第414話 第三章「屋根の八秒」後編
屋根扉を開けるには、列車と同じ速度で風を切る必要がある。
普通の扉なら、内外の圧力差で人間ごと持っていかれる。雷導列車の屋根扉は二重になっていた。第一室へ六人が入り、内扉を閉じる。床から噴く逆風で身体を列車速度へ馴染ませ、外扉を一指ずつ開く。
「六人まで」とグラド。
「七人です」とテト。
「見習いは残れ」
「雷鐘を読む役です」
「車内計器で読める」
「車内計器は遅延補正が入ります。外音は生です」
「危険だ」
「危険な仕事に採用しましたよね」
テトの故郷訛りが少し強くなった。
嘘ではない。
怖いのだ。
大きな雷音へ身体が一瞬固まることを隠し、その隠した事実ごと役に立とうとしている。
「俺が読む」とイヴァ。
「左耳、半分聞こえませんよね」
「口を読める」
「雷の口はどこです」
イヴァが黙った。
テトは帽子の鍔を二度叩く。
「次は、屋根。停車零秒。俺も乗ります」
サナがいたなら止めただろう。
いないから、誰かがその代わりを完全にできるわけではない。
「私が記録します」とセレナ。「危険を隠して参加した事実も」
「後で叱ります?」
「生きて戻れば」
「じゃ、戻る理由が増えました」
外扉が開く。
世界が音になった。
ごう、ではない。
ごう、という一音へまとめるには、風も雷も車輪も多すぎる。
風は服を後方へ剥がす。
車輪は足裏から骨を刻む。
導雷鎖は左から右へ鳴る。
雲の中の雷は上からではなく、前から来る。
ハルは一歩目で身体を低くした。
赤いマフラーを短く結び直す。
「一、二、三」
小声で数え、屋根の保守取っ手へ右手を伸ばす。
イヴァの左手が、肩帯をつかんだ。
「目的地」
「次の取っ手」
「その次」
「次の次」
「三つ先まで言え」
「うるさい!」
「聞こえない。正面で言え」
「うるさい!」
「聞こえた」
ハルは笑いかけ、笑っている場合ではないと気づく。
白い雷が屋根を舐めた。
カイルが右籠手を開く。
「守るのは六人と屋根一枚!」
深紅の炎が半円の盾になる。
雷が盾へぶつかる。
光が赤く砕け、カイルの背中が一瞬反る。
「七人です!」とテト。
「自分を数え忘れた!」
「王子が算数で負けた」とハル。
「景気が悪い!」
「喋れるなら痛みは」とエリア。
「二」
「十段階で?」
「昨日より二多い」
「尺度を!」
「この船、この会話が伝染してるぞ!」
「列車です」とイヴァ。
「そこは訂正しなくていい!」
エリアはグリムリリーを短槍形へ変え、屋根へ穂先を当てた。
測定光が走る。
路図〈ルート・レイ〉は、知らない場所を知ったふりで描かない。槍先が触れた屋根の傾斜、取っ手、避雷柱、扉の位置だけが淡い緑線になる。
「六号車後端まで二十七歩。第三避雷柱の右側は踏板が薄い。カイルの盾が落雷を受けるたび左へ五センチずれる」
「五センチで済んでる俺を褒めろ」
「四センチにして」
「要求が成長した!」
ロロは四本の補助腕で屋根索へぶら下がり、温度計を連結器側へ滑らせる。
「百八十九! 二百! 伸縮筒がまだ動いてる!」
「長さは」とセレナ。
「一八・二、変化なし!」
「熱だけ増加」
「動いてるのに長さが変わらねえ。どっかで伸び縮みを繰り返してる!」
「呼吸みたい」とハル。
「機械へ生命比喩を使うな! 診断が雑になる!」
「ロロは感情を機械で言うのに」
「感情は構造が雑だからいいんだよ!」
テトが右手の笛を吹く。
短、短、長。
「次の雷鐘、八秒後!」
雲の中へ、巨大な鐘が浮かんでいる。
雷鐘。
電荷が一定量へ達すると鳴り、周辺線路の給電を一瞬切り替える。乗務員は鐘の音で、目に見えない雷の流れを読む。
「停電時も八秒だった」とハル。
「雷鐘の切替暗転です」とテト。「普通は二秒。今の区間だけ八秒」
「なぜ」
「下層鎖へ給電を回す古い区間があると、長くなります」
グラドの声が耳管から飛ぶ。
『下層鎖は廃止済みだ。存在しない設備を前提にするな』
「廃止したら物理的に消えますか」とエリア。
『公文書上、撤去された』
「公文書で鉄を溶かせるなら、ロロが失業します」
「俺の仕事を法律で奪うな!」
『ルーンベルグ令嬢、収監者の推測へ乗るな』
イヴァは耳管を取らない。
