第428話 第十章「八秒の複線」後編

「二段目まで九十秒!」

 テトの声が裏返る。

 雷鳴が来る。

 彼の身体が一瞬固まる。

 右足甲の古い枝状痕が、靴の中で熱を持つ。

「テト」とイヴァ。

「驚いただけです!」

「怖いと言え」

「次は――強雷、停車しません!」

「案内で逃げるな」

「怖いです!」

「役割を続けられるか」

「続けます。色じゃなく、音で読みます!」

「撤退条件」

「三回続けて合図を間違えたら、ロロへ渡す!」

「承認」

 恐怖を否定しない。

 恐怖へ仕事の終わりを付ける。

 テトは帽子の鍔を二度叩く。

「次は――八秒複線、臨時停車!」

 上層ブラック・ラインが迫る。

 十一両の窓が、連続する黒い壁になる。

 七号車は下から逆向きに上がる。

 衝突まで、六十秒。

「ハル、エリア、出発」とイヴァ。

 二人は光路を走る。

 完成した道ではない。

 エリアが一歩先を測る。

 ハルがそこを踏み、返ってきた振動を言う。

「硬い!」

「硬度記録。次、右へ二十センチ!」

「風、左!」

「補正!」

「段差!」

「何センチ」

「足首の半分!」

「単位を!」

「六!」

「最初から数字で!」

 言い争いながら、道が伸びる。

 左肩の痛みは二・五。

 ハルは隠さない。

「肩、二・五!」

「維持。三で交代!」

「分かった!」

 二段目分岐台へ、最後の七メートル。

 雷が光路を切る。

 カイルの盾が飛ぶ。

「これで三枚目!」

「二・二五枚」とセレナ。

「計算が細かい!」

 盾は雷を受けず、固定鎖の破片が飛ぶ方向だけを覆う。

 守る対象を構造物から人へ限定する。

 王盾炎は小さい。

 その分、カイルへ返る痛みも絞られる。

「背中五!」

「王盾炎停止」とセレナ。

「あと一回!」

「停止」

「王命で」

「使わない約束です」

「分かってる!」

 カイルは籠手を閉じる。

 守れる力を持つ者が、守るために使わない。

 それもまた、身体を使う決断だった。

 ハルとエリアが分岐台へ着く。

 固定鎖は赤熱している。

 銅片が、補完位置へ噛んでいる。

「引けば?」ハル。

「荷重が掛かっています」とエリア。「今外せば舌が跳ねる」

「無荷重はいつ」

 ロロが叫ぶ。

『上層先頭が分岐を越える瞬間、七号車前連結器の引きが零になる。零・四秒だけ!』

「短い」

『長いと思え!』

「思うだけ?」

『手を速くしろ!』

 トランジットは、ハルたちの手元にない。

 四枚の票を穿った後、ロロ側へ渡されている。

 固定鎖を切る道具は、分岐台の手動刃。

 二本の柄を、左右から同時に下ろす必要がある。

「俺が右」

「あなたの右手は安全索へ」とエリア。

「左は使えない」

「私が両方?」

「届かない」

 イヴァの声が伝声管から来る。

「ハル。左肩で持つな。柄へ赤いマフラーを巻け」

「服を工具にするの二回目」

「何のための長さだ」

「格好」

「初めて役に立てろ」

「毎回役に立ってる!」

「巻?」

「気にしないで!」

 ハルはマフラーを左側の柄へ巻き、端を腰帯へ通す。

 左腕で引かない。

 身体全体を後ろへ倒し、脚で荷重を受ける。

 エリアが右柄。

「無荷重まで十五秒!」ロロ。

 上層列車の先頭が、頭上を通る。

 黒い車輪。

 雷を抱いた導輪。

 鉄の床を隔てて、囚人と職員がいる。

 七号車の人々は、その真下から逆方向へ近づく。

「十!」テト。

 模様旗が変わる。

 丸。

 縞。

 三角。

「九!」

 サナが最後の脈止めを使う。

「三十秒だけ私にくれ!」

 赤い手袋がユールの胸へ触れる。

 傷の悪化が止まる。

 治ったのではない。

 出血が待たされる。

 待たされた悪化は、三十秒後に利息をつけて戻る。

「八!」

 ロロが三組の伸縮連結器を横へ広げる。

 鋼節が平行へ並ぶ。

 本線の一時的な二本目。

「七!」

