第435話 第二章「逆さの保守線」前編
地図は、上から描かれる。
正確には、描く者が上だと思っている側から描かれる。
海図なら空から海面を見下ろし、都市図なら屋根を透かして道を見下ろす。王国の地図は王城を中央へ置き、辺境の地図は市場を中央へ置く。上とは重力方向ではなく、何を基準に世界を整理するかという権力の姿勢であった。
ゆえに、上下両側へ人が住む駅は、地図を二枚用意すれば済む問題ではない。
どちらを表と呼ぶかで、もう一方が裏になる。
裏と呼ばれた生活は、歴史上たいてい、次に削られる。
「靴を脱いで」
オルサ・レイが言った。
「歓迎の作法?」ハル。
「磁靴を履くためだ」
「歓迎は」
「落ちなかったら後で考える」
存在しない救難駅〈ゴースト・プラット〉の入口には、四十七足より多い靴が並んでいた。
大人用。
子供用。
左右の大きさが違うもの。
底へ鉄片を打ったもの。
片足だけのもの。
居住区では普段の靴を脱ぎ、保守線へ出る時だけ磁靴を履く。靴底の極性は白い縞が島側、黒い縞が雲側。色の見えにくい者のため、白側には横溝、黒側には縦溝が刻まれている。
テトがしゃがみ込む。
「中央の新式より分かりやすい」
「新式は色が鮮やかだ」とオルサ。
「鮮やかでも俺には同じ時があります」
「なら同じに見える設計が悪い」
返事が速い。
テトは帽子の鍔を二度叩いた。
「その意見、中央試験官へ録音していいですか」
「私の名を付けるな」
「意見だけ」
「意見も追跡される」
エリアは磁靴を履きながら、その一言を地図の余白へ書こうとした。
筆が止まる。
書くことは覚えることだ。
書くことは残すことだ。
書くことは、見つけられるようにすることでもある。
「記録しないのか」とオルサ。
「今は、記憶します」
「忘れたら」
「あなたにもう一度聞く」
「戻ってこられたらな」
オルサは先に歩いた。
駅の床は、五十歩先で終わっている。
その先へ、同じ幅の通路が天井側から続く。
床から天井へ渡る階段はない。中央に円形の重力継ぎ目があり、踏み込むと身体の下が九十度ずつ移動する。
「一人ずつ」とオルサ。「荷物を身体へ結べ。手を伸ばすな。落ちた物を追うな。落ちた人は追え」
「物より人」ハル。
「物は別の周回で拾える。人間は一周する前に雷へ焼かれる」
「合理的」
「生活だ」
ハルが継ぎ目へ入る。
一歩目。
足元が壁になる。
二歩目。
壁が天井になる。
三歩目。
身体が浮く。
「一、二――」
声が止まった。
三を言えない時は、恐怖が冗談より先へ出た時だ。
エリアは命令形を飲み込む。
「ハル。右手を、私へ」
具体的な役割。
ハルは右手を出す。
エリアは左手で掴み、右手のグリムリリーを継ぎ目の留め穴へ差した。
「三」
ハルが言う。
二人の磁靴が、新しい床へ同時に付く。
「俺が先だったのに」
「先に怖がった人を後から支えただけです」
「怖がってない」
「では手を離して」
「もう少し測定して」
「何を」
「握力」
「右手だけですか」
「比較対象が要る?」
「左肩を使わせる気?」
「測定終了」
ハルはすぐ離した。
オルサが振り返る。
「仲が悪いのか」
「正確に言ってください」とエリア。
「良すぎて悪いのか」
「地形説明を続けて」
「答えたな」とハル。
「落とすわよ」
「今どっちへ?」
「その質問が有効なの、ここだけね」
通路の向こうに、もう一つの町があった。
最初のホームを表と呼ぶなら、こちらは裏である。
だが裏側の方が明るかった。
鎖島の下面工場から漏れる橙の光が、天井だった地面を照らしている。配管の間へ木の床を渡し、古い客車の壁を切って家にし、重力継ぎ目を井戸のように囲んでいる。
子供たちは円形の継ぎ目を遊具にしていた。
「下当て!」
一人が石を投げる。
石は継ぎ目の中央で迷い、横へ落ちる。
別の子が笑う。
「雲側!」
「違う、厨房側!」
「厨房は方向じゃない!」
「お腹には方向!」
ハルが真顔で頷いた。
「分かる」
「教育へ悪影響」とエリア。
「教育が生活へ負けた」
「負けていません」
「勝ち負けにするな」とオルサ。
駅には、学校があった。
公式図では『保守手順閲覧棚』。
細長い机が六つ。黒板の代わりに、廃車の鋼板。文字、計算、線路図、薬草の絵。壁の棚には教本と絵本が並び、背表紙へ一冊ずつ工具番号が振られている。
教師らしい若者が、石筆を置いた。
