第434話 第一章「駅名のない切符」後編
「手伝って!」
ハルが叫ぶ。
具体的な役割ではない。
エリアの眉が上がる。
「何を!」
「左肩を使わず帆を畳む!」
「カイル、索を保持。ロロ、右滑車。ハルは足場だけ!」
「役割、増えた!」
「助けを求めた責任です!」
カイルの盾膜が索を支える。
ロロの補助腕二本が右滑車を回し、一本がハルの腰帯を掴み、最後の一本が請求札を甲板へ貼った。
「今それ要る?」
「作業は記録だ!」
片帆が四分の一へ畳まれる。
船は列車の誘導電流へ乗り、鎖島の腹を滑った。
白雷が頭上――つまり島側――を走る。
黒い列車の窓が一両ずつ光る。
中の十九人が、転倒防止帯へぶら下がっている。進行方向へ向くという列車の常識は、上下が固定されている時だけの贅沢だった。
灯が七つ続いた。
八つ目が消える。
前方に、隙間。
線路がない。
代わりに雷が鳴った瞬間だけ、複数の荷役台が空中へ現れた。
一枚目は島の腹。
二枚目は雲の中。
三枚目は証拠列車の下。
雷が消えると、台も闇へ戻る。
「実体はあります」とエリア。「表面灯が雷を反射しているだけ」
「見えない実体は、ないのと何が違う?」ハル。
「ぶつかる点」
「説得力」
証拠列車は一枚目の台へ車輪を置き、二枚目へ移る。
ゼロスター号は台の間を飛ぶ。
だが三枚目の位置がずれた。
「荷役台が動いた!」テト。
「違う、空き車両へ接続し直した!」イヴァ。
古い線路は駅へ向かっていない。
その時、使える設備へ向かっている。
ハルの耳へ、別の音が届いた。
車輪ではない。
鍋の蓋。
小さな靴。
誰かが床へ箒を当てる音。
「人がいる」
「どこ」とエリア。
「次の台」
「見えません」
「音がする」
ハルは船首へ走る。
左肩を回しかけ、止める。
ノクスが先に船縁へ出た。
二本尾が同じ方向を指す。
雷が鳴る。
荷役台が白く浮かぶ。
そこには洗濯物が干されていた。
機関布ではない。
小さな靴下。
色の違う上着。
何度も繕われた毛布。
台の奥に、窓がある。
窓の中で、子供が一人、こちらを見ていた。
銅の留め具を髪へ四つ付けた、小柄な少女。
窓へ何かを書く。
白い石筆。
『とまる?』
テトが帽子の鍔を二度叩いた。
「次の停車は」
イヴァが彼を見る。
「言え」とテト。
少女へではない。
自分たちへでもない。
行き先を決める権限を持つ全員へ向けている。
証拠列車からグラドの声。
『列車側、停車を希望。ただし制動支点がない』
カイル。
「ゼロスター号、接触調査を希望。強制上陸はしない」
セレナ。
「事件証拠と安全上の必要を確認。住民の同意を得るまで位置記録を封印」
エリア。
「測定はします。公開は別に決める」
ロロ。
「止まらねえと連結器がもたねえ。修理費の都合で希望」
ノクス。
「ナァ」
ハルは窓の少女を見る。
「そっちは?」
声は届かない。
少女は文字を消した。
次に、大きく書く。
『まって』
「保留」とハル。
イヴァは、改札鋏を鳴らさない。
封印箱の中へ目をやり、右手の震えを左手で押さえた。
「列車、低速維持。船、接触距離外。向こうの返事を待つ」
「制動支点は」とグラド。
「保守台の外縁へ予備磁靴がある。テト、形を読め」
「丸二つ、縦線一本!」
「赤か」
「色だけで聞かないでください。点滅は短長短。使用可です!」
色覚差を欠点とした中央試験が、この闇では役に立たない。
形と音を読む少年の方が、古い線路を正確に見た。
証拠列車の磁靴が荷役台へ降りる。
火花。
十一両がゆっくり止まる。
ゼロスター号は台から五メートル離れて浮いた。
