第413話 第三章「屋根の八秒」前編
雷の上へ屋根はない。
雷導列車の屋根へ立つ時、その事実を人は身体で理解する。
空が天井ではなく、落ちてくる刃物の在庫であること。
足元の鉄板が床ではなく、雷と一緒に前へ逃げている薄い約束であること。
そして安全帯という名の縄は、落下を防ぐ道具ではなく、落ちた人間を列車へつないでおく道具にすぎないこと。
「だから行き先を言え」
低い女の声がした。
六号車の後部隔壁。
武装班の間から、一人の囚人が出てくる。
焦げ茶の肌。電光色の青い髪を、腰まで届く長い三つ編みにしている。濃紺の収容外套は、元は車掌服だったのだろう。裾が二本のレールのように割れ、胸の章だけ剥がされていた。
左耳から首へ、白く枝分かれした火傷痕。
両手には拘束輪。
その右手だけが細かく震えている。
「誰」とハル。
「収監者I―」
護送員が番号を言い終える前に、女は左手の鎖を引いた。
金属音が一度。
「イヴァ・レイル」
列車の放送と同じ明瞭さだった。
「名を先に告げる。乗務の基本だ」
「囚人に乗務はない」とグラド。
「なら、十三回目の穿票音を説明できる乗務員を呼べ」
テトの帽子が跳ねた。
「知ってるんですか」
「穴形を聞いた」
「音で?」
「鋏は閉じ方で穴を告げる」
「穴って形、音しないだろ」とハル。
イヴァは細い琥珀色の目を向ける。
左耳側から話しかけたため、反応が半拍遅い。
彼女は顔を少し回し、ハルの口元を見る。
「紙を切る音、刃が止まる位置、戻りばねの長さ。形は音になる」
「じゃ、十三回目は何の形」
「屋根へ出てから答える」
「出られるの」
「あなたは出るつもりだろう」
「顔で分かる?」
「安全帯を腰でなく胸へ掛け直した」
ハルは自分の帯を見る。
無意識だった。
「出る準備をした人間へ、出るなと説教しても時間を失う。役割を決める」
イヴァの視線が全員を切る。
「凪野ハル、先行確認。エリア・ルーンベルグ、屋根上の測線。ロロ・ピクス、連結器温度。カイル・アークレイ、落雷遮蔽。セレナ・クロウ、時刻記録。テト・ヴァン、雷鐘の間隔を読む」
「待って」とハル。
「待たない」
「俺たち、名乗った?」
「四号車の乗員表を見た」
「俺の役を勝手に決めた」
「あなたは決められる前から屋根へ出る」
「それとこれとは別」
「別だ。だが落ちる場所は同じだ」
かちん。
彼女の腰には、武器がなかった。
それでも会話の節目へ、存在しない改札鋏の音が聞こえた気がした。
「元主任車掌イヴァ・レイル」
テトの声が小さくなる。
「七年前の下層線事故で、国家線妨害罪。ブラック・ライン収監」
「七年前なら十一歳」とエリア。
「訓練運行は十三歳」とイヴァ。
「二年前の事故です」とテトが訂正する。「記録年が……いや、処分記録と事故記録が別の年へ」
「今は事故史を読む時間じゃない」とグラド。「収監者を区画へ戻せ」
「戻せば、屋根で一人落ちる」
「誰が」
「赤い布」
「マフラー」とハル。
イヴァは初めて、ほんの少し眉を動かした。
「訂正する。赤いマフラー」
「そこは正確にするんだ」
「行き先も正確に言え」
「屋根」
「屋根のどこ」
「七号車があった辺り」
「ない車両の屋根は目的地にならない」
「じゃ、六号車後端」
「その後」
「見て決める」
「それを行き先とは呼ばない」
「俺は呼ぶ」
「列車は呼ばない」
「列車と話してるんじゃない」
「私は列車で人を運ぶ」
「俺は人を探す」
二人の言葉が正面衝突する。
カイルが両手を上げた。
「よし、仲が悪い。安全確認が済んだ」
「何が安全なんですか」とセレナ。
「同じ考えの者だけで屋根へ出る方が危険だ」
「詭弁です」
「王子の知的財産だ」
「没収します」
外へ出る前、イヴァは全員の安全帯を確認した。
拘束輪を付けたまま、左手だけで金具を引く。
「ハル。胸帯、二重」
「もう締めた」
「自分で締めた帯は、自分の無茶を許す方向へ緩い」
「帯に性格が出る?」
