第423話 第八章「伸びる橋」前編
橋は、両岸があることを前提にする。
片方が時速四百二十キロで走り、もう片方が線路を失って振り子になり、途中で重力の向きが九十度変わる場合、それを橋と呼ぶのは建築より希望に近い。
希望は構造計算へ使えない。
だからロロ・ピクスは、希望を全部どけた後の数字だけを床へ並べた。
「橋長二十六・八。中央曲率、最大十二度。表面温度七十八。安全帯二本。渡れる人数、一回一人。走るな。跳ぶな。喋るな。俺の指示へ逆らうな」
「最後だけ構造条件じゃない」とハル。
「お前が構造上の危険なんだよ!」
「喋るなって言った直後に会話を始めた」
「説明中は別!」
「走るのは」
「禁止!」
「跳ぶのは」
「禁止!」
「落ちたら」
「請求!」
「助けるより先?」
「助けた後じゃ逃げるだろ!」
四本の補助腕がハルの胸帯、腰帯、右手索、靴底を順番に確認する。
左肩はエリアが布で固定した。
「痛み」と彼女。
「二・八」
「三未満、という詭弁は認めません」
「じゃ二と八割」
「表現を変えても値は同じ」
「痛みって小数まで正確?」
「あなたが言い始めた」
「二」
「減った理由」
「怒られたから」
「痛覚は叱責で減りません」
「意識がそっちへ」
「それは治癒ではない」
「行って戻るまで三にしない」
「約束に身体を従わせないで」
エリアの声が低くなる。
ハルは羅針盤の蓋へ親指を置き、弾かない。
「三になったら言う」
「戻る」
「言って、戻る」
「順番を逆に」
「三になったら、戻るって言って戻る」
「今、具体的に頼みます。痛み三で、私の所へ戻って」
ハルは冗談を探す。
恐怖が増えると冗談が増える。
しかしエリアの淡緑の目が、冗談を受け取る余白を残していない。
「分かった」
「軽い」
「戻る」
「記録」とセレナ。
「私的で」と二人同時。
カイルが笑う。
「息が合ってるな」
「王太子殿下」とセレナ。
「罪状を長くするな。黙る」
「賢明です」
伸縮橋は、上層六号車の後端から七号車前部へ斜めに伸びている。
七号車は三組の連結器へ吊られ、左右へ振れていた。
振幅、九メートル。
周期、十一秒。
橋を渡るには、七号車が上層列車へ最も近づく三秒間を使う。
その三秒ごとに、重力継目が橋の中央を移動する。
「最初の目的地は中央継目手前」とイヴァ。
両手を拘束されたまま、床へ座る。
トランジットはテトが持っている。大きすぎて、少年の肩から柄が二本飛び出す。
「目的地、細かすぎ」とハル。
「細かく分ける。次の停車を一つにすると、途中の変化を無視する」
「俺がいつもやるやつ」
「自覚があるなら直せ」
「一回で?」
「完成したと思うな」
「同じ台詞返された」
「共有語だ」
イヴァはテトへ指示する。
「第一印。対象、橋上の右手索。条件、渡行者が中央継目手前の黄鋲へ触れるまで、索の上下振れを保留」
「乗客の目的地を含めない」とセレナ。
「含めない」
「橋自体は止めない」
「止めない」
「承認」
テトがトランジットを開こうとする。
刃は重い。
右足で柄を押さえ、左手で上刃を引く。
「車掌道具、見習いに重すぎません?」
「私も見習いの時に持った」
「師匠は背が高いです」
「師匠ではない」
「イヴァさんは十五歳で何センチでした」
「一七二」
「不公平!」
「成長は運行規則で配れない」
「そこだけ自然へ責任を逃がした!」
ロロの補助腕が上刃を支える。
「今だけ貸し一ルク」
「一ルク取るんですか」
「無料で助けると、次も頼んでいいか分からなくなる。払え」
