第415話 第四章「連結器の熱」前編
人が列車から落ちた場合、最初にするべきことは列車を止めることである。
その常識は、列車が止まれる場所で生まれた。
ブラック・ラインには停車駅がない。
停止許可もない。
落下者の下には地面もない。
したがって現場の常識は、常識の方を列車速度へ追いつかせる必要があった。
「ハル落下!」
セレナの報告と同時に、エリアが動いた。
彼女はグリムリリーを屋根継目へ打ち込み、測定済みの最後の一点から路図を垂らす。淡緑の線は空中へ一メートル、二メートル、三メートルと伸び、そこで止まる。
ハルの現在位置を測れない。
見えないからではない。
上層線と下層線の重力が重なる八秒間、距離の向きが一定しないからである。
「線を伸ばせ!」とカイル。
「未知へ描けば、別の人を誤誘導する!」
「今はハル一人だ!」
「一人だから間違えてよい理由にならない!」
エリアの声が高い。
好奇心ではない。
恐怖で息が浅くなっている。
左肺の容量を気にする余裕もなく、彼女は屋根縁へ膝をつく。
「ハル、返事!」
雷しか返らない。
ロロの四本の補助腕が、屋根上の安全索を全部つかんだ。
「落ちた方向は!」
「下層線側!」とテト。
「今の下か、次の下か!」
「暗転七秒目は下層が下! 復帰後は上層が下!」
「両方言うな!」
「両方です!」
「機械が言葉へ喧嘩売ってやがる!」
ロロは腰の工具箱を蹴り開けた。
補助腕一本が巻取機を引く。
二本目が鋼索を屋根縁へ通す。
三本目が射出鉤を装填。
四本目が請求札を落とした。
「今、請求書要る?」とカイル。
「命綱は後払いだ!」
「景気がいい」
「黙って盾出せ!」
カイルが右籠手を左拳で二度叩く。
「守るのは六人、屋根、命綱一本!」
「今度は自分を数えた」とテト。
「成長しただろ!」
「ハルが減ってます!」
「そこを今戻す!」
深紅の盾炎が、落雷を受ける半円ではなく、屋根の側面へ長い樋として展開する。風を一拍だけ外へ逃がし、射出鉤の通路を作る。
「三、二、一!」
ロロが撃つ。
鉤は暗い空へ落ちた。
落下したのか、上昇したのか、見た目では分からない。
鋼索が十メートル、十五、二十。
急に張る。
「引っかかった!」
「何へ」とセレナ。
「今から音で見る!」
ロロは索を歯へ当てた。
高い振動。
細かい連打。
不規則な衝撃。
「車体外板じゃねえ。布と金具――」
索が三度引かれる。
一。
二。
三。
ハルの跳躍前の数え方と同じ。
「本人!」
全員で巻く。
鋼索の先に、赤いマフラーが見えた。
ハルは下層線の保守桁へ片足を引っかけ、もう一方の足を空中へ投げ出している。射出鉤は配達鞄の肩紐へ刺さっていた。
「鞄に刺すな!」
「命と荷物、どっちが大事だ!」とロロ。
「中身!」
「命より高い物入ってんのか!」
「各地の端の石!」
「石かよ!」
「なくしたら戻れない!」
「お前は石じゃなく人へ戻れ!」
ロロは巻取速度を上げる。
ハルの身体が保守桁から離れる。
その瞬間、下層線の重力が反転した。
彼は上層屋根へ向かって落ちる。
「減速!」
「巻取機に減速ねえ!」
「作れ!」
「今言うな!」
エリアが路図を射出鉤の索へ重ねる。
測定済みの物体なら、線を描ける。
鋼索の振れを一本の緑線へ変え、屋根上の三つの取っ手へ分散する。
カイルの盾が受ける。
ハルが赤い炎壁へ背中から衝突した。
「痛っ!」
「痛みは」とエリア。
「今それ聞く?」
「言えるなら意識あり」
「三!」
「十段階」
「今度は十段階!」
「尺度を保った」
「褒めるところ?」
「左肩」
「二。背中三。鞄五」
「鞄は診療対象外です」とセレナ。
「冷たい」
「事実です」
イヴァがハルの胸帯を外す。
右手の震えを隠すため、左だけで金具を操作する。
「次の停車を言わず飛んだ」
