第418話 第五章「下層線の女車掌」後編

 四分は、四分ではなかった。

 作業を始める前の許可に一分。

 武装班が囚人を作業区画へ出すことへ反対するのに四十秒。

 カイルが王命を使わず反対を退けるため、運行規則の救難条項を探すのに三十秒。

 セレナが「条項を探している間も時間は経過している」と記録するのに五秒。

 残り一分四十五秒で、ロロは連結器を十メートル伸ばすことになった。

「規則は時間を止めないのに、時間を使う!」

 四本の補助腕が同時に伸縮筒へ入る。

「文句は後で」とエリア。

「後で忘れるから今言う!」

「忘れないでしょう」

「怒りは覚えてる! 細部を忘れる!」

「セレナが記録します」

「法廷語へ変換される!」

「原文も残します」

「じゃ大声で言う! 運行局の許可票、火口へ落とせ!」

「脅迫的比喩として記録」とセレナ。

「比喩じゃねえ!」

「実行能力がありません」

「火口まで運べばある!」

 ハルは笑いながら安全索を締める。

 左肩の痛みは二。

 笑える余裕はある。

 無茶をしてよい余裕ではない。

 その差を、以前の彼は同じものとして扱っていた。

「次の接近区間まで四十秒!」

 テトが笛を吹く。

「下層車両の赤灯、見えます!」

 窓外。

 雷雲の切れ目へ、七号車の側面が浮かぶ。

 上層本線より六メートル下。

 後方へ二十二メートル。

 逆勾配線に乗っているため、車体の床は彼らから見て斜め上を向く。窓の鉄格子へ、囚人たちの手が見える。

 誰かが布を振る。

 赤ではない。

 サナの救護外套の裏地。

「患者、揺れで悪化!」

 通信から声。

『三十秒、もらう!』

 サナが自分へ言う。

 許可を求めているのではない。

 その三十秒の責任を、聞いている全員へ分ける宣言だった。

『入力、胸部圧と出血。保留対象、悪化。終了、三十秒後!』

 赤い光が車内で走る。

 患者の傷は治らない。

 血が消えない。

 ただ悪化だけが、三十秒間その場へ置かれる。

「始めろ!」

 ロロが伸縮器の楔を抜く。

 鋼節が一つ、二つ、三つと飛び出す。

 熱が青い蒸気になる。

「二十三メートル!」

「高度差五・八!」とエリア。

「二十四!」

 連結器の先端が下層車両へ近づく。

 しかし上下の重力が違う。

 橋は真っ直ぐ伸びず、中央でS字へ曲がる。

「曲率が限界」とエリア。

「分かってる!」

「内筒三番、熱膨張が左右不均衡」

「分かって――いや、それは助かる! 三番へ冷却!」

 エリアが路図の線を三番節へ集中する。

 ロロは冷却弁を開く。

「二十六!」

 イヴァがトランジットを開く。

 セレナが左手を上げた。

「使用条件を口頭で」

「対象、伸縮連結器下層端」

「停止内容」

「次の接続点が荷重を受け取るまで、下層車両との相対横ずれを保留」

「時間は止めない」

「止めない」

「心拍、思考、車両速度へ作用しない」

「しない」

「関係者の目的地」

 イヴァが詰まる。

 七号車の中から、声が重なる。

『病院!』

『本線へ戻すな!』

『裁判所!』

『どこでもいいからここから!』

『家へ!』

 目的地が一つではない。

 停刻標は、関係者が条件を受け入れるほど安定する。

 一つの列車へ複数の行き先を刻めば、印は割れる。

「橋の目的地だけに限定して」とエリア。

「人の目的地を含めない」

「できる?」

「橋は人を運ぶためにある」

「でも今止めるのは橋端です。乗客の行き先を、橋の接続条件へ混ぜない」

 イヴァの左手が止まる。

 エリアは道を描く者だ。

 道を使う人の結論まで、道へ書かないことを学んだ。

「対象を修正。伸縮連結器下層端。停止条件、七号車外部受け金が接触荷重を返すまで。乗客の降車先は未記入」

「記録」とセレナ。

「承認」

 トランジットが閉じる。

 かちん。

