第417話 第五章「下層線の女車掌」前編
車掌は列車へ乗る人間ではない。
列車から降りられない人間である。
出発時刻より前に来る。
最終乗客より後に帰る。
事故が起きれば、最初に責められ、最後に避難する。
列車が正しく到着した日、乗客は車掌の名を覚えない。
列車が間違った場所へ着いた日だけ、その名は裁判記録へ残る。
イヴァ・レイルの名は、二年前から正しくその場所にあった。
証拠保管車の第三棚。
黒い封印布を外すと、巨大な鋏が現れた。
全長一・四メートル。
閉じれば短槍。
開けば二本の刃がレールを左右から挟む。
濃紺の金属へ、使い込まれた銅の穴板が何十枚も重なる。
切符を穿つ巨大改札鋏〈トランジット〉。
「証拠番号、G―四八八」
セレナが読み上げる。
「所有者、イヴァ・レイル。国家線妨害事件で押収。機能、停止条件刻印および手動制動。封印解除の目的、現在進行中の救難検証」
「押収理由は」とイヴァ。
「本件では読み上げません」
「なぜ」
「未確定の過去を、現在の容疑へ混ぜないためです」
イヴァはセレナを見る。
捜査官は被告人へ親切ではない。
親切でないから、被告人を過去の印象だけで縛らない。
「封印解除時刻」とセレナ。
「十九時十三分二十秒」とテト。
「使用者の右手に震え。左耳聴力低下。拘束輪は左手のみ一時解除」
「右手の震えまで記録するのか」とイヴァ。
「操作能力へ関係します」
「同情の記録ではない」
「しません」
「よろしい」
セレナが封印鍵を外す。
トランジットの柄がイヴァの左手へ戻る。
道具には、持ち主の手の形が残る。
革巻きの一部だけ浅くへこみ、左親指の位置へ銅が磨かれている。二年ぶりに握ったのに、指は迷わなかった。
身体は、許したくない物をよく覚えている。
「重さは」とロロ。
「変わらない」
「内部ばね」
「少し弱い」
「封印中に錆びた。整備費請求する」
「誰へ」
「押収した国」
カイルが左手で口元を押さえる。
「王室勘定は使うな」とイヴァ。
「先に言われた」
「公共機関の損耗を王の善意で直すな。次の王が善人でなければ止まる」
「俺が王になる前提で悪口を言われた」
「王は個人名ではない」
「王太子の前で言うと、個人へ刺さるぞ」
「刺さるべきだ」
カイルの笑いが一拍遅れた。
彼は王権を分けたいと考えている。
考えている人間ほど、自分の善意が制度を延命する危険を突かれると痛い。
「で、公共交通を王家から切り離すと、誰が赤字を払う」
「利用者の少ない駅も含め、地域が決める」
「地域に金がなければ」
「国が出す。王が出すな」
「財布の名義を変えただけにしない方法は」
「監査権を地域へ渡す」
「なるほど」
「納得するな。今は救難だ」
「議論を始めたのは君だ」
「あなたが王子だからだ」
「生まれの責任は重いな」
「権限を持つ責任だ。生まれは罪状にしない」
セレナが証羽へ一行を記す。
「何を」とカイル。
「王太子が公共線の監査権移譲について質問した事実」
「冗談も法案になる列車か」
「言葉を軽く使わない訓練になります」
「景気が悪い」
イヴァは床へ古切符を一枚置いた。
テトが持ってきた十三回目の検札片。
正確には、床下の自動穿票機から回収した細い紙片だった。
穴は三つ。
上に小円。
下に横長の裂け。
中央に、針ほどの空白。
「この形、見習い教材にありません」とテト。
「現行教材にはない」
「旧式ですか」
「下層線の一時停車票」
「停車してない」とハル。
「停車は速度零だけではない」
「また言葉が変な方向へ走り出した」
イヴァはトランジットの刃を開く。
かちん。
音が低い。
見習い鋏より戻りばねが長く、閉じる時に二段の余韻がある。
「列車が分岐へ入る時、車輪は本線を走り続ける。だが進路の決定は一拍止まる。どの線へ荷重を渡すか、その条件へ到達するまでだ」
「分岐器を止める印」とエリア。
「移動物へ停止条件を刻む標。列車全体を止めない。『次の接続点が荷重を受け取るまで、連結関係を保つ』。それが上の円」
「下の裂けは」
「逆勾配線へ荷重を落とす」
「真ん中の空白」
イヴァの左親指が止まる。