「高い工具持ってるのに細かい」
「高い工具持ってるから細かい!」
かちん。
青い切符印が右手索へ入る。
ハルは橋へ足を出す。
「一、二、三」
「数えるなとは言わねえが、三で飛ぶなよ!」ロロ。
「歩く」
「本当に?」
「信用ない」
「実績がある!」
第一歩。
橋は前へ走りながら、下へ振れる。
第二歩。
風が赤いマフラーを引く。
第三歩。
七号車が近づく。
「今、三秒!」テト。
ハルは走らない。
身体が走る速度を欲しがる。
短い間に多く進むには、速く動けばよい。彼が十五年で覚えた、最も簡単な解決だった。
しかし橋は速い足を受け止めない。
一歩ごとに荷重を返し、次の鋼節が受け取るまで待つ。
ハルは配送で重い箱を古い木階段へ運んだ時の歩き方を思い出す。
段板へ体重を預ける前に、きしみを聞く。
橋は地図ではない。
足裏へ返す音で道を説明する。
「五歩、右節正常」とロロ。
「六、外周へ二センチ」とエリア。
「七、雷鐘まで四」とテト。
「人の歩数を全員で実況しないで」
「喋るな!」
「みんな喋ってる!」
「お前は息を残せ!」
雷鐘。
暗転。
橋中央の重力継目が横へずれる。
ハルの足は橋上。
身体は七号車側へ落ちる。
右手索だけが、黄鋲へ触れるまで上下振れを保留している。
彼は索を握り、身体を九十度回す。
壁を歩く形になる。
下に七号車。
横にブラック・ライン。
上に雷雲。
どれも正しく、どれも一時的。
「黄鋲!」
エリアの声。
暗闇の中、路図の淡い点だけが見える。
ハルは右手を伸ばす。
指が黄鋲へ触れる。
停止標が消え、索の振れが一気に戻る。
身体が橋上へ叩きつけられる。
「痛み!」
「二・九!」
「増えた!」
「三じゃない!」
「交渉するな!」
光が戻る。
中央を越えた。
七号車まで十一メートル。
ノクスが先で待っている。
二本尾を別々の足場へ置き、どちらが安全か決めていない。
「どっち」とハル。
「ナァ」
「分からないって」
ノクスはハルの右手へ噛みつく。
「違った!」
「勝手に翻訳するからです」とセレナの声。
「橋の向こうまで聞こえるの」
「耳管です」
「便利な時だけ法が近い」
第二停止印は、橋の下層端だった。
「条件、七号車受け金が次の最大接近を終えるまで、橋端を外さない」とイヴァ。
「『最大接近』を誰が判定」とセレナ。
「エリアの距離測定」
「一人の能力へ依存」
「テトの車輪拍を補助」
「二系統。承認」
テトがトランジットを閉じる。
かちん。
青い印が橋端へ走る。
七号車が遠ざかる。
橋は伸びる。
二十七メートル。
二十八。
二十九。
「設計限界!」ロロ。
「まだ離れる!」
「中央筒へ冷却!」
エリアが路図で冷却弁まで線を送る。
ロロの補助腕が遠隔紐を引く。
白い蒸気がハルの顔を覆う。
「前見えない!」
「見るな、足で読め!」
「いつもやってる!」
「こういう時だけ向いてるの腹立つ!」
ハルは橋の段差を足裏で覚える。
一節目、平ら。
二節目、右へ膨張。
三節目、中央に細い亀裂。
亀裂を避け、右手で索を送る。
七号車が戻ってくる。
「接近三秒!」
ハルは最後の三メートルを歩く。
走らない。
足元が今にも離れる。
目の前に、七号車の外壁。
窓格子から赤い手袋が出る。
「手を!」
サナ。
ハルは右手を伸ばす。
届かない。
二人の間、四十センチ。
「跳ぶな!」ロロ。
「聞こえてる!」
七号車が最大接近へ入る。
停止印が橋端を保つ。
四十センチが三十。
二十。
サナの左手は中指と薬指が完全に曲がらない。