 切符形の青い光が橋端へ打ち込まれる。

 伸縮器は動き続ける。

 列車も走る。

 しかし横ずれだけが一拍遅れ、橋端が七号車の受け金へ吸いつく。

 がん、と接触。

「荷重返答!」ロロ。

 印が消える。

 橋端は止まったのではない。

 目的へ到達して、動き方を変えた。

「接続成功!」とテト。

「渡れる?」

 ハルが足を掛ける。

「まだ!」

 ロロの全腕が止める。

 橋は幅二十センチ。

 上下の重力継目でねじれ、表面へ青い雷が走る。七号車側の受け金は古く、半分しか噛んでいない。

「仮荷重、二十キロから!」

「俺、五十五」

「だから待て!」

 ノクスが橋へ一歩乗る。

「四・八」とセレナ。

「お前も待て!」

「ノゥ」

 二本尾を上げ、細い橋を歩く。

 雷が毛を逆立てる。

 中央の重力継目へ入った瞬間、ノクスの身体が横へ九十度回る。

 前脚は橋上。

 後脚は橋側面。

 本人は気にせず進む。

「四足ずるい」とハル。

「構造差です」とセレナ。

「人間も四つん這いで行けば」とカイル。

「王子が先に」

「景気が悪い」

 ノクスは七号車側へ近づく。

 窓の中から、複数の手が伸びる。

 食べ物ではない。

 触れようとする手。

 助けを求める手。

 小獣を道具として捕まえようとする手。

 ノクスは全部を避け、赤い医療灯の窓へ鼻を寄せた。

 低く二音鳴く。

「患者は生きてる?」とハル。

「勝手に訳さない」とエリア。

「じゃ何」

「匂いが多すぎる、と言っている可能性」

「『魚がない』だ」とカイル。

「『橋が熱い』」とロロ。

 ノクスは振り返り、遠くから全員へ歯を見せた。

「噛みに戻れない距離で怒ってる」とハル。

 七号車の内部で、サナが窓格子へ赤い手袋を当てる。

『接続は見えた。患者を橋で運ぶのは無理だ』

「なぜ」とイヴァ。

『水平がない。内出血が増える。手術台ごと車両を安定させろ』

「車両を本線へ戻す」

『戻した先は』

「五号車医療区画」

『設備が足りない』

「次の工業駅に救護院がある」

『そこへ政治犯を入れれば、収容局が接収する』

「患者一人だけ移す」

『本人へ聞いたか』

「意識は」

『ある。話せない』

「医療代理として私が決める」

『なぜ車掌が医療代理だ』

「運行中だから」

『そこだ、イヴァ』

 サナの声が低くなる。

『お前は行き先を本人へ返すと言いながら、返事ができない瞬間だけ全部自分で引き取る』

「判断を待てば死ぬ」

『判断していい。後で解除しろ。お前は決めた後、目的地を聞き直さない』

「今は患者が先だ」

『いつもそう言う』

 通信が切れる。

 ハルはイヴァを見る。

「助けた後、どこへ行くか聞いた?」

「患者は話せない」

「今じゃなくて。前に助けた人たち」

「何の話だ」

「下層線。救難で使ったんだろ」

「乗せた命を安全駅へ運んだ」

「その人たちが安全駅を選んだ?」

 イヴァの指がトランジットの革巻きへ食い込む。

「私が最も近い救護駅を選んだ」

「助けた後は」

「治療へ引き渡した」

「どこへ行きたいか聞いた?」

「車掌の責任外だ」

「じゃ、行き先を本人に決めてもらうって、列車の中だけ?」

 言葉は刃より深く入る時がある。

 ハルは傷つけるために言ったのではない。

 だから防ぎにくい。

 イヴァの右手が強く震える。

「今は救難だ」

「うん」

「話は後にする」

「後で聞く」

「期限」

「患者が選べる状態になった後」

「曖昧だ」

「じゃ、次の食事まで」

「短い」

「保留に期限が必要って、エリアが」

「私を引用しないで」とエリア。「ただし期限は記録します」

 セレナが筆を動かす。

「救難後、次の食事までに、イヴァ・レイルは過去の救助者へ目的地確認を行わなかった点について回答する」

「法廷記録にするな」とイヴァ。

「私的記録です」