「落ちた」
「言い換えて責任を薄めるな」
「飛ぶつもりはなかった」
「落ちるつもりも言っていない」
「落ちる予定を案内する奴いる?」
「予定外だから報告が要る」
「落ちてる最中に?」
「可能なら」
「厳しいな」
「死者へ車内放送は届かない」
その一文だけ、低い声がさらに低くなる。
イヴァはハルの左肩へ触れない。
医療知識がある人の避け方だった。
「下で見た」とハル。
「何を」
「七号車。間違いない。側面に七の刻印。赤い医療灯。下層線を走ってる」
「方向」
「俺たちと同じ前」
「速度」
「少し遅い」
「距離」
「二十メートルくらい」
「二十二」とエリア。「索の最大伸長と角度から」
「今、測れた?」
「あなたが索でつながったから」
「俺が地図の測量杭」
「杭の方が指示に従います」
「杭に負けた」
「継続的に」
ハルは笑い、左肩を回そうとする。
エリアの手が止める。
「動かさない」
「確かめるだけ」
「痛みを増やして確認するのは検査ではありません」
「サナみたい」
七号車の医師の名が出ると、全員の表情が戻る。
赤い医療記録は、いま十五回目。
ロロは屋根から連結器へ移った。
移った、と言っても歩ける場所ではない。
六号車後端と空白の間。二本の伸縮連結器が、雷雲へ長く突き出ている。その中央へ、幅二十センチの保守板がある。
「俺も行く」とハル。
「肩」
「右手で行く」
「片手で来るな!」
「じゃ両手」
「負傷の帳尻を言葉で合わせるな!」
「ロロ一人の方が危ない」
「俺には六本ある!」
「身体は一個」
ロロが止まる。
感情の話を機械比喩でしかできない少年へ、ハルは機械を使わず返した。
「安全索を二本。俺の指示なしで触るな。落ちたら修理代三倍」
「命綱の値段、上がった」
「需要が実証された」
セレナが二人の帯番号を記録する。
「現場改変は必要最小限。採取物へ番号を」
「番号が多い」とハル。
「名前より番号が先の列車で、証拠だけ番号なしにはできません」
「人と証拠が逆」
「だから記録する」
ロロとハルは保守板へ出た。
風が身体の横を抜ける。
連結器は、伸びた鋼の蛇のようだった。
節が十二。
各節の内側へ、雷で膨張する青い筋肉線。
外側へ放熱翼。
通常なら二メートルまで。
今は九メートルずつ、前後から伸びている。
「一両分」とハル。
「合計十八・二。寸法だけは設計通り」
「設計通りに車両が消えるの?」
「非常時、車両同士が衝突しないよう距離を作る。谷間で一両が脱線した時、前後をつないで編成制動を残すためだ」
「じゃ、抜くための機械じゃない」
「道具は目的より先に動く。橋は渡るために作る。落とすためにも使える」
ロロは連結器へ水滴を落とす。
瞬時に蒸発。
湯気の流れをゴーグルで読む。
「熱源、内筒全体。切断じゃない。急伸長と急収縮を繰り返した」
「長さは一定」
「見えてる外側が一定。中の巻き筒が補正してる」
「また表示だけ正常」
「機械は嘘をつかねえ。質問に答えてるだけだ」
「何て聞いた」
「『連結は維持されてるか』」
「位置じゃない」
「そう」
ハルは連結器の側面へ指を近づける。
「触るな」
「触ってない」
「触る顔だ」
「顔は証拠じゃない」
「お前の場合、予告だ!」
連結器の片側へ、黒い油が筋を作っている。
六号車側は透明な新油。
伸縮節の内側だけ、焦げ茶の古い油。
「違う」とハル。
「見りゃ分かる」
「匂いも」
「何に似てる」
「雨の日の配送店。古いシャッター」
「植物樹脂系の保守油。今は使わねえ。低温で固まるから」
「下層線、寒い?」
「島の腹は日が当たらねえ。だから廃止油を使う理由はもっとない」
ロロは油を採取する。
次に外筒の傷へ拡大鏡を当てた。
三本の浅い刻み。
歯のように並ぶ。
ロロの補助腕が止まる。
