第419話 第六章「脱獄か救難か」前編
法律は、行為へ名前を付ける。
他人の金庫を開ければ窃盗。
他人の身体を押さえれば暴行。
拘束された者を外へ出せば逃走援助。
しかし火事の家から金庫を運び出し、倒れる人を押さえて止血し、違法に閉じ込められた者の扉を壊した場合、同じ動詞は別の名を求める。
法は動作を見なければならない。
目的も見なければならない。
結果も、選べた他の手段も、見なかった人も見なければならない。
全部を見ることはできない。
だから裁判は、神の目の代用品ではなく、人間が見落とした範囲を互いに指摘するための不完全な机として発達した。
ブラック・ラインには、その机すらなかった。
走り続ける列車は管轄を逃れ、裁判所へ着かない。
その車内でセレナ・クロウは、食堂机を法廷の形へ並べ直した。
「被疑者の拘束時刻、十九時二十七分四秒」
セレナは黒い証羽を立てる。
左眼の単眼鏡が、雷光を六角へ割る。
「この場は正式法廷ではありません。救難判断に必要な事実確認です。刑事責任の最終判断を行わない」
「なら被疑者を解放しろ」とハル。
「救難作業へ必要な範囲で、一時使用を検討します」
「言葉が長い」
「短くすると誤る」
「長くても列車は待たない」
「だから質問を限定します」
セレナはイヴァへ向く。
両手の拘束輪。トランジットは机の上、手の届かない位置。グラドと武装班三名。カイルは壁側へ立ち、王太子の権限を使わないことを示すため印章指輪を外している。
「十三回目の自動穿票へ、あなたの旧主任印が記録されていた。あなたが入力したのですか」
「二年前、下層線の救難条件を登録した」
「今夜の起動を意図して」
「違う」
「登録を抹消しましたか」
「抹消申請を出した」
「完了確認」
「受け取っていない」
「なぜ追跡しなかった」
「収監された」
「収監前は」
「事故調査中だった」
「つまり、あなたの旧印は装置へ残っていた可能性がある」
「ある」
「今夜、あなたは起動条件を知っていた」
「知っていた」
「七号車に急病人がいることを、停電前に知っていましたか」
「咳とサナの処置音を聞いた」
「起動端末へ触れましたか」
イヴァは黙る。
グラドが机を叩く。
「黙秘は肯定と扱う」
「扱いません」とセレナ。
「救難判断だ。時間がない」
「時間がないほど、沈黙へ好きな答えを入れてはいけない」
「なら答えさせろ」
「強制された答えは証拠価値を失います」
「患者が死ぬ」
「その責任を、被疑者の権利へ一括転嫁しないでください」
セレナの敬称が完全になる。
怒っている。
「イヴァ。答えない理由を、内容へ触れず説明できますか」
「私が端末へ触れたかだけ答えれば、今夜の分岐が私一人の目的で起きたと扱われる」
「複数目的があると」
「急病人を下層へ逃がす目的と、収容者を本線へ戻さない目的は同時に成立する」
「あなたは前者へ関与した」
「……した」
ハルが息を止める。
グラドは勝ちを確信した顔になる。
セレナは表情を変えない。
「具体的行為」
「停電直前、収容区画の床信号へ靴金具を当て、旧救難条件を起動させた」
「拘束中に可能ですか」
「床信号は車掌が両手を失っても使えるよう足操作を残している」
「なぜ」
「サナの処置音が変わった。患者が大揺れを越えないと判断した」
「本人へ確認」
「できなかった」
「護送責任者へ申告」
「すれば止められる」
「救命のため規則を破った」
「そうだ」
「収容者の逃走を意図した」
「意図していない」
「本線へ戻る二つ目の条件を、あなたは穿ちましたか」
「穿っていない」
「誰が」
「知らない」
グラドが笑う。
「都合がいい」
「都合は証拠ではありません」とセレナ。
「本人が違法起動を認めた。脱獄支援だ」
「患者を救う意図を認めた。逃走意図は否認。二つ目の条件入力者は未確認」
「結果として囚人車が本線を離れた」
「結果だけで目的を一つへ決めない」
「お前は犯罪者の言葉を信じるのか」
「信じません。記録します」
「違いがあるか」
「信じるとは、検証前に結論へ置くこと。記録とは、後で覆せる位置へ置くことです」
ハルは羅針盤の蓋を一度弾く。
「じゃ、イヴァは脱獄を助けた?」
「現時点で言えるのは、規則外の救難分岐を起動した。その行為が逃走計画へ利用された可能性がある」
「助けたのは」
「患者。結果として七号車の全員」
「救難?」
「救難行為を含む」
「脱獄?」
「逃走結果を含む可能性」
「両方」
「一つの行為へ複数の評価がある」
「言葉が一両に乗りすぎ」
「だから分けます」
セレナは七号車の人員記録を復元した。
車内名簿は削除されている。
しかし食事配給、拘束具番号、寝台荷重、医療薬品、扉開閉、洗濯布枚数は別々の局へ残る。
人を消すには、生活を全部消さなければならない。