自分へ向けられた言葉を、右耳だけで聞く。
「次の鐘で、屋根灯が消える」
「それが八秒」とハル。
「下を見ろ」
「下?」
「今の下ではない」
「正確に言って」とエリア。
「列車が次の鎖境へ入ると、重力継目が左へ傾く。屋根の外縁から、島の腹側を見る」
「何が見える」
「見えれば、私の記憶が正しい。見えなければ、古い線は本当に死んだ」
「死んだ線が十三回目を穿つ?」
イヴァは答えない。
会話の節目に鋏音も鳴らさない。
私情がある。
セレナはその沈黙を証拠にしない。
「雷鐘まで三!」
テトが叫ぶ。
二。
一。
鐘が鳴った。
世界から光が抜ける。
暗闇は、何も見えない状態ではない。
見えていた物の位置を、身体が勝手に残している状態である。
屋根の取っ手は右手の先。
エリアは左後ろ。
カイルの盾は前。
イヴァの手は肩帯。
ハルはその記憶へ体重を置いた。
一秒目。
足元が左へ傾く。
二秒目。
カイルの炎が消える。雷給電と干渉するため、暗転中は盾を維持できない。
三秒目。
エリアの路図が細くなる。測定済みの線だけが残り、未知の外縁は描かれない。
「今!」
イヴァが叫ぶ。
ハルは外縁へ伏せ、頭だけを出した。
下に空はなかった。
線路があった。
ブラック・ラインの真下、島の腹へ張りつくように、もう二本の導雷鎖が走っている。
上下逆の列車が、そこを通れる間隔。
四秒目。
白い雷が遠くで光る。
下層線が一瞬、輪郭を持つ。
錆びた保守桁。
閉じた信号灯。
古い駅名板の裏。
そして、動く影。
箱形。
十八メートル。
「車両!」
五秒目。
影は雲へ隠れる。
六秒目。
足元の重力が戻り始める。
ハルの身体だけが戻らない。
外縁へ出しすぎた上半身が、今度の下へ引かれた。
「ハル!」
エリアの声。
肩帯が伸びる。
イヴァの左手がつかんでいる。
しかし右手の拘束鎖が屋根金具へ引っかかり、彼女の身体も外へ滑る。
七秒目。
カイルが盾を再展開しようとする。
まだ給電が戻らない。
ロロの補助腕が安全索を投げる。
風が索を後ろへ持っていく。
八秒目。
イヴァは腰へ手を伸ばした。
そこに武器はない。
代わりに、テトが自分の見習い票鋏を投げた。
「師匠!」
「師匠ではない!」
イヴァは左手で受け取る。
小さな鋏。
彼女の穿票鋏トランジットとは違う。列車一両を挟めず、紙一枚しか穿てない。
それでも刃は刃だった。
彼女はハルの安全帯へ、切符片を当てる。
「対象、胸帯」
鋏を閉じる。
かちん。
「停止条件――次の屋根継目が、荷重を受け取るまで」
青い穴が切符へ開く。
穴の光が帯へ移る。
移動物へ停止条件を刻む標〈ステイション・マーク〉。
時間を止める術ではない。
ハルの身体も、列車も、風も動いている。
ただ胸帯の一端だけが、「次の屋根継目へ荷重を渡す」という条件へ到達するまで、現在の位置関係を手放さない。
帯が空中へ一本の固い線を作る。
イヴァの身体がその線へ引っかかる。
ハルは屋根外へ半身を落としたまま止まった。
「止まってない!」とハル。
「列車と一緒に時速四百二十で動いている!」
「じゃ何が止まった!」
「落ちる順番!」
光が戻る。
九秒目。
カイルの盾炎が爆発する。
雷を受けるのではなく、屋根へ横向きに押し当てる。赤い壁がハルの身体を内側へ押す。
エリアの地図槍が安全帯の途中へ刺さる。
ロロの四本腕がイヴァの拘束鎖をつかむ。
テトは帽子を飛ばしながら、イヴァの足首へ飛びついた。
「次の停車、屋根です!」
「停車位置を勝手に決めるな!」
「今は決めます!」
全員が引く。
ハルの左肩へ痛みが走る。
白い線が指へ浮く前に、彼は右手で屋根縁をつかんだ。
自分の身体を最も安い代償へする癖は、治療では直らない。
直らないから、他人の手を増やす。
「一、二――」
三を言えない。
「引いて!」
エリアへ頼む。
命令でも冗談でもなく、具体的な役割を一つ。
エリアは返事をしない。
返事へ使う息を、引く力へ回した。
ハルの身体が屋根へ戻る。
続いてイヴァ。
最後にテト。
全員が鉄板へ倒れた。
カイルの盾が消え、白い雷がすぐ横の避雷柱へ落ちる。
轟音。
テトの身体が固まった。
一瞬だけ。
ハルは見た。
イヴァも見た。