「私的ならなぜ書く」

「忘れないため」

「忘れないことが全部善か」

「いいえ」

 セレナは即答する。

「だから記録の使用目的も書きます」

 橋の仮接続から三分。

 七号車へ直接渡るには、次の接近区間を待つ必要があった。

 ロロは内筒を冷却し、エリアは上下線の距離を更新し、テトは雷鐘を数える。カイルは王命を使わず、五号車医療設備の開放を運行局へ要求する。

 その間、セレナは十三回目の切符片を証羽へ重ねた。

「穴の刃痕が一致しません」

 イヴァが振り返る。

「何と」

「トランジットと」

 グラドの眉が動く。

「ならイヴァではない」

「結論が早い」とセレナ。

「お前はイヴァを疑っていた」

「疑う対象と、合わない証拠を両方記録します」

 彼女は穴を拡大する。

 上の小円。

 刃の入りは右から左。

 トランジットは左利き用に調整され、左から右へ入る。

「別の鋏」とテト。

「自動穿票機です」とイヴァ。「刃向きは右」

「条件を入力した端末の識別は」

 セレナが切符片を裏返す。

 微細な点列。

 入力者の乗務印。

 テトが読めないほど古い。

 イヴァは読めた。

 読んだ瞬間、目元ではなく喉が止まる。

「何と書いてある」とグラド。

「旧下層主任印」

「個人識別」

「I―R」

 イヴァ・レイル。

 空気が変わる。

 武装班の槍が上がる。

 ハルは動こうとし、セレナの左手が前へ出る。

「動かないで」

「でも」

「事実だけを」

 セレナはイヴァへ向く。

「この入力印はあなたのものですか」

「形は」

「形ではなく、あなたの認識を」

「私の旧印と一致する」

「現在まで保管していましたか」

「資格剥奪時に運行局へ返した」

「複製可能性」

「ある」

「あなた自身が事前入力した可能性」

「ある」

「今夜入力した可能性」

「拘束区画から端末へ触れていない」

「目撃者」

「収容者と護送員」

 グラドが命じる。

「イヴァ・レイルを再拘束。トランジットを回収」

 武装班が近づく。

 イヴァは鋏を離さない。

 刃を開けば、三人の槍を挟める。

 停止条件を打てば、拘束輪を「次の裁判まで」閉じない物へできるかもしれない。

 右手が震える。

 左手は静か。

 彼女はトランジットを床へ置いた。

 かちん。

 刃が自重で閉じる。

「拘束理由を名で告げろ」

 グラドが言う。

「国家線妨害、収容者逃走援助、証拠装置不正使用の疑い」

「番号でなく」

「被疑者イヴァ・レイル」

「よろしい」

 拘束輪が両手へ戻る。

 テトが一歩出る。

「でも橋は」

「作業を中止する」とグラド。

「患者が」

「容疑者の術へ依存した救難は危険だ」

「術の条件は公開した」とエリア。

「印が罠かもしれない」

「罠なら、どの痕跡が」とセレナ。

「疑いがある」

「疑いは停止理由になり得ます。救難放棄の免責にはなりません」

 グラドは耳管へ命じる。

「七号車を脱走車両と指定。本線合流時、制動射撃を許可する」

 ハルの声が低くなる。

「患者ごと?」

「脱走車両だ」

「名前を変えたら、人が変わるのか」

「収容者が車両を奪った」

「それ、まだ証明してない」

「イヴァの印がある」

「イヴァが救難に使った可能性もある」

「本人が黙っている」

 イヴァは答えない。

 黙秘ではない。

 まだ言えば、誰かの名前を足りない事実へ置く。

 しかし黙る間にも、列車は進む。

 患者の三十秒は減る。

 待つ優しさが、別の命を殺すことがある。

「次の停車は」とイヴァが言う。

 放送口調。

「拘束区画」

 グラドが答える。

「違う」

 彼女は七号車の赤灯を見る。

「次の停車は、判断だ」

 鋏音は鳴らない。

 武装班に挟まれ、イヴァ・レイルは連れていかれた。

 橋だけが、二つの線路の間で熱を持ち続けた。