第424話 第八章「伸びる橋」後編
大男が近づいた。
片手の拘束輪を外している。
太い腕。鼻梁の古傷。護送服から奪った革帯を腰へ巻き、そこへ折れた槍頭を差している。
「バスク・ドレン」
自分で名乗る。
「強盗」とハル。
「名前より罪状を先に覚えたか」
「通信で自分で言った」
「なら公平だ」
バスクは笑う。
「戻る話をしてるらしいな」
「まだ、どこへ行くか聞いてる」
「本線へ戻せば、俺は収容八号車。次の審査まで二年」
「罪をやった?」
「武装輸送車を三台襲った。二台は食料、一台は酒だ。食料は村へ配った。酒は俺が飲んだ」
「善人の話へ整えないんだ」
「酒がうまかった」
「じゃ、逃げたい?」
「逃げたい。だが患者を盾にして逃げたと言われるのは嫌だ」
「嫌だから逃げない?」
「逃げる方法を変える」
「それ、やっぱり逃げる」
「言葉が正確だな、小僧」
別の男が近づく。
痩せた身体。左頬へ印刷インクの染み。拘束輪の鎖へ、紙片を何枚も折って挟んでいる。
「オル・ケド。線路工組合書記」
「政治屋」とバスク。
「強盗」
「名で呼べ」
「先に言ったのはお前だ」
「俺は自分で言った」
「では、飲酒を伴う再分配事業者」
「悪化した!」
車内に笑いが起きる。
笑えることと、安全であることは違う。
しかし呼吸が揃う。
「私は公開法廷へ行く」とオル。「戻るなら、ブラック・ラインのままではない。走り続ける監獄へ戻れば、また管轄が追いつかない」
「公開法廷、どこ」
「雷鎖中央法島」
「そこまで列車を」
「中央法島はブラック・ラインの停車を拒む。停車すれば収容局が囚人を下ろさず、法島は列車へ乗れと言う」
「裁判所が列車に乗ればいい」
「前例がない」
「前例がないって、できない?」
「できると困る者が多い」
護送員の一人が口を挟む。
「収容者の要求を聞くな。暴動中だ」
名札はディン・ロア。
二十代前半。額へ切り傷。右手は拘束索を握りすぎて白い。
「暴動って、誰が始めた」とハル。
「分岐直後、後部区画の鍵が開いた。バスクが槍を奪った」
「患者を固定するためだ」とバスク。
「護送員を殴った」
「俺を撃とうとした」
「警告射撃だ」
「車内で雷弾を撃ったら警告より先に全員焼ける」
「命令に従った」
「誰の」
ディンが黙る。
命令者名を言えないのか、命令そのものが自動だったのか。
ハルは今、犯人を決めない。
「戻りたい?」
護送員へ聞く。
「任務へ戻る」
「場所」
「本線」
「任務じゃなく、あんたは」
「護送員だ」
「名前はディン・ロア」
セレナが耳管越しに言う。
名簿から復元した。
「役じゃなく、ディンはどこへ行きたい」
「……負傷者を引き渡し、報告へ」
「どこで報告」
「運行局」
「本線じゃなくても行ける?」
「規則上は」
「規則の外で、行ける?」
ディンは答えない。
行き先を他人に決められること〈チケット・ロスト〉は、囚人だけの言葉ではない。
任務へ自分の希望を隠した乗務員も、切符を失う。
「全員に聞く」とハル。
「時間がない」とサナ。
「じゃ選択肢を作って、一人ずつ選ぶ」
「選択肢を誰が決める」とオル。
「一緒に」
「一緒という語で多数決へするな」
「しない」
「どうやって」
「分からない」
「分からないのに約束したか」
「分からないから聞く」
オルは紙片を指で折る。
「正直な無計画は、計画された嘘より安全とは限らない」
「うん」
「反論しないのか」
「その通りだから」
「では何を持ってきた」
ハルは配達鞄を開く。
各地の端の石。
古い切符。
白環杯の欠けた抽選球。
翼鯨の小さな鱗。
翠獣環の種。
鏡砂の白い縁片。
「帰る場所?」と車内の少女。
「戻れた場所。戻らなかった場所もある」
「何の役に立つ」
「今は、重い」
「本当に無計画だな」とオル。
「橋の荷重を増やした」とロロの声。
「聞こえてる?」
「耳管切れ!」
ハルは鞄をサナへ預ける。