誰も「怖かったか」と聞かない。
イヴァはテトの帽子を拾い、進行方向へ向けてかぶせる。
「次の雷鐘は」
テトは唇を噛み、耳を澄ます。
「十二秒後。右鎖二本、下層へ一拍」
「読めるな」
「読めます」
「なら続けろ。固まった時間も報告へ入れろ」
「……はい」
「師匠」と言いかける。
イヴァの目が細くなる。
「元主任車掌」
「長いです」
「正確だ」
「イヴァさん」
「許可する」
かちん。
今度は本当に、見習い鋏が鳴った。
ハルは腹ばいのまま、もう一度外縁を見る。
「下に線路がある」
「見えた範囲を」とセレナ。
「二本。こっちと同じ向き。いや、同じ向きか分からない。島の腹側を走ってる。古い桁。閉じた信号。車両っぽい影」
「大きさ」
「七号車くらい」
「断定しない」
「七号車と同じくらいの箱」
「時刻」
「暗転四秒目から五秒目」
「距離」
「分からない」
「よろしい」
「褒められた?」
「不足を不足として報告しました」
「褒め言葉が法務的」
エリアは屋根縁へ槍先を近づける。
「暗転中、路図へ新しい線が一瞬だけ入った」
「測ってないのに?」
「既存の基幹線から反射した。私の地図ではなく、列車の運行路図が重なったのです」
彼女は淡い光図を開く。
上層線。
その下へ、短い線。
八秒だけ現れ、また上層へ近づく。
「分岐?」とカイル。
「仮説です」
「七号車だけ下へ?」
「仮説」とエリアは繰り返す。
「前後車両は伸びる連結器でつながったまま、中央だけ別の高さを走った」
ロロが温度計を握る。
「だから連結器が焼けた。下へ落ちる分、両端が伸びた」
「落下なら衝撃がある」とセレナ。
「線路へ乗ったなら、落下じゃねえ。分岐だ」
「でも車両の分岐器は屋根から見えなかった」とハル。
イヴァは口を結ぶ。
「知ってる」とハル。
「何を」
「どこで分かれるか」
「知っていると、なぜ判断した」
「俺へ下を見ろって言った」
「旧線の位置を知っているだけだ」
「十三回目の音も知ってた」
「音はまだ説明していない」
「だから聞いてる」
イヴァは見習い鋏をテトへ返した。
会話の節目に鳴らさない。
「十三番目は、車両を数えた音ではない」
「じゃ何を」
「停車条件を穿った音だ」
「どこへ止まる条件」
「下層線へ入る条件」
「誰が穿った」
「それを知るために、七号車へ行く」
また役割を決める声だった。
「先に答えろ」とハル。
「答えが足りない」
「知ってる分を」
「下層線は、列車を止めず患者だけを降ろすために作られた。八秒の給電切替で、一両を下へ送る」
「監獄列車のため?」
「違う」
その一言だけ、放送口調が消えた。
イヴァは左耳を雷へ向ける。
聞こえにくい側を、過去へ差し出すように。
「小駅の救難線だ」
セレナが問う。
「公文書では撤去済みです」
「公文書は線路を走らない」
「あなたは走った」
「走った」
「最後に」
「二年前」
グラドの耳管が割り込む。
『収監者イヴァ・レイル。これ以上の発言を禁じる。国家線妨害事件の未公開情報だ』
「未公開だから車両が消えた」とハル。
『凪野ハル、屋根から戻れ』
「目的地を勝手に決めるな」
イヴァがハルを見る。
「私の台詞を使うな」
「知的財産?」
「運行上の共有語だ」
「じゃ使う」
暗転がまた来る。
テトが数える。
「八秒、来ます!」
今度は全員が外縁へ伏せる。
光が消えた。
下層線が雷の残光で浮かぶ。
車両の影。
先ほどより近い。
窓が一つ、赤く点滅している。
三十秒ごとの医療信号。
サナが患者の状態を、光で上層へ送っていた。
ハルは身を乗り出す。
「いる!」
五秒目。
下層線の重力が、上層屋根へ口を開いた。
イヴァの手が肩帯へ届く前に、安全金具が熱で外れる。
六秒目。
ハルの身体が屋根から離れた。
上へ落ちるのか、下へ落ちるのか、方向が決まらない。
赤いマフラーだけが、下層線へ向いた。
「ハル!」
エリアの路図が伸びる。
未知の空間へは線を引けない。
だから線は、彼の胸元で止まる。
七秒目。
ハルは手を伸ばす。
届く物はない。
八秒目。
光が戻る。
彼はブラック・ラインの屋根から消えた。
雷雲の中へ落ちながら、さらに下を走るもう一本の線路影を見た。
その線路の上に、七号車がいた。