料で家族の記憶を失った者たち。

 一方は、公開された記録の中で「加害側の都市」と名指しされた地域から来た者たち。

「謝罪では足りない!」

「今の子供へ何を返せと言う!」

「奪った財産を返せ!」

「記録が間違っている!」

「王家を倒せ!」

「王家が公開したから分かったんだろ!」

 どちらの声も、自分の見た事実から出ている。

 誰も「全部の真実」を持っていない。

 それでも自分の痛みだけは本物だった。

「演出印を出します」と妹リゼ。

 薄墨の面紗の下、金属指が鏡片へ触れる。

「何を表示する」とユノ。

「確定、推定、不明。少なくとも、兄さんの説明が事実そのものじゃなく提案だと」

「分かっている」

「白い縁がない」

 ユノは自分の幻像を見上げた。

 広場の上へ、二国の被害図を重ねている。

 確定した死亡数は白。

 推定は灰。

 不明は空白。

 しかし「次に何をすべきか」を示す矢印だけ、白い縁がなかった。

 自分の提案を、事実の続きとして置いていた。

「その結論まで、私が整えすぎたようだ」

「ようだ、じゃない」とリゼ。

 ユノの目元が先に崩れる。

「整えた」

「直す?」

「消す」

「消したら、なかったことになる」

「では縁を付ける」

 アルマの弓を弦へ置く前に、ユノは一度目を閉じた。

 音が広場へ広がる。

 白い縁。

『王家提案』

『採用未決』

『撤回可能』

 矢印の上へ文字が出る。

 群衆は静まらない。

 真実を正確に表示しても、怒りは誤差として消えない。

 一人の男が鏡王家の紋章を燃やす。

 別の女が、被害国の店へ石を投げる。

 ユノは幻像で美しい和平場面を見せなかった。

 見せれば一瞬は止まる。

 止まった一瞬を、合意と呼びたくなる。

「衛兵を」とトーヴ・セル。

「制圧条件を表示して」とリゼ。

「投石だけ止める。集会は止めない」

 ユノは命じる。

 しかし衛兵が動いた瞬間、反対側から「王家が被害者を黙らせた」と声が上がる。

 どの動作にも歴史がついてくる。

 神の視点から見れば、公開は前進だった。

 石を投げられた店主の視点から見れば、今日の窓が割れただけだった。

 ユノは演奏を止める。

 楽器なしで広場へ立つ。

「私は、真実を見れば皆が同じ結論へ来ると思っていた」

 敬語が消えかける。

「それは、皆を信じていたんじゃない。俺の結論を、皆も選ぶと信じていただけだ」

 拍手はない。

 罵声も止まらない。

 途中で帰る者がいる。

 石を拾う者。

 石を置く者。

 まだ投げる者。

 ユノはその不調和を幻で整えない。

 真実公開が平和を自動で生まないことは、公開を間違いにしない。

 次の責任を増やす。

 物語が続くとは、正解の後に生活が戻ることである。

 生活は正解へ礼を言わず、家賃と窓ガラスの請求書を持ってくる。

 ブラック・ラインでは、請求書より先に橋が鳴いた。

 ぎぎぎ、と鋼節がねじれる。

「接近区間、四十秒!」

 テトが手旗を上げる。

 色ではなく、三角と縞。

「伸縮器下層端、受け金の噛み込み六割!」ロロ。

「高度差四・二。横ずれ一・一」とエリア。

「盾一回目、準備!」カイル。

 セレナがイヴァの右拘束輪を外さない。

「トランジットは左手のみ。使用後、直ちに返却」

「分かった」

「心拍異常を感じたら申告」

「分かった」

「聞こえない側から指示を出されたら」

「聞き返す」

「目的地を」

「橋の接続だけへ限定する」

 イヴァは一つずつ答える。

 命令する側だった人間が、条件を受け取る側へ回る。

 ハルは胸帯を締める。

「俺は先行」

「却下」とエリア。

「さっき署名した」

「左肩が二を越えたら戻る条件です。現在」

「二」

「正確に」

「二・五」

「戻る」

「二を越えたらって、二・五は四捨五入で三」

「だから戻る」

「四捨五入しなければ二の仲間」

「痛みへ派閥を作らない」

「先にノクスが行った」

「ノクスは四足」

「差別」

「構造差」

 カイルが笑う。

「俺が先に行くか」

「肋骨」とセレナ。

「二」

「尺度」

「昨日より」