「目的地未記入」
「行き先を決めずに分岐できる?」
「八秒だけ」
「なぜ八秒」
「雷鐘の給電切替が八秒。八秒以内に次の条件を穿たなければ、本線へ戻る」
「今回は戻らなかった」とセレナ。
「だから二つ目の印がある」
「どこに」
「七号車」
「誰が」
「まだ分からない」
グラドが腕を組む。
「この穴形を使えるのは、下層線主任車掌だけだ」
「過去には」とイヴァ。
「現在、資格者はお前だけ」
「資格は剥奪された」
「技術は消えない」
「だから私を乗せたのか」
「収監者の移送日程に過ぎない」
「偶然、旧線区間を通る日に?」
「運行機密だ」
「私は切符で区間を読める」
グラドは黙る。
イヴァは彼を犯人と呼ばない。
疑うことと、名前を置くことを分ける。
できる時もある。
できない時もあった。
「十三回目の音は、自動機が最初の印を穿った音」とロロ。「誰かが先に条件を仕込んで、停電で作動させた」
「自動機へ条件を入れられるのは?」
「運行局、主任車掌、保守技師」とテト。
「収容者は」とセレナ。
「通常無理です」
「通常」とハル。
「この列車、通常の幅が広いから」とテト。
「成長したな」とカイル。
「嫌な方向へ」
イヴァは床へ三つ編みを置いた。
青い髪が二本の線路を作る。
「現在、上層本線は時計回り。下層保守線は島腹に沿って逆勾配。速度差は一時間あたり二・四キロ。七号車は少しずつ遅れ、三十七分後に次の合流器へ入る」
「患者は十二分もたない」とハル。
「大揺れまで九分に減った」
テトが訂正する。
「なら九分で到達する」
「方法」とサナの声が応答線から飛ぶ。
「連結器を二十八メートルへ伸長。六号車から下層車両へ保守橋を渡す。上層線が左鎖へ寄る区間で高度差が六メートルまで縮む」
「安全率」とロロ。
「設計時四。現状は知らない」
「知らないを言えるのはいい。計算は俺がやる」
「時間」
「五分」
「三分で」
「人の仕事時間を勝手に決めるな!」
「九分しかない」
「分かってる! でも三分って言うなら削る条件を言え!」
イヴァは一瞬止まる。
命令を出す人間は、時間を短くする時、誰かの安全を勝手に削りがちである。
「外装検査を省く。内筒亀裂は音で確認。作業者二名。私が橋端へ停刻標を打つ」
「お前の右手」
「左で打つ」
「不整脈」
「一回なら」
「医者に聞いたか」
イヴァは答えない。
『聞かれていない』
サナが無線越しに言った。
『強雷場で停刻標を使えば、イヴァの心拍は乱れる』
「サナ」
『患者へ選択を聞けと言う女が、自分の身体を医療者へ報告しない。立派な車掌だ』
「皮肉は患者を治さない」
『命令も治さない』
「九分」
『八分四十秒』
古い友人同士の会話は、再会の喜びより先に互いの欠点へ届く。
ハルが間へ入る。
「イヴァは印を一回。ロロが条件を決める。サナは患者を揺れに備える。俺が渡る」
「あなたの役割を私が決めた時、怒った」とイヴァ。
「今は俺が決めた」
「他人の役割も決めた」
「じゃ聞く。ロロ、三分で?」
「四分。安全索二本。外装検査はセレナの証羽で走査。費用二倍」
「エリア」
「高度差の測定と仮路。踵痛が二を越えたら交代」
「カイル」
「盾は三回まで。痛み返しが肋へ来たら申告。王命は使わない」
「セレナ」
「記録と拘束権限。イヴァの操作は一回ごとに承認します」
「テト」
「雷鐘と信号。大きい雷で一拍止まることも報告します」
「ノクス」
「ノゥ」
「何て?」とハル。
「『干し魚』」とカイル。
「『行く』」とエリア。
「『勝手に決めるな』」とセレナ。
ノクスは三人を噛み、ハルの肩へ乗った。
「行くって」
「あなたも勝手に翻訳しています」
「行動が証拠」
「状況証拠です」
イヴァは全員を見た。
「私へは聞かないのか」
「行く?」
「行く」
「じゃ決まった」
「軽い」
「重く言ったら列車が遅くなる?」
「ならない」
「じゃ走ろう」
イヴァの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑いではない。
昔、発車合図を出す直前の癖だった。