第436話 第二章「逆さの保守線」後編
エリアは駅を測った。
公開しないためにも、まず何があるかを知らなければならない。
学校。
診療所。
厨房。
寝台区。
水槽。
重力継ぎ目。
非常索。
保守台。
だが測るたび、公式図の名前が現実を別のものへ変えた。
学校は『手順棚』。
診療所は『封止材庫』。
厨房は『潤滑加熱区』。
寝台区は『交換部品仮置き』。
水槽は『冷却循環槽』。
「人間の生活を機械語へ翻訳してる」とハル。
「翻訳ではありません」とエリア。「片方を消す分類です」
「意味は通じる」
「通じる相手が機械だけ」
壁の端末へ、オルサが古い鍵を差す。
透明板に保守台帳が開いた。
『設備群 十三種』
『主機 なし』
『付属機 四十七』
『居住許可 該当なし』
『教育施設 該当なし』
『医療施設 該当なし』
『人員 零』
付属機の欄へ、細かな番号が並んでいた。
十三―一。
十三―二。
十三―三。
四十七まで。
「これが住民?」とハル。
「違う」とオルサ。「住民を運ぶ時に使われる番号だ。毎回、誰がどの番号かは変わる」
「固定したら人名になるから?」
「固定したら追跡できる」
ミコが通りかかる。
端末が自動で鳴った。
『車両十三付属四号、冷却区へ戻れ』
少女は足を止める。
振り返らない。
「誰のこと」とハル。
「今の運行では私」
「ミコじゃないの」
「機械には」
エリアの指が、地図筆を強く握る。
「名称欄へミコと書けば」
「明日、変える」と少女。
「変更できる欄にする」
「どこへ届く?」
「中央台帳」
「中央は、昨日の名前も持つ?」
「履歴として」
「じゃ、書かない」
ミコは冷却区へ歩いていく。
ハルがエリアを見る。
「地図へ載せれば救える?」
「載せなければ、医療も教育も権利もない」
「載せたら」
「追跡される」
「じゃ、どうする」
エリアは答えない。
答えがないからではない。
一つの答えを早く出せば、誰かの恐怖を地図の外へ押し出すからだった。
珍しい通路を見つけた時のように、歩数を数える。
一、二、三、四。
継ぎ目まで十七歩。
地図卓へ戻り、透明板を二枚出す。
一枚目には、物理構造。
二枚目には、公開範囲。
物理構造へは正確な座標を書く。
公開範囲の同じ場所へ、白い囲みを置く。
『所在地 非公開』
その下に、さらに一行。
『存在 確認』
「存在だけ載せる」とエリア。
オルサが図を見る。
「誰が確認した」
「私たち」
「誰が信じる」
「証拠を作ります」
「証拠に住所が要ると言われたら」
「住所なしで証明する」
「できなかったら」
「できないと公開します」
「地図へ失敗を書くのか」
「訂正前提の地図です」
オルサの目が、ほんの少しだけ緩む。
だが頷かない。
「その板を誰が持つ」
「私」
「お前が死んだら」
「セレナへ封印複写」
「二人とも捕まったら」
「ロロの非魔法記録へ」
「船が落ちたら」
「ここへ一枚」
「ここが切られたら」
エリアの顎がわずかに上がる。
完璧さを防具へする癖。
ハルが言う。
「全部に耐える一枚じゃなくて、消え方が違う何枚かに分ける」
「それは地図ではなく分散記録です」
「じゃ、分散記録」
「簡単に言わないで」
「難しくしても作業量は減らない」
「あなたが増やしたのよ」
「手伝う」
「何を」
「紙を運ぶ。走る。書けない所は覚える」
「地図は読めないのに?」
「地図じゃない。人の頼み」
エリアは右手で口元を隠しかけ、途中で地図針へ触れた。
笑いを隠したのか、動揺を隠したのか、ハルには分からない。
分からない時に分かったふりをしないことは、セレナから学んだ。
「具体的な役割として受理します」とエリア。
「仕事の頼み方が法廷っぽくなった」
「あなたが曖昧だから」
オルサは二人を見ていた。
「悪いが」
声が硬い。
「その地図も消してくれ」
「公開板は所在地非公開です」とエリア。
「公開しない板もだ」
「救難時に必要です」
「救難者が追跡者へ変わらない保証は」
「ありません」
「なら、描くな」
「描かなければ、ここが落ちた時に誰も来られない」
「来られないから生きてきた」
「来られないせいで、薬が三日分しかない」
「それでも生きてきた」
「生き延びたことを、安全だった証拠にしないで」
エリアの声が低くなる。
本気で怒る時、彼女は声を荒らげない。
オルサもレンチを上げない。
「お嬢さん。ここで人を探した連中は、全員『助けるため』と言った」