「戻る時、持ってて」
「戻る前提にするな」
「戻る約束した」
「約束で肩は治らない」
「知ってる」
サナは鞄を手術台の下へ固定する。
「預かり票は」
耳管からイヴァ。
「今それ言う?」とハル。
「物を受け取れば記録を返す」
サナが救護布を一枚破り、穴を開ける。
「預かり。赤い鞄一。中身、石多数。価値不明。返却、本人が戻った時」
「本人が戻れない時」とイヴァ。
「本人が指定した者へ」
「誰」
ハルはエリアを見る。
耳管の向こうにいる。
「エリア」
エリアの呼吸が一拍止まる。
「今、遺言みたいにしないで」
「返却先」
「あなたが戻って受け取る」
「保留?」
「拒否です」
「じゃ戻る」
「身体を約束へ――」
「分かってる。戻るために無茶しない」
エリアは返事をしない。
路図の線が、橋上のハルの位置へ一度だけ明るくなる。
返事の代わり。
七号車が支柱群へ近づく。
振り幅十一メートル。
「衝突まで二分!」テト。
「振り子を減らす」とロロ。「車内荷重を反対へ移せ!」
「何人」とサナ。
「人数じゃない。総重量!」
囚人の身体、護送具、手術台、鉄箱。
車内の荷重を左右へ移せば、振り子の周期を変えられる。
「全員、三角旗側!」テト。
窓へ三角模様。
人々が動く。
「バスク、手術台!」サナ。
「命令料を取るぞ!」
「生きたら払え!」
「医療費より高くする!」
「共同診療所へ請求しろ!」
バスクが片腕で手術台を押す。
オルとディンが反対側の鉄箱を動かす。
敵対する者同士が、同じ車体の揺れを減らす。
協力したから和解したのではない。
同じ目的へ一分だけ乗り換えた。
「振幅九!」エリア。
「次、丸旗側!」
テトが旗を替える。
色覚差を隠して採用された少年の模様信号が、雷光で色を失った車内を導く。
人々が反対へ移る。
「七!」
「もう一回!」
ハルも荷重移動へ加わる。
左腕は使わない。
右肩で鉄箱を押す。
ノクスが箱の上へ乗る。
「お前、増やしてる!」
「ノゥ」
「降りろ!」
ノクスは箱から手術台へ飛び、サナの赤い手袋を一枚くわえる。
「それ返せ!」
追いかける人の移動で、さらに荷重が変わる。
「ノクスの方が正しい位置!」ロロ。
「追うな! 全員、夜獣側へ!」
「救難生物みたい」とハル。
「本人は手袋泥棒だ!」サナ。
振幅五メートル。
支柱を一本かわす。
次の支柱。
「高さが違う!」エリア。
七号車の屋根が支柱梁へ当たる。
カイルの王盾炎が上層から伸びる。
深紅の盾が、車両側面と梁の間へ滑り込む。
「守るのは七号車一、支柱は守らない!」
「支柱を壊すの?」ハル。
「荷重を受けたら外へ逃がす!」
盾へ衝撃。
カイルの背中の火傷が熱を持つ。
「痛み、四! 左膝二!」
「盾を縮小」とセレナ。
「あと一拍!」
「一拍後に解除!」
「承認!」
盾が梁を外へ弾く。
支柱上部だけが折れ、下層へ落ちる。
七号車はかすり傷で通過。
カイルは膝をつく。
冗談が食べ物へ寄る。
「苺が食いたい」
「恐怖反応」とセレナ。
「記録するな」
「低血糖予防も兼ねます」
セレナは証拠用非常食を一枚渡す。
「主犯へ渡した」とハル。
「緊急使用です」
ノクスが耳管の向こうで鳴く。
「共犯が怒ってる」
支柱群を抜けても、線路は戻らない。
七号車は吊られたまま。
次の上層合流器まで十五分。
そこへ入れば、車両は本線へ戻せる。
グラドが放送する。
『七号車乗員へ。上層本線への復帰準備を行う。武器を捨て、拘束位置へ戻れ。従わない場合、制動射撃を行う』
車内の空気が固くなる。
ディンが護送槍を握る。
バスクは折れた槍頭を抜く。
オルは紙片を鎖から外す。
サナが二人の間へ立つ。
「患者の横で殺し合うな」
「本線へ戻れば、今度こそ殺される」とオル。
「裁判がある」とディン。
「この列車は裁判所へ止まらない」
「命令へ従え」
「誰の」
「収容局」
「収容局が死亡名簿を消した」