本人の顔より先に、四本全てが下を向いた。
「何」とハル。
「工具印」
「誰の」
「分からねえ」
「知ってる形?」
「似てるだけだ」
ロロは左手の親指で傷をなぞらない。
証拠を壊さないためではない。
触れたら、記憶が確定する気がしたからだ。
三枚歯。
姉ニアが、整備後の部品へ残していた工具印に似ていた。
似ている。
同じではない。
古い機関士規格として使われた可能性もある。
ロロはそれ以上を言わない。
「セレナ。傷、記録」
無線へ声を出す。
『形状を』
「平行三条。間隔二ミリ。右端だけ深い。工具種は未確定」
『人物との関連は』
「未確定」
ハルも黙る。
父の影を見つけるたび追う自分には、似た工具印へ姉の名を置きたくなる気持ちが分かる。
分かることと、代わりに言うことは違う。
ロロは古油の瓶へ証拠番号を貼った。
「片側だけ」とハル。
「七号車側の伸縮節へ、昔の下層保守油が入ってる。つまり最近、旧線用の部品を接続した」
「最近って」
「油膜の酸化で三か月以内」
「誰かが準備した」
「可能性。事故で予備部品を入れた奴が記録をサボったかもしれねえ」
「ロロが慎重」
「俺はいつも慎重だ!」
「分解の前以外」
「分解は慎重に近づく方法だ!」
突然、連結器が縮んだ。
半メートル。
ロロとハルの足場が前後から潰される。
「跳べ!」
「どこへ!」
「言ってる場合か!」
「イヴァに怒られる!」
「今は俺が怒る!」
ハルは右手で上の補強索をつかみ、ロロの作業上着を左肘へ引っかける。左肩へ鋭い痛み。
ロロの補助腕が二本、連結器を挟む。
残り二本が緊急楔を入れる。
「止まれ!」
「機械に命令で止まる?」
「止まらねえから工具がある!」
楔が噛む。
鋼節が火花を吐く。
縮みが止まり、二人は宙吊りになる。
下層線の暗い影がすぐ下を過ぎた。
車輪音。
八拍。
その最後に、女の声が雷管から漏れる。
『聞こえるなら答えろ。患者、あと――』
雑音。
『――三十秒を、何回もらえる』
サナ・ホルムだった。
ロロは連結器へ耳を当てる。
「こいつ、音もつないでる」
「返せる?」
「応答線は焼けてる」
「直せ」
「命令すんな」
「お願い」
「言い直しが早い!」
「直して、ロロ」
補助腕が一瞬上を向く。
本名で頼まれたわけではない。だが声の質が違った。
「二分」
「三十秒何回」
「四回」
「間に合う?」
「間に合わせるんじゃねえ。二分で直す」
修理とは、元へ戻すことではない。
元の設計が「人を運ぶ」より「収容状態を維持する」を優先していたなら、元へ戻すほど会話は届かない。
ロロは焼けた応答線を交換しなかった。
連結器の距離補正線を一本外し、音声へつなぐ。
「距離表示が消える」とセレナ。
「表示が正しくねえなら、消した方がましだ!」
「物理距離の記録は」
「エリアが測る!」
「測定可能範囲だけ」とエリア。
「それでいい! 全部分かるふりする計器より、分からねえ所を空ける地図の方が今は正確だ!」
エリアの歩幅が半歩大きくなる。
未知の構造を褒められた時の反応だった。
「後でその発言を署名して」
「何に使う!」
「学院機関科の路図批判へ」
「敵を増やすな!」
ロロは被覆を噛み切る。
喘息の胸へ油煙が入る。
一度咳をし、二度目を飲み込む。
ハルが風上へ身体をずらした。
赤いマフラーで煙を外へ流す。
「頼んでねえ」
「俺が煙嫌い」
「嘘つけ」
「顔は証拠じゃない」
「今のは専門用語が減ったから嘘だ!」
「嘘の見分け方がロロ限定」
応答線がつながる。
ざ、と雷雑音。
「七号車、応答!」
ロロが叫ぶ。
『聞こえた』
切れのよいアルト。
『誰だ』
「修理工ロロ・ピクス! 患者の状態!」
『胸部内出血。血圧低下。肋間へ金属片。走行振動で悪化。手術設備へ運べ』
「現在位置は!」
『車内だ』