「結び目に出る」
彼女は一段きつくする。
「痛い」
「痛み一と圧迫一を混ぜるな」
「尺度を増やした」
「エリア。左肺、強風で呼吸が浅くなったら屋根扉へ戻る」
「測定を引き継ぐ者は」
「ロロ」
「俺、温度もある!」
「セレナが時刻を持つ。測線だけ引き継げ」
「勝手に決めた」とハル。
「異議は」
イヴァが全員を見る。
決めた後で聞く。
聞くこと自体はする。だが、選べる形へなる前に時刻表ができている。
「異議あり」とハル。
「内容」
「最初に聞いて」
「時間を失う」
「今、聞き直してるから同じ」
「次から改善する」
「本当?」
「次があれば」
「縁起悪い」カイル。
「屋根作業で縁起を安全規則へ入れるな」
イヴァはカイルの籠手を確認する。
「王盾炎、連続二回まで」
「三回いける」
「背中の火傷」
「古傷だ」
「古い傷は、新しい雷を歓迎しない」
「詩的だな」
「医学的だ」
「医者じゃない」
「サナに何度も言われた」
その名だけ、声が少し近くなる。
「ロロ。吸入器」
「持った」
「見せろ」
「子供じゃねえ」
「十四歳」
「十三で主任になった奴に言われたくねえ!」
「私は十八だ」
「経歴で殴るな!」
ロロは胸袋から吸入器を出す。
イヴァは残量窓を見る。
「半分」
「金がなくて詰め替え待ち」
「公費」
「どの公費だよ」
「この列車の救難費」
グラドが即座に言う。
「認めない」
「では運行局員用救命備品を一つ渡せ」
「収容者が指示するな」
「作業参加者の呼吸を確保しろ」
グラドは補給箱を開けさせる。
新しい吸入器が一本、ロロへ渡る。
「勝った?」とハル。
「次の予算会議で負ける」とロロ。
「生きて出席しろ」とイヴァ。
「命令?」
「目的地だ」
テトの番になる。
イヴァは左右の小旗を見る。
縞、丸、三角。
「雷で色が消えた場合」
「模様で読む」
「笛を落とした場合」
「口笛」
「口を切った場合」
「旗」
「旗を失った場合」
「帽子の鍔。一回短、二回長、三回退避」
「よろしい」
「怖くなった場合は」
テトが止まる。
「読めます」
「質問は、読めるかではない」
「……怖いと言います」
「その後」
「次の合図まで続けるか、交代を頼む」
「誰へ」
「イヴァさん」
「私は左耳が弱い」
「正面へ回る」
「よろしい」
イヴァは自分の安全帯を確認しない。
ハルが見る。
「イヴァは」
「何」
「右手震えてる。強い雷で息切れ。戻る条件」
「必要ない」
「全員に決めた」
「私は列車を知っている」
「身体も列車?」
「違う」
「じゃ故障する」
「人間を故障と呼ぶな」
「ロロは言う」
「俺を巻き込むな!」
セレナが記録羽根を上げる。
「イヴァ・レイルの参加条件。心拍異常、右手振戦の増加、左耳側からの指示不達、いずれかで役割再配分」
「承認していない」
「危険情報として記録。承認は別」
「面倒な女だ」
「評価は記録しません」
イヴァは一瞬だけ、笑いそうになる。
笑わない。
外套の内袋を探り、何もないことを確かめる。
出発前、路守礼では線路へ塩を一粒落とす。
収容者へ塩の所持は許されていない。
ハルが非常食の袋を出す。
「塩?」
「なぜ」
「今、探した」
「見たのか」
「顔は証拠じゃない。でも手は内袋へ」
「一粒」
ハルは塩を掌へ出す。
イヴァは左指でつまみ、屋根扉の溝へ落とした。
「運命を信じる?」
「整備を信じる」
「じゃ塩は」
「整備する人間が、出発を忘れないためだ」
「帰る方は」
「安全規則に入っている」
「イヴァの帰る条件、まだ」
彼女は外扉を見る。
「七号車の位置を確認したら戻る」
「確認できなかったら」
「暗転二回で戻る」
「本当?」
「記録した」とセレナ。
「なら本当になる」
後にイヴァは、この約束を守り切れない。
だが約束を口へ出したからこそ、誰かが破ったことを指摘できる。
安全規則は、事故を完全に防ぐ魔法ではない。
無茶が無茶であると、後からでも言えるようにする言葉だった。