短い栗色の髪。右頬へ活字インクの染み。薄灰の服は性別の区別がない仕立てだった。
「見学者?」
「調査者」とオルサ。
「どっちが危ない?」
「後者」
「じゃ、授業を終える」
若者は子供たちへ言う。
「今日の最後。名前は何のためにある?」
「呼ばれるため!」
「呼ばれないため!」
「食券をもらうため!」
「違う名前にするため!」
答えがばらばらに飛ぶ。
教師は正解を一つにしない。
「全部、理由になる。明日は、理由が変わった時に名前も変えていいかをやる。授業終了」
子供たちは机の下から磁靴を引き出し、走っていく。
最後に残ったのは、窓へ『まって』と書いた少女だった。
銅の留め具を四つ髪へ付けている。
「あなたが書いた?」とハル。
「文字、読めた?」
「読める」
「地球人も?」
「地球人にも文字はある」
「地図は読めないって」
「誰が言った」
少女はエリアを見る。
「正確な人」
「正確な人が余計なこと言った」
「事実です」
少女は、ハルの配達鞄へ目を向けた。
「名前、運ぶ人?」
「荷物を運んでた」
「名前も荷物?」
「重い時は」
「捨てる?」
「持ち主に聞く」
少女は少し考えた。
「ミコ」
「名前?」
「今の」
「今の?」
「昨日はラッチ。今日はミコ。明日は決めてない」
「じゃ、今日はミコ」
「覚える?」
「今日の分は」
少女――今日のミコは、ハルの赤いマフラーへ一瞬だけ触れた。
すぐ離す。
「有料?」
「触るの?」
「覚えるの」
「無料」
「後で請求しない?」
「しない」
「信用は保留」
「厳しいな」
「ここでは普通」
ミコは走っていった。
教師が名乗る。
「メラ・キス。これは今月の名。旧記録へつながる質問は答えない」
「星律官セレナ・クロウ。質問へ答えない権利と、答えなかった事実を混同しません」
「上手い言い方だ」
「評価は」
「信用へは足りない」
「本日一人目」
「何の数?」とメラ。
「答えません」
セレナの外套の内側で、証羽が伏せられている。
記録しないことを記録する。
矛盾のようだが、証拠保全とは矛盾を分ける仕事でもあった。
診療所は『封止材保管庫』だった。
赤い布で区切られた寝台が三つ。薬棚は圧力弁の箱に偽装され、包帯は配管布、解熱薬は冷却粉、消毒液は腐食防止剤として配給される。
老人が一人、足を台へ乗せていた。
膝から下がむくみ、皮膚へ紫の斑がある。
「フェル・ダン」と本人が言った。「これは出生名だ。追跡されても困らん。困る相手はだいたい先に死んだ」
「薬は」とセレナ。
「三日分」
「補給周期は」
「七日」
「不足しています」
「人間用で申請すれば二日で来る」
「なぜしない」カイル。
「住所が要る。住所を出せば、メラやオルサの旧罪名まで同じ便へ乗ってくる」
フェルは自分の足を叩いた。
「俺は名を出したい。ここへ薬を止めたくない。だが隣人の首へ縄を付ける署名はしたくない」
「個別に登録すれば」とエリア。
「駅の住所欄は一つだ」
メラが言う。
「同じホームで寝た者は、同じ所在地になる。中央は人間を部屋ごとに数えない。駅ごとに数える」
「なら住所を分ける」
「物理的に?」
「法的に」
「法が先にそれを許すなら、ここは存在してる」
エリアは口を閉じた。
正論は扉ではない。
正しいことを言ったから開くなら、制度はもっと薄い板で作れる。
フェルの枕元に、配給票があった。
『冷却弁用 塩化薬包 四』
実際には血流を保つ薬。
「薬を機械部品として受け取っている」とセレナ。
「そうすれば届く」とオルサ。
「用量管理は」
「診療所で手書き」
「副作用記録は」
「設備故障票」
「死亡した場合」
「廃棄部品」
カイルの冗談が止まった。
深刻な時ほど笑う男が、笑わない。
右籠手を左拳で叩かないまま、フェルの寝台へ近づく。
「王家の救難印で薬を送れる」
「送るな」とフェル。
「理由」
「王家が送れば、王家がここを知っている記録になる」
「俺はもう知った」
「王子として知ったのか、カイルとして知ったのか」
カイルは答えるまでに一拍かかった。
「今は、乗客として」
「王子の身体から乗客だけ切り出せるか」
「切り出せない。だから王家印は使わない」
「薬は」
「別の経路を探す」
「見つからなければ」
「その時、もう一度聞く」
フェルは笑った。
「王子にしちゃ、遅い返事だ」
「王子だから遅くなった」
「景気が悪いな」
「それは俺の台詞だ」
「駅に置いていけ」