「知ってる! 外見ろ!」
『閉鎖個室で窓を塞がれた』
声の最後だけ、わずかに息が乱れる。
サナは鍵の掛かる診察室を恐れる。
恐怖を患者へ聞かせないため、数字を増やす。
『脈止め使用十六回。私の心拍、百二十八。患者意識あり。収容者十九、護送員四、全員生存。二名軽傷。一名、拘束具で手首損傷』
「名簿は二十一」とセレナが無線へ入る。「人数差二。説明できますか」
『一名は私。医療労務収容者と書かれている。もう一名は患者。名簿上、医療設備扱いに移された』
ハルの顔から冗談が消える。
「人を設備って書くの?」
『この列車では、治療中の収容者は移送人数から外れる』
「数から外したら軽くなる?」
『書類は』
「身体は」
『重いままだ』
サナの声は、ハルの質問を気に入ったようにも、嫌ったようにも聞こえない。
患者へ甘くしない声は、少年へも甘くない。
『そっちは誰だ』
「凪野ハル」
『肩を痛めてる声だな』
「声で分かる?」
『息を吸う時、左を庇っている。私の患者になるな。今の一人で手が足りない』
「行ったら二人になる」
『来るなと言った』
「助けに」
『医師へ目的だけ言うな。手段を言え』
イヴァと似ている。
行き先を言え。
手段を言え。
救助を仕事にする人間は、善意を動詞へ変えない者へ厳しい。
「下層線を追う。連結器を橋にする。車両へ乗る。患者を手術できる所へ運ぶ」
『どこ』
「まだ」
『決まっていない?』
「選ぶ」
『誰が』
ハルは答えかける。
自分たち、と。
イヴァが耳管の前へ立つ。
「患者が選べる状態なら患者。意識がなければ医療代理と運行責任者」
『イヴァ』
サナの声が変わった。
速度が落ちる。
甘くはならない。
『生きてたか』
「乗務中だ」
『囚人だろ』
「名はイヴァ・レイル」
『知ってる。番号で呼んでない』
一瞬の沈黙。
長い再会を短くする人々はいる。
言葉が少ないから感情が小さいのではない。感情を説明している間に患者が死ぬ仕事をしてきたからである。
『下層線を使ったな』
「まだ断定するな」
『使った音がした。八秒。左車輪が逆へ鳴った』
「車内で分かる?」とロロ。
『工場医は機械音を覚える。列車医は車輪音を覚える。患者の脈がどの揺れで悪くなるか知らない医者は、薬だけ見て人を見ない』
「患者、あと何分」
『分で聞くな。次の大揺れまで』
テトが時刻表を広げる。
「次の鎖継目、大揺れは十二分後」
『それまでに振動を減らせ。手術設備がなければ、せめて水平を寄越せ』
「下層線の重力は逆だ」とイヴァ。
『知っている。だから患者を天井へ固定した』
誰かが後ろで叫ぶ。
『戻すな!』
男の声。
『本線へ戻せば、次は裁判所じゃない!』
別の声。
『扉を開けろ!』
鉄を叩く音。
サナが怒鳴る。
『患者の横で暴れるな! 脱獄するなら静かにしろ!』
「脱獄を許すんですか」とテト。
『医療区画で走るなと言っている』
「そこだけ?」
『医師は刑法を診断しない』
通信が途切れる。
連結器の温度が二百二十度。
ロロは応答線を冷却布で巻く。
「十二分」
「追いつける?」とハル。
「同じ速度差なら、下層車両が遅い。こっちから伸縮器をもう一段出せば」
「一両分より伸びる?」
「設計上は三十メートル。今十八。あと十二」
「設計上」とセレナ。
「古油、熱、記録なしの部品交換。安全とは言わねえ」
「成功率」
「七割」
「費用」とハル。
「列車一両」
「命より安い?」
「比べるな。命を値段にすると、安い命から切られる」
ロロは工具箱を閉じない。
「修理代は列車へ請求する。助けるかは別の勘定だ」
カイルが笑わず頷く。
「王室勘定は使うなよ」
「国の監獄だろ。国へ請求する」
「王と国を同じ財布にするな」
「今それ言えるなら、少し見直す」
「少しか」
「支払い見てから増やす」