 車内で、ディンとバスクが車輪架へ停止票を固定する。

「前部承認!」

「後部承認!」

「六!」

 ラナが検査台票を胸へ抱える。

「保留、承認!」

「五!」

 エリアが光路を検査台へ接続する。

「測定済み区間、七十六パーセント。残りは車輪接触で更新!」

「四!」

 イヴァの心臓が一拍抜ける。

 視界の端が暗くなる。

 両手は拘束されている。

 自分では何も操作できない。

 怖い。

 失敗した時、自分の手で直せない。

 その怖さこそ、今まで他人へ操作権を渡さなかった理由だった。

「三!」

 ハルがイヴァを見る。

「行き先」

「何」

「今のイヴァ」

「ここだ」

「ここで何する」

「見る」

「それだけ?」

「任せる」

「二!」

 イヴァは初めて、鋏を鳴らさずに命じた。

「切れ!」

「一!」

 上層先頭車が分岐を越える。

 固定鎖の荷重が、零になる。

 零・四秒。

 エリアが右柄を下ろす。

 ハルが後ろへ倒れる。

 赤いマフラーが左柄を引く。

 手動刃が閉じる。

 銅片が割れる。

 固定鎖が切れる。

 カイルの最後の小盾が、飛散片だけを横へ弾く。

「今!」

 分岐舌が検査台へ開く。

 七号車の第一車輪が、伸縮橋で作った仮レールへ乗る。

 八秒が始まる。

 一。

 上層ブラック・ラインの二号車が頭上を通過。

 七号車は、その下へ滑り込む。

 前方橋の停止票が青く光る。

「接続維持!」エリア。

 二。

 車体が横へ傾く。

 内部の人々が、選んだ荷重位置へ動く。

「救護区画、中央!」サナ。

「前部二人、右!」ディン。

「後部、俺へ寄せろ!」バスク。

 三。

 ロロの一号補助腕が焦げる。

『請求!』

「生きてから!」ハル。

『だから今記録してんだ!』

 後方橋の温度、八十三。

 四。

 上層七号位置――本来七号車があるべき空白――が、下層七号車の真上を通る。

 同じ編成の、同じ番号の場所。

 列車は、自分の欠けた部分とすれ違う。

 窓のない空白と、二十四人のいる車両。

 表示上は、どちらも一つだった。

 五。

 テトが雷音を聞く。

「次は――逆風、右から二拍!」

 旗を三角へ。

 七号車が右へ振れる。

 エリアの光路が二十センチずれる。

「補正!」

 ハルが分岐台の手動輪を蹴る。

 車輪舌が追従する。

 左肩の痛み、三。

「肩三!」

「交代!」エリア。

「今離せない!」

「頼んで!」

 ハルは歯を食いしばる。

「エリア、手動輪、頼む!」

「承認!」

 エリアが槍柄で輪を受け取る。

 ハルは一歩下がる。

 戻ることは、負けではない。

 六。

 サナの脈止め、残り十二秒。

 ユールの指が動く。

 一回。

 肯定か、反射か。

 サナは勝手に意味を決めない。

「聞こえてるなら、今は呼吸だけしろ。行き先は後だ!」

 七。

 第一車輪が検査台へ乗る。

 前方橋の条件が終わる。

「前端解除!」エリア。

 伸縮橋が縮み、上層列車の後ろへ戻る。

 後方橋が七号車を引く。

 温度、八十九。

『あと一度!』ロロ。

 八。

 最後車輪が旧保守線を離れる。

 バスクとディンの票が同時に光る。

「後部通過!」

『九十! 切る!』

 ロロが後方伸縮器を非常解放する。

 鋼節が千切れる前に、接続爪だけが外れる。

 七号車は、ブラック・ラインから離れた。

 自由になったのではない。

 検査台の受け腕へ落ちる。

 ごうん。

 車体全体が一度跳ねる。

 ラナの検査台票が青く燃え、落下を「次の確認まで」の一瞬へ分ける。

 ロロの機械腕。

 エリアの光路。

 テトの信号。

 ディンとバスクの車輪票。

 サナの固定。

 別々の手が、跳ねる力を順番に受け取る。

 検査台が沈む。

 三メートル。

 二メートル。

 一。

 止まる。

 列車は止めていない。

 車両を、選び直せる場所へ載せただけだった。

 上層ブラック・ラインの最後尾が、頭上を通過する。