「私は違うと言いません」
「違わない?」
「違うと証明できるまで、あなたは疑っていい」
言葉は届かなかった。
少なくとも、その場では。
オルサは地図板へ背を向ける。
「測定はここまでだ。上側へ戻れ。次の雷で重力継ぎ目を閉じる」
「なぜ」
「中央監査の探針が近い」
遠くで、一定間隔の鐘が鳴った。
十三回ではない。
四回。
監査列車の接近信号。
オルサが照明を一つずつ消す。
学校が暗くなる。
診療所が暗くなる。
厨房が暗くなる。
生活は、追跡者から隠れるため、設備の顔へ戻っていく。
照明を落とす前に、オルサは避難鐘を一度だけ鳴らした。
短い一打。
火災でも監査でもない。
重力継ぎ目の切替予告だった。
「全員、生活側へ!」
その号令で、人々は公式図にない方向へ動いた。
学校の子供は黒板を外す。黒板だと思っていた鋼板の裏には、寝台区へ渡す橋の取手がある。厨房番は鍋を火から下ろさず、鍋ごと床の溝へ滑らせた。煮込みの重さが、切替後には戸口を閉じる錘になる。診療所ではフェルの寝台へ車輪が出て、二人の若者が前後から押す。
「避難路、どこ」とハル。
「今、みんなが行ってる方」とミコ。
「地図上では」とエリア。
「地図の人は、地図に聞いて」
「住民へ聞いています」
「じゃ、厨房側」
重力が変わった。
床が壁になる。
寝台が走る。
鍋が扉を押さえる。
鋼板の橋が落ち、さっきまで天井だった配管へ渡る。
ハルはフェルの寝台を右肩で受けた。左は使わない。車輪が橋の継ぎ目で跳ね、老人の薬箱が空へ浮く。
「薬!」
エリアのグリムリリーが細い傘へ開く。
箱を刺さず、風だけで軌道を変える。ミコが磁靴を外して跳び、両腕で抱えた。
「捕まえた!」
「戻る時は」とハル。
「戻らない。次の床へ投げる」
「投げるの?」
「渡す」
「言葉が安全になっただけで動作は同じ」
「早く!」
ミコが薬箱を投げる。
ハルが受ける。
受けた衝撃を左肩へ逃がしかけ、右膝で橋へ落とす。
「痛み」とエリア。
「零。怖さ二」
「何が」
「薬を落とす方」
エリアは答えず、橋の継ぎ目へ地図針を打った。
公式図には、そこは『点検板』とある。
生活側では『薬渡し』だった。
次の曲がり角。
公式図、『排水弁』。
生活側、『子供待ち』。
その次。
公式図、『冷却管第三支柱』。
生活側、『フェルの休み場』。
「道の名前が、人の使い方になってる」とハル。
「設備名より正確です」とエリア。
「認めた」
「用途が違うだけ」
「正確さにも用途がある?」
「あります。設備を直す時は排水弁。人を逃がす時は子供待ち」
「じゃ、二つ書く?」
エリアの筆が止まる。
設備名だけを書けば生活が消える。
生活名を書けば、誰がどこで休むかまで追跡者へ渡る。
「公開板には機能だけ」とエリア。「非公開板にも個人名は置かない。現地で呼ばれている道は、現地の人が持つ」
「地図師が地図を持たない?」
「全部を持たない」
避難先へ着いた時、四十七人のうち誰も点呼で名前を言わなかった。
厨房の鍋が一つ。
学校の鋼板が一つ。
診療所の薬箱が一つ。
寝台の車輪音が三つ。
子供の磁靴が六組。
生活の物が、生活者の到着を知らせる。
完全ではない。
だが、名簿がなくても、誰かが途中へ残っていないかを確かめる手掛かりにはなる。
「一人、足りない」とミコ。
全員が止まる。
「誰」とハル。
「鍋の匙」
厨房番が振り返る。
木匙が一本ない。
人ではなかった。
だが笑わない。
人の不在と物の不在を、同じ警報へしてよいかは別の問題だからである。
オルサが元の通路へ戻り、木匙を拾ってくる。
「物だった」とハル。
「物でも、置き忘れは次の火傷になる」とオルサ。
エリアは透明板の隅へ書いた。
『生活物の照合は、人員確認を代替しない。ただし異常検知には使える』
「長い」とハル。
「短くすると、匙が人になります」
最後の灯が消える前、ミコがエリアの地図板を見た。
『存在 確認』
少女はその文字へ指を置く。
「これ、どこ?」
「ここです」
「ここって書いてない」
「場所は隠しました」
「じゃ、ないのと同じ?」
「違います」
「誰に?」
エリアは答えを持たなかった。
地図に線を描くことはできる。
線を誰が見るかまでは、地図だけでは決められない。
ミコは白い石筆で、『存在 確認』の横へ小さく書いた。
『でも、こないで』
二つの願いは矛盾していた。
だからこそ、どちらかを消して一つにするべきではなかった。