第416話 第四章「連結器の熱」後編
車内へ戻ると、公文書が待っていた。
下層保守線の図面。
正確には、下層保守線が存在しないことを証明する文書だった。
『雷鎖暦七〇四年、旧逆勾配線全撤去』
『保守資産、解体処分』
『関連駅名、時刻表、設備番号、欠番化』
セレナは三頁目で止まる。
「添付された解体重量表がありません」
「別冊だ」とグラド。
「別冊番号」
「機密」
「機密指定日」
「記録外」
「撤去工事の支払先」
「古い案件だ」
「古いことは、存在しないことと同義ではありません」
エリアが図面の余白へ指を置く。
「上層線の支柱間隔が、八区間ごとに倍になっています」
「地盤差だ」とグラド。
「空中です」
「島の地質差」
「支柱は島間の鎖へ設置されている」
「設計者へ聞け」
「設計者名が削られています」
紙の右下。
署名欄だけ切り取られている。
セレナは単眼鏡を外さない。
「削除痕は二年前。紙本体は十八年前」
「なぜ分かる」とグラド。
「切断面の酸化。記録筆の圧。閲覧痕」
「証羽で過去を見たのか」
「見ていません。物理痕です」
ロロは三枚歯の工具印を思い出す。
何も言わない。
ハルは図面の欠番を見る。
上層線の設備番号は一から十二。
その下へ、番号のない空欄。
十三ではない。
数字そのものがない。
「撤去したのに、なんで支柱は残ってる」
「撤去したのは線路名かもしれない」とエリア。
「名前だけ?」
「公文書が撤去した対象を、正確に読み直す必要があります。『旧逆勾配線を保守資産台帳から撤去』。物理線路を解体したとは書いていない」
「台帳から消した」
「結果として、整備予算も点検義務も消えた」
「線路は残った」
「可能性」
「そこを誰かが使った」
「可能性」
「エリア、慎重すぎ」
「あなたが早すぎる」
「真ん中は?」
「ロロ」
「俺を勝手に平均へ置くな!」
テトが古い時刻表を持ってくる。
表紙に黒い封印。
「見習い教材の底にありました。廃止線の乗務唱です」
「乗務唱?」
「信号が見えない時、駅順を歌で覚えるんです」
テトは小さく歌う。
『朝笛ひとつ、上へ行く』
『雷鐘ふたつ、下へ行く』
『八つ数えて、手を離すな』
『名のない駅で、名を呼べ』
最後の行で止まる。
「名のない駅」とハル。
「歌は証拠ではありません」とセレナ。
「でも、線路を使った人がいた」
「比較資料にはなります」
イヴァは歌を知っていた。
唇が、テトより半拍先に動いた。
ハルが見る。
「歌える」
「小駅の子供は全員覚えた」
「下層線の子供?」
「雷鎖の子供だ」
「撤去前?」
「私が生まれる前から廃止扱いだった」
「なのに車掌になった」
「線路は、時刻表へ載らなくても錆びる」
イヴァは図面の欠番へ指を置く。
右手ではなく左手。
「そして錆びた物は、誰かが使う前に直さなければ人を殺す」
「誰が直した」とセレナ。
「答えない」
「黙秘権を行使しますか」
「違う。今答えれば、足りない事実へ一人の名前を置く」
「その区別を記録します」
「好きにしろ」
イヴァは存在しない鋏を鳴らさない。
その時、医療記録の赤い印が途切れた。
二十個目が増えない。
一秒。
二秒。
三秒。
「サナ?」
イヴァの放送口調が消える。
応答線から雑音。
『……いる』
サナの声。
『次を打てない。私の不整じゃない。患者の脈が術の条件から外れかけてる』
「意味は」とハル。
『悪化を止めるには、悪化する脈が要る。止まりかけた心臓へ保留を打てば、止まる方を固定する』
「あと」
『次の鎖継目まで九分』
「九分で行く」とハル。
「方法」とサナ。
「伸びる連結器を橋にする」
「安全条件」とイヴァ。
「ロロが決める」
「目的地」とイヴァ。
「七号車」
「その後」
「患者を選べる状態へ戻す」
「どこへ運ぶ」
ハルは言葉に詰まる。
病院。
どの病院。
どの島。
どの法。
七号車の囚人は、病院へ入った瞬間に別の監獄へ戻されるかもしれない。
「まだ決めない」
「列車は、決めないまま分岐へ入れない」
「じゃ、決めないための場所を作る」
イヴァの目が動く。
「場所は先に存在しない」
「道も、エリアが描く前から全部ある?」
「測れない道は描かない」とエリア。
「でも測ったら増える」
「選択肢としては」
「駅も同じだ」
ハルは欠番の図面を見る。
「行き先を決めるまで止まれる所を作ればいい」
テトが小さく息を吸う。
「仮駅」
グラドが切る。
「監獄列車に仮駅はない」
「ない物を案内するのが親切って言った」とハル。
テトは帽子の鍔を叩いた。
「言いました」
「じゃ作る」
イヴァは長い三つ編みを机へ置く。
二本の線路図の形になる。
「作る前に、旧線の分岐位置を確定する」
「知ってるんじゃないの」
「二年前の位置なら」
「今は」
「線路は走る。島が回る。支柱が伸びる。過去の地図で現在の命を運ばない」
エリアが頷く。
地図を愛する者ほど、古い地図の危険を知る。
セレナは公文書の最後をめくった。
頁番号が飛んでいる。
十二の次が十四。
「十三頁がありません」
「偶然だ」とグラド。
「偶然を否定しません。ただし欠落を記録します」
「数字遊びで車両は戻らない」
「戻す先を決める前に、どこを通ったかを確定します」
ロロが古油の瓶を光へ透かす。
三枚歯の工具印。
下層線の保守部品。
公文書から消えた十三頁。
同じ数字へ意味を詰め込みすぎれば、推理は占いになる。
「似てるだけだ」
ロロが自分へ言う。
「何が」とハル。
「何でもねえ」
「分かった」
「聞かねえのか」
「今は」
ロロは請求書の桁を細かく書く。
悲しい時ほど、金の話をする。
「連結器伸長試験、危険手当込みで四百八十ルク。落下救助、別勘定。鞄救助は荷物扱い」
「鞄の方が高い?」
「石が入って重かった!」
「戻る場所だから」
「戻る場所を鞄へ詰めるな!」
「置いてったら消える気がする」
ロロの補助腕が止まる。
姉の工具印に似た傷。
なくした人の痕跡を、部品へ置きたくなる。
「消えねえよ」
「何が」
「聞くな」
「分かった」
二人は同じ答えを返した。
列車の下で、旧保守線が軋んだ。
公文書から削除された設備は、削除されたことを知らない。
予算も点検も名前も失ったまま、収容者と護送員二十三人、それに一人の医師を乗せて走っていた。