窓の少女が消える。
停止しただけでは、ホームへ渡れなかった。
証拠列車の自動渡り板が半分だけ伸び、金属音を立てて戻る。
『接続先駅名 未登録』
『接続先旅客 零』
『無人資産接触手順へ移行』
細い作業爪が、扉の施錠部へ向いた。
「止めろ!」ハル。
テトが緊急札を叩く。
爪が止まる。
「無人だから、許可なしで開けるつもりだった」とテト。
「人が見えてたのに」とハル。
「自動機は窓を見ません。台帳を見ます」
「じゃ、台帳が目?」
「目より強い命令です」
セレナが証拠列車へ通信する。
「無人資産手順を中止。接触先に意思表示可能な生活者を視認。扉への強制作業を禁じます」
『法的分類は無人設備』
「視認事実を優先」
『責任者署名を』
「星律官セレナ・クロウ」
『所在地記録を開始』
「所在地は封印」
『標準手順外』
「標準手順が人を見落としています」
端末が沈黙する。
機械が反論を考えているのではない。
想定外の文章を入れる欄がないだけだった。
その間に、荷役台の奥から音が来た。
こん。
こん、こん。
こん。
テトが帽子を押さえる。
「保守員の手信号です。単独接近。金属武器を下げる。記録灯を覆う」
「全部、三つの音で?」ハル。
「間隔です。最初が人数、次が装備、最後が記録」
「間違えたら」
「向こうが扉を閉めます」
「安全な仕組み」
「信用されていない仕組みです」
カイルが王盾炎を消す。
盾型籠手は外さない。
「身体の一部みたいなものだ」
「義足と同じ?」ハル。
「俺の籠手は税金が高い」
「違いが価格」
「王家の装備はだいたいそうだ」
エリアはグリムリリーを槍から日傘へ戻す。開かず、柄を下へ向ける。
ロロは四本の補助腕を作業上着の背へ畳んだ。
「工具まで下げたら、落ちた時に死ぬぞ」
「一本だけ」とテト。
「どれ」
「切る工具じゃなく、締める工具」
「思想で工具を選ぶな」
「向こうの条件です」
ロロは小さな締結鍵だけを一本、左手へ残す。
セレナは証羽を伏せ、単眼鏡の記録晶を布で覆う。
「視認記憶は残る」とハル。
「人の記憶を止めることはできません。公開と複製を止めます」
「ノクスは」
二本尾の夜獣が自分から船首へ下がった。
「一人に数える?」
「本人へ聞いて」とエリア。
「ノクス、行く?」
「ノゥ」
「待つ?」
「ナァ」
「今日は分かりやすい」
「都合よく訳していない?」
「信用は保留」
ハルが船縁へ足を置く。
自動渡り板は使えない。
荷役台との間、五メートル。
「跳ぶな」とイヴァ。
「まだ跳んでない」
「顔が跳んだ」
「顔の証言能力、この一件で高すぎない?」
「待てと書かれた」
ハルは窓を見る。
白い石筆の『まって』は消されていない。
「じゃ、待つ」
赤いマフラーが雷風へ引かれる。
一秒。
二秒。
三秒。
走るより長い。
ハルにとって待つとは、何もしないことではなかった。
誰かが自分の足場を作る時間を、奪わないことだった。
荷役台の下から、細い保守籠がせり出した。
人を運ぶ橋ではない。
工具箱を一つずつ渡すための小さな金属皿。
「これへ乗れって?」
「人を工具扱い」とロロ。
「向こうの台帳では、俺たちも無人設備かも」
「嫌なら待つ」とエリア。
ハルは皿を見た。
底には新しい布が敷かれている。
錆びた金属で足を切らないよう、誰かが今、置いた布だ。
「乗る」
「一人だけ」とイヴァ。
「俺が」
「理由」エリア。
「一番軽い」
「パルはいません」
「固定メンバーで」
「ロロ」
「工具込みなら俺が重い!」
「じゃ、俺」
「左肩」