「俺は知らない」
「知らず運んだ責任はないのか」
「ある。だから報告へ戻る」
「報告した後、また運ぶ」
「辞めれば家族が」
ディンの言葉が止まる。
役職の下から、個人の事情が一瞬出る。
オルはそこを攻撃しない。
「なら、お前も戻る場所を選べていない」
「黙れ」
「黙らない」
ハルが二人の間へ立つ。
「本線へ戻りたい人」
護送員四人のうち三人。
囚人二人。
「戻りたくない人」
囚人の大半。
護送員一人は手を上げない。
「決めてない人」
ユールの右手。
少女。
護送員一人。
バスクも上げない。
「逃げたいんじゃないの」とハル。
「選択肢が『本線』『空へ落ちる』なら、逃げるを選ぶ。三つ目があるなら聞く」
「三つ目を作る」
「いつ」
「十五分で」
「無計画が成長してない」
「今回は時間がある」
「十五分を時間があると言う奴は車掌になれない」とイヴァ。
耳管から声。
「じゃ手伝って」
「本線へ戻す」
車内から怒号。
「戻さない!」
「戻せば患者を五号車へ移せる」
「五号車に設備はない」とサナ。
「次の救護院へ」
「ユールが拒否した」
「意識が不安定な患者の拒否へ全員を従わせるのか」
「全員じゃない。ユールだけ」
「他の収容者は拘束へ戻る」
「聞いた?」
ハルが言う。
「収容者の行き先は裁判が決める」
「この列車、裁判へ止まらない」
「法へ戻す」
「場所じゃなく役へ戻すの?」
「犯罪者だ」
「犯罪した人もいる。してないって言ってる人もいる。裁判してない人もいる。全部『戻す』で一緒?」
「救難と刑事責任を分ける」
「言ってることはセレナと同じ。でも行動は全員を同じ車両へ戻す」
イヴァの声が止まる。
「助けた後、どこへ行くか聞いた?」
連結器の熱を調べた時から胸へ残っていた問いが、車両の中へ戻る。
「聞けば、危険な者も自由を選ぶ」
「選んだ通りに全部するんじゃない。聞く」
「聞いて叶えられなければ」
「理由を説明する」
「説明で拘束は軽くならない」
「黙って決めるより、同じ?」
イヴァは答えない。
車内で、オルが放送口へ近づく。
「元主任車掌。私たちは本線へ戻らない」
バスクが続く。
「俺もだ。だが空へ落ちる気もない」
ディンが槍を構える。
「収容者の拒否は運行命令を変えない」
少女が小さく言う。
「私は、決めてない」
その声が一番小さい。
イヴァは聞き逃す。
左耳側の耳管から来たからだ。
「今、誰か言った」とハル。
「何を」
「決めてない」
少女がもう一度言う。
「私は決めてない。戻りたくないって決めてもない」
イヴァは耳管へ左耳を向ける。
「名は」
「ラナ・シェイ」
「行き先は」
「分からない」
「保留でいい」
「保留したら、どこにいるの」
質問へ、イヴァは答えられない。
彼女の能力は停止条件を刻める。
保留した人が待つ場所は作ってこなかった。
「本線へ戻る」とグラドの放送が重なる。「残り十二分。拒否者は制圧対象」
車内の囚人たちが扉を閉じる。
橋へ通じる外部窓も、内側から鉄板で塞ぐ。
サナは止めない。
「医療区画は開けておけ!」とだけ言う。
ハルは閉じる扉の前へ立つ。
「俺はこっちにいる」
「戻れ」とエリア。
「痛み三になってない」
「車両ごと本線へ戻らない可能性が出た」
「だから、こっちで道を作る」
「一人で」
「ノクスも」
「ノゥ」
「人数へ入れていい?」
ノクスはハルの耳を噛む。
「二人」
エリアは三つ編みの地図針へ触れる。
「次の連絡まで三分。三分で案が出なければ、私が渡る」
「橋は一人ずつ」とロロ。
「ならハルを戻して交代」
「俺、荷物?」
「現在位置を交換する対象」
「人」
「人として戻って」
ハルは返事をする。
「三分」
「期限です」
「分かった」
橋の向こうで、イヴァのトランジットが鳴る。
かちん。
しかし七号車の扉は開かない。
一括した帰還を拒んだ七号車には、行き先の違う二十四人が残った。