「感染しています」とエリア。

「王太子の流行だ」

「廃止します」

 ハルは左肩を回さない。

 代わりに右手をエリアへ差し出す。

「固定して」

 自分から頼む。

 エリアは一瞬だけ目を見開き、肩帯を胸の中央へ付け替える。

「左腕は身体へ。右手と脚で進む。痛み三で即時撤退」

「分かった」

「返事が軽い」

「重く言うと肩に来る」

「……三で戻って」

 命令形ではない。

 具体的な頼み。

「戻る」

「証言として記録」とセレナ。

「私的にして」とエリア。

「本人の要請があれば」

「要請します」

 ハルの耳が赤くなる。

「今そこ?」

「後で忘れないため」

「忘れない人ばっかり」

 ノクスが七号車側の橋端で鳴く。

 低い二音。

 同時に、サナが叫ぶ。

『最後の三十秒を使う!』

「待て」とイヴァ。

『待てない』

「次の揺れまで二十秒」

『だから今だ』

「解除反動が揺れへ重なる」

『分かってる。重なる前に車両を水平へ寄越せ』

「サナ、選択肢は」

『一、今打って三十秒を買う。二、打たず今死なせる可能性。三、奇跡を待つ。三は医療じゃない』

「患者へ」

『右手一回。肯定』

「記録」とセレナ。

「入力、胸部内出血と圧低下!」

 サナの赤い手袋が、ユールの胸へ置かれる。

「変換、悪化の保留!」

 赤い方眼光が傷を囲う。

「出力、三十秒! 治癒なし! 終了後に全て戻る!」

 声が列車全体へ届く。

 魔法の条件、代償、限界を隠さない。

「開始!」

 医療記録へ、最後の赤い印が灯る。

 三十。

 テトが数える。

「橋接近まで二十五!」

 二十九。

「下層線の沈下、加速!」ロロ。

 二十八。

「高度差三・八!」エリア。

 二十七。

 カイルが盾を開く。

「守るのは橋、作業者七、七号車二十四!」

「人数が合ってる」とハル。

「今褒めろ!」

「継続したら!」

 二十六。

 雷が盾へ落ちる。

 二十五。

 ハルが橋へ足を掛ける。

 二十四。

 イヴァのトランジットが開く。

 二十三。

 セレナが承認する。

 二十二。

 青い停止標が橋端へ打たれる。

 二十一。

 橋が下層車両へ寄る。

 二十。

 サナの声。

『脈、落ちる!』

 十九。

「まだ十九ある!」とハル。

『十九しかない!』

 時間は同じ数字でも、待つ側と走る側で意味が違う。

 十八。

 ハルは四つん這いで橋を進む。

 十七。

 中央の重力継目へ入る。

 身体が横へ回る。

 十六。

 左肩が二・五から三へ上がる。

「戻れ!」とエリア。

 十五。

 ハルは止まる。

 七号車まで五メートル。

 戻れば条件を守れる。

 進めば患者へ近づく。

 自分の身体を安い代償へする癖が、正義の顔で囁く。

 十四。

「交代!」

 ハルは叫ぶ。

 自分で戻る。

 カイルが橋へ出るのではない。

 ロロが射出台を押し出し、患者搬送架だけを先へ送る。

 役割を渡す。

 十三。

「判断、正しい」とエリア。

「今褒めた」

「継続させて」

 十二。

 搬送架が七号車窓へ届く。

 サナが受ける。

 十一。

 しかし窓が狭い。

 患者を出せない。

「車両ごと水平にしろ!」

 十。

 下層線支柱が折れる。

 九。

 七号車が一メートル落ちる。

 橋端の停止標がひび割れる。

 八。

 イヴァの心拍が乱れ、トランジットの刃が震える。

 七。

「印を解除」とセレナ。

「まだ接続が」

「術者の身体が条件外です」

 六。

 イヴァは解除しない。

 五。

 サナが怒鳴る。

『イヴァ、切れ!』

 四。

「患者が」

『私が持つ!』

 三。

「橋が」

『人を橋の条件へするな!』

 二。

 イヴァがトランジットを開く。

 一。

 停止標を切る。

 橋端が外れ、七号車が下へ沈む。

 零。

 サーティ・ホールドが終わる。

 保留されていた出血、腫脹、圧低下が一度に戻る。

 医療記録の赤い印が黒へ変わった。

『脈が――』

 サナの声が途切れる。

 三十秒を越えた先に、次の三十秒はなかった。