「籠は立つだけ。跳ばない。手を上げない。危なくなったら戻る」
具体的な条件。
エリアは踵を二度鳴らした。
「三十秒。向こうが扉を開けなければ戻って」
「了解」
ハルが皿へ乗る。
保守籠は、滑車の音もなく動いた。
途中、台の継ぎ目を通る。
足元に、上下両側の擦り痕がある。
同じ通路を、重力が反転するたび、違う面を床として何年も歩いた痕。
薄い手形。
子供の靴跡。
寝台車輪の溝。
地図に駅名はなくても、鉄には生活が刻まれていた。
「エリア」
「何」
「床が二つある」
「見えています」
「人の跡も」
「公開記録は待って」
「分かってる」
ハルは台へ着く。
自動端末が壁から出た。
『無人資産へ接触。作業目的を選択』
修理。
回収。
封鎖。
廃棄。
会う、がない。
ハルはどれも押さない。
端末の余白へ、指で書く。
『話す』
『該当項目なし』
「作れ」
『権限なし』
「じゃ、未処理で残せ」
『未処理理由を入力』
ハルは書く。
『人がいる』
端末が、初めて長く止まった。
その記録がどこへ届くかは分からない。
だが廃棄を選ばなかった時刻だけは残る。
代わりに、錆びた扉が開いた。
短い鉄灰色の髪をした女が出てくる。
左手の小指がない。
分厚い作業前掛け。
右手には、槍でも銃でもなく、大型の締結レンチ。
「武装解除を」とセレナが言う。
「そっちが先だ」と女。
「私たちは武器を携帯していますが、現在構えていません」
「王子が盾を出してる」
「雷除けだ」とカイル。
「王家の雷除けは、下から見るとだいたい侵攻だ」
「王家へ苦情を」
「本人に言ってる」
「受付済み」
女は笑わない。
ハルたちを一人ずつ見る。
最後にイヴァへ視線が止まった。
「青い車掌」
イヴァの肩がわずかに固くなる。
「現在は被移送者、イヴァ・レイル」
「番号で呼ばれたくない女が、番号の穴を持ってきたか」
「この切符は、ここで見つけたものではない」
「知ってる。ここから出した」
全員の視線が銅の切符へ集まる。
女はレンチを肩へ載せた。
「名前は」ハルが聞く。
「今、必要か」
「呼ぶ時に」
「オルサ・レイ。選び直した名だ。古い記録へ照合するな」
「しません」とセレナ。
「即答する記録官は信用しない」
「信用は要求していません。条件を記録します」
「それが信用しにくい」
オルサはゼロスター号の船首を見た。
王家紋。
学院紋。
星律官の証羽。
封印箱。
「裁判所を連れてきたのか」
「行く途中」とハル。
「途中で裁判所になる連中が一番困る」
「駅を探してる」
「探すな」
「でもここに人が」
「見たなら、見なかったことにしろ」
雷が鳴った。
荷役台の奥へ灯が入る。
一つのホームだけではなかった。
島の腹と、列車の下と、逆さの桟橋へ、住居が重なっている。
布で区切られた寝床。
鍋を並べた厨房。
小さな机。
診療台。
人影。
四十七。
セレナは数えたが、羽根へ記録しなかった。
ホームの壁に、駅名標はない。
代わりに古い自動表示が点く。
『保守設備 第十三種』
『稼働荷重 二六八四』
『乗客 零』
子供が四人、その表示の下を走った。
老人が鍋を運んだ。
誰かが赤ん坊を抱いている。
乗客、零。
人間は四十七人いた。
数字は一人もいないと言った。
オルサ・レイは、締結レンチの先をハルへ向ける。
「ここは駅じゃない」
「じゃ、何」
「駅と呼ばれると困る場所だ」
証拠列車の機関が、停止後も低く鳴り続ける。
線路の灯は消えた。
戻る道も、まだ表示されない。
駅名のない切符は、行き先を示さず、そこへ彼らを運んだ。