制度は名前を消すのが得意で、汚れた布の数を消すのが下手だった。
「収容者十九名」
セレナが復元表を読む。
「国家線妨害六。機密漏洩三。武装強盗二。殺人一。労働扇動四。身元未確定三」
「政治犯だけじゃない」とカイル。
「政治犯という語も一括しません。労働者の死亡数改竄を告発した者と、信号塔を爆破して民間人を負傷させた者が同じ国家線妨害へ入っています」
「危険な奴もいる」とハル。
「います」
「じゃ戻す?」
「危険であることは、医療を受ける権利や裁判を受ける権利を消しません。自由拘束の必要性とは別に審査する」
「別、別、別」とグラド。「現場は一つだ」
「一つの車両だから、全員を同じ人間へしない」
七号車から通信が入る。
『同じ人間にされたくないのは、こっちもだ』
男の声。
太く、息が荒い。
『俺はバスク・ドレン。武装強盗。護送員を殴った。やった。だが患者を殺す気はない。あの政治屋どもと同じ正義へ入れるな』
別の声。
『政治屋ではない。線路工組合の書記だ。名はオル・ケド。死亡名簿を外へ出した』
『お前の紙のせいで駅が燃えた』
『燃やしたのは保安隊だ』
『静かにしろ!』
サナの声が全員を切る。
『患者の心拍へ思想を乗せるな。揺れが増える』
「ユール・ナハト本人と話せますか」とセレナ。
『今は無理。意識はある。言語反応なし。右手を一回で肯定、二回で否定にしている』
「目的地確認は」
『質問を三つした。最寄り救護院、否定二回。王都中央院、否定二回。場所を保留、肯定一回』
イヴァの細い目が上がる。
「保留を選んだ」
『選べる状態を保つのが先だ。お前は今すぐ駅へ名前を付けたくなるな』
「付けていない」
『顔が付けてる』
「顔は証拠ではない」とハル。
『誰だ』
「ハル」
『肩を冷やせ』
「通信で診察しないで」
『庇う息が増えた』
エリアが冷却布をハルの左肩へ押し当てる。
「患者が増えました」
「まだ違う」
「予防的処置です」
「言葉で患者にされた」
「行動でなっています」
通信の向こうで、誰かが笑う。
囚人たちにも笑い声がある。
その事実は、彼らが善人である証明ではない。
背景ではなく人間である証明にはなる。
「サナ。二つ目の条件を誰か穿った音は」とセレナ。
『聞いた。最初の分岐音から三秒後。車内後部』
「位置」
『収容区画と護送区画の境』
「誰がいた」
『見ていない』
「見ていない、と記録」
『護送員二名、収容者三名が動ける位置だった。一名は患者処置を手伝っていた。残りは拘束固定』
「候補を絞れる」
『犯人探しを先にするな。車両が落ちる』
「落ちる?」
『床角度が一度増えた。保守線支柱が沈んでいる』
ロロが計器を見る。
下層車両の高度が三十秒で二十センチ下がっていた。
「旧線が荷重に耐えてねえ」
「大揺れまで」とハル。
「六分」テト。
「作戦を再開します」とセレナ。
「被疑者の術は使わせない」とグラド。
「使わない場合の代替」
「本線合流で制動射撃」
「患者の生存率」
「算定外」
「収容者十九名と護送員四名」
「逃走者だ」
「まだ車両内です」
「本線外へ出た」
「線路が本線でないことと、車内拘束から逃れたことは同じではありません」
「言葉遊びだ」
「生存者の数です」
セレナはトランジットを見た。
被疑者の道具。
救難に必要な道具。
証拠であり、武器であり、公共機関でもある。
「イヴァ・レイルへ、限定使用を許可します」
「権限がない」とグラド。
「星律緊急証拠保全権。証拠物を損失防止へ使用します」
「人命救助ではなく証拠保全か」
「人命を証拠と呼んでいません。消失方法を検証するため車両を保全し、その過程で人命救助を最優先します」
「詭弁だ」とカイル。
「必要な詭弁です」
セレナが自分で言った。
法は完全ではない。
不完全な道具を捨てるのでなく、どこを曲げたか記録し、後で監査を受ける。
「私の決定も審査対象へ入れます」
「一人で責任を取るな」とカイル。
「では共同署名を」
「王子として?」
「乗客として」
カイルは印章指輪を使わず、左手で名を書く。
「エリア」
「航路安全判断として署名」
「ロロ」
「機関安全判断。あと費用」
「ハル」
「何判断」
「現場参加意思」
「助ける」
「動詞だけでなく、撤退条件を」
「左肩が四、耳鳴りが三、方向が分からなくなったら戻る」
「初めて具体的」とエリア。
「成長した」
「継続したら」
「今褒めろ」
「保留します」
イヴァの拘束輪が片手だけ外される。
その瞬間、七号車からサナの声が飛ぶ。
『待て。患者の脈が変わった』
「サーティ・ホールドは」とイヴァ。
『あと一回。次に使えば、保留解除時の反動が大きい』
「何秒」
『三十』
「大揺れまで」
「五分二十」とテト。
「足りない」
『最初から足りてない。だから走れ』