 衝突しない。

 雷雲の中へ、十一両の牢獄が遠ざかる。

 七号車だけが、地図から消えた検査台へ残る。

「患者!」イヴァ。

『保留解除、反動!』サナ。

 傷が時間を取り戻す。

 ユールの胸部出血が一気に増える。

「輸血二! 圧迫! 救護艇まで何秒!」

「一号艇、四十七秒!」テト。

「長い!」

「二号艇、六十一!」

「もっと長い!」

「サナ」とイヴァ。

『話すな、数えろ!』

 イヴァは拘束された手を胸へ当てる。

 自分の不整脈ではない。

 ユールの処置拍を、車輪音の代わりに数える。

「一、圧迫。二、送血。三、止血具」

 テトが笛で拍を取る。

 ロロが検査台の旧電源を起こす。

 エリアが救護艇の接近路を描く。

 カイルは盾を使わず、自分の身体で担架固定索を引く。

 ハルは左腕を帯へ入れ、右手だけで扉を開ける。

 セレナは証拠札を一枚、医療記録へ回す。

 誰も英雄にならない。

 英雄がいなくても、四十七秒は進む。

「一号艇、接続!」

 救護員が飛び込む。

 サナは患者を渡さない。

「受け入れ先は」

「雷鎖共同救護院、身分照会後――」

「照会後じゃ遅い」

「規則です」

「患者名、ユール・ナハト。現在、行き先保留。救命処置のみ代理同意。刑事照会は処置後。復唱」

「ユール・ナハト。行き先保留。救命処置先行」

「料金保証」

「未確認」

「共同診療基金へ請求。足りなければ私へ」

 イヴァが口を挟む。

「私の没収口座を」

「犯罪収益扱いです」とセレナ。

「給料だ」

「法的確認が必要」

「面倒だな!」サナ。

「面倒で患者を止めません。仮払証を出します」

 セレナが羽根札を穿つ。

 救護艇がユールを受け取る。

 本人の行き先は決めない。

 身体を、生きて選べる時間へ運ぶ。

 その違いを、全員が言葉にした。

 検査台へ全員が移った後、セレナはイヴァの前へ立った。

「拘束を外しますか」とハル。

「外さないで」とイヴァ。

「もう衝突しない」

「私は違法起動を認めた」

「救った」

「それも認める」

「両方」

「両方だ」

 イヴァは検査台の端から、遠ざかるブラック・ラインを見る。

 昔なら、車両を安全へ載せた時点で次の行き先を放送した。

 今は言わない。

 ラナへ向く。

「次の停車は」

 息を飲む。

 いつもの文句を、途中で止める。

「……どこにする」

「まだ決めない」

「保留、確認」

「明日また聞いて」

「聞く」

 バスクへ。

「救護港の施錠区画。拘束方法は別審査」

「分けて覚えてたな」

「切符へ穿った」

 オルへ。

「公開法廷。記録を持ったまま」

「あなたも来るか」

「被告として」

「証人でもある」

「別々に座る」

 ディンへ。

「本線指揮車へ戻るか」

 護送員は、遠ざかった十一両を見る。

「戻れない」

「なら」

「公開法廷。報告する。俺の職務違反も」

「承認」

 イヴァは鋏を鳴らせない。

 両手が拘束されている。

 代わりにテトが、小さな見習い鋏を鳴らす。

 かちん。

「次の停車は、公開審査」と少年は言う。

「勝手に全員を入れるな」とイヴァ。

「師匠が言わないので」

「師匠ではない」

「元師匠?」

「お前を教えた覚えはない」

「記録映像で習いました」

「最悪の生徒だ」

「褒め言葉として保存します」

 イヴァは、ほんのわずかに笑った。

 すぐ、セレナへ両手を差し出し直す。

「移送を」

「行き先は」とセレナ。

「公開法廷」

「条件」

「救命行為、違法起動、第二条件改変、収容制度を別件として審査。私を無罪英雄へしない。囚人番号で呼ばない」

「記録しました」

「ハル」

「何」

「操作を返せ」

「鋏?」

「まだ返すな」

「どっち」

「訂正する。法廷まで、セレナが保管」

 自分の道具を、自分へ戻さない。

 イヴァ・レイルは拘束されたまま、救った車両の前へ立った。

 次の停車を、今度は一人で決めなかった。