つかめる指は三本。
ハルの右手が届く。
三本と五本が組む。
「今!」
サナが引く。
ハルは跳ばない。
橋から七号車へ、一歩だけ移る。
靴底が外壁の保守鋲へ乗る。
重力が変わる。
彼の身体は窓へ横倒しになる。
サナが襟をつかみ、格子内へ引き込む。
赤いマフラーが最後に入る。
最大接近が終わり、橋端の印が消える。
七号車は遠ざかる。
「到着!」とテト。
「次の停車、七号車」とイヴァ。
その声は耳管の向こう。
自分が決めた駅へ、彼女自身は行けない。
七号車の中は、上下が二つあった。
元の床へ固定された寝台。
逆重力へ備え、天井へ追加された網棚と手すり。
車両が下層線へ入った時、床は壁になった。囚人たちは拘束具のまま転がり、護送員は天井側の保安席へ落ちた。サナは患者の手術台を元の天井へ縛り直した。
今は三組の連結器に吊られ、重力が中央へ寄っている。
床でも天井でもない、窓側が下だった。
人々は格子、寝台、革帯へ身体をつないでいる。
十八人の収容者。
四人の護送員。
一人の医師。
そして、収容者でもある一人の患者。
二十四人。
数だけなら、一行で終わる。
生活は一行にならない。
割れた眼鏡を片目へ押し当てる老女。
拘束輪の鎖を布で巻き、隣の手首を傷つけないようにした青年。
護送員の槍を奪いかけ、サナに短棒で手を叩かれた大男。
自分の食事を患者の輸血袋の下へ置き、温度を保っている少女。
震える護送員へ水を渡す政治囚。
その政治囚を罵る強盗。
同じ車両へ乗ったから、同じ物語にはならない。
「肩を見せろ」
サナがハルの胸帯を外す。
「患者がいる」
「増やすなと言った」
「増えてない」
「痛み」
「二・九」
「馬鹿の小数は切り上げる。三」
「三になったら戻る約束」
「戻れ」
「今着いた」
「戻るために来たんだろ」
「違う。助けに」
「目的だけ言うな。手段」
「車両を安全な線へ移す。患者の行き先を聞く。みんなにも」
「最初よりまし」
サナは左肩を触診する。
甘い声を作らない。
「亜脱臼なし。筋挫傷。左腕は使うな。戻り橋で痛み四なら、橋上で止まらず七号車側へ戻れ。中間停止が一番危険」
「戻る方を先に決める?」
「選べる状態でない時は決める。戻った後に異議を聞く」
「異議」
「嫌だった、怖かった、別の方がよかった。全部聞く。医師が正しかったで閉じない」
サナは赤い手袋を替える。
使用済みを丸めず、表裏を分けて袋へ入れる。
処置具だけは几帳面だった。
「ユールは」
手術台。
三十一歳の男。
灰色の肌。胸へ圧迫布。右手の指だけが動く。
「話せる?」
「まだ。質問は一度に一つ。肯定一回、否定二回。分からないは握らない」
ハルは手術台の横へしゃがむ。
「俺、ハル」
右手が一回。
「聞こえる?」
一回。
「本線の五号車へ戻りたい?」
二回。
「最寄りの救護院?」
二回。
「王都中央院?」
二回。
「決めたくない?」
手は動かない。
「質問が違う」とサナ。
「何が」
「決めたくないのか、決められないのか、今決めたくないのかを一つにした」
「正確に」
「そうだ」
ハルは聞き直す。
「今、行き先を決めないでいたい?」
一回。
「分かった」
「それで終わるな」とサナ。
「保留の間、安全な所が要る」
一回。
「そこを作る」
右手が一度、弱く握る。
約束の匂いをノクスが嗅ぐ。
二本尾は同じ方向を向かない。
ハルの「作る」が、まだ具体的でないからだ。
「ノクスも疑ってる」とハル。
「ナァ」
「勝手に訳すな」と車内の三人が言った。
「増えた」