第437話 第三章「運賃ゼロの乗客」前編
無料ほど高いものはない、という言い回しがある。
商人が言えば警句であり、借金取りが言えば脅迫であり、空賊が言えば契約条件である。
鉄道官僚が言う場合だけ、意味が逆になる。
運賃を取らない。
ゆえに乗客ではない。
乗客ではない。
ゆえに降車先を選べない。
選べない。
ゆえに、どこへ運んでも旅客事故にはならない。
金を払わなくてよい代わりに、人間であることを勘定から外される。
それは無料ではない。
支払い方法が貨幣でないだけであった。
監査列車の鐘は、近づいてから止まった。
止まったから遠ざかったとは限らない。
雷鎖環の監査列車は、対象へ直接来ない。三つ先の鎖島へ停車し、細い探針だけを保守線へ差し込む。時刻、荷重、設備番号、紙票の型、電力使用量を吸い上げ、数字が合わなければ初めて本体が動く。
人間を見る前に、数字が人間を呼び出す。
オルサは駅の灯を落としたまま、調査を許した。
「監査が来るまで」と条件を切る。
「来た後は?」ハル。
「お前たちのせいで来たなら、線路へ返す」
「俺たちが来る前から鐘は鳴ってた」
「お前たちが来なければ、聞こえないふりができた」
「聞こえないふりで監査は止まる?」
「止まらない。だが、怖がる時間を選べる」
ハルは言い返さなかった。
正論で奪える時間もある。
イヴァはホーム端の荷重計へしゃがんでいた。
左手で針を押さえ、右手の震えを外套の影へ隠す。隠せていない。テトは三歩離れた場所で手首を数える準備をしているが、まだ触れない。
「二六八四」とイヴァ。
「表示と同じ」とロロ。
「単位がない」
「設備荷重ならキロル。人員なら人数。運賃ならルク。単位を書かねえ数字は、後で好きな意味にできる」
ロロの補助腕が、荷重計の蓋を四方向から外す。
「触るな」とオルサ。
「壊さねえ」
「壊れてるように見えない物を直す奴が一番怖い」
「壊れてるんじゃなくて壊した仕組みだ。誰が何を壊したか見る」
「許可を取れ」
「今取ってる」
「先にネジを二本抜いた」
「挨拶」
「戻せ」
「診断料」
「落とすぞ」
「交渉成立!」
「どこがだ!」
補助腕が慌てて二本のネジを戻した。
オルサはレンチを下ろさない。
「開けるのは私だ」
左小指のない手で古い鍵を回す。
荷重計の中には、二つの針があった。
一つは表盤へつながる太い針。
一つは裏側へ隠れた細い針。
表盤は二六八四。
裏針は、四七。
「人数」とテト。
「保守要員数」とオルサ。
「人じゃないですか」
「台帳上は、設備を安定させる可動荷重」
「人が動くから可動?」ハル。
「人が動いても設備荷重の合計は変わらないよう、列車側が調整する」とロロ。「この裏針はブレーキ計算用だ。乗客名簿へ載せねえくせに、止まる時だけ人間の重さを使う」
「安全のため?」カイル。
「車輪のためだ。重すぎる列車を止めそこねりゃ機関も壊れる。人を守る安全装置じゃねえ」
イヴァは細い針を見ていた。
「この型は、旧下層救難線の人員補正計だ」
「知ってるの?」セレナ。
「見たことがある」
「いつ」
「運行学校で」
嘘の音は鳴らない。
ハルが破られた約束へ感じるひびの音もない。
だが、言葉が足りない時の沈黙は、嘘とは別の形で重い。
セレナは単眼鏡の縁を一度押す。
「運行学校の教本名」
「旧救難側線取扱、第三版」
「発行年」
「二十年前」
「あなたが在学した時点で廃止扱いだった」
「廃止された設備を知らずに走る車掌は、廃止された線へ落ちる」
「使用経験は」
イヴァの改札鋏は封印箱の中で鳴らない。
「後で話す」
「時刻を指定して」
「監査探針が入る前」
「承知しました」
「追及しないの?」ハル。
「期限付きの保留は、拒否と違います」
「過ぎたら」
「追及します」
イヴァがセレナを見る。
「容赦がないな」
「被告人へ容赦を見せる職ではありません」
「被告人と決まっていない」
「被移送者です。今の事実だけを」
「それは容赦より面倒だ」
「本日二人目」
駅へ朝食便が来た。
列車ではない。
箱である。
保守線の細い鎖へ吊られた六つの金属箱が、雷の間を滑ってくる。外面には『耐熱封材』『濾過布』『軸受油』『錆止粉』と書かれている。
オルサが最初の箱を開ける。
焼いた平パン。
二つ目。
豆。
三つ目。
乾燥野菜。
四つ目。
毛布。
五つ目。
学校用の石筆。
六つ目だけ、本当に軸受油だった。
「六分の一しか表示が合ってない」とハル。
「一つ合ってるから、監査で全箱を開けられにくい」とオルサ。
「嘘へ本物を混ぜる?」
「本物へ生活を混ぜる」
「言い方で合法にならない」とセレナ。
「合法なら隠さない」
配給票には数量があった。
『耐熱封材 四十七単位』
『濾過布 四十七枚』
『軸受油 五樽』
「食料は四十七人分」とエリア。
「人員零なのに」とハル。
「設備付属物へ必要な消耗材、として通る」
「子供のパンも消耗材?」
「食べれば消える」とミコ。
少女が平パンを一枚取る。
「それ、誰の分」とハル。
「四号」
「ミコの分じゃないの」
「台帳は四号」
「本人は」
「お腹」
「お腹の名は」
「今はパン」
ミコは平パンを四つに折り、一つを袖へ入れた。
ハルが見る。
「後で食べる?」
「後で来る人」
「誰」
「分からない」
「来なかったら」
「明日の私」
人は、未来の自分を他人として扱うことで生き延びる場合がある。
今日の空腹が全部を食べないよう、明日という知らない誰かへ一口を残す。
「それ、腐る」とサナなら言うだろう。
サナは今ここにいない。
公会港で七号車の医療記録をまとめ、保留区画へ診療口を作っている。だが彼女の赤い手袋がなくても、ハルには袖の中のパンが危ないと分かった。
「保存袋、ある?」
「値段」
「ロロへ請求」
「おい!」
「工具箱にあるだろ」
「薬品用だ!」
「洗えば」
「袋は洗っても費用が消えねえ!」
ロロは叫びながら、新しい小袋を一枚出した。
「一ルク」
ミコはパンを戻す。
「ない」
「じゃ、石筆一本」
「学校の」
「自分の絵を一枚」
「それ、値段?」
「仕事だ。駅の断面図へ、子供が通る抜け穴を書け」
「秘密」
「公開しねえ。修理用」
「誰が持つ?」
「お前」
「じゃ、成立」
ミコは袋を受け取る。
ロロは無償にしない。
無償が相手を借りへ縛る場合を知っているからだ。
だが一ルクの代わりに、本人しか持たない図を仕事として頼む。対価を作ることと、値札を押しつけることは同じではない。
「商売上手」とハル。
「お前の無料より安全だ」
「俺も働いて返す」
「お前は返す前に次を壊す!」
「継続契約」
「終了!」
ミコが短く笑った。
笑う時だけ、年齢が分かる。
朝食後、保守輸送車が入った。
二両だけの小さな列車。
前は機関。
後ろは貨物。
扉へ『可動設備輸送』と書かれている。
オルサが四人を呼んだ。
フェル。
足を怪我した若者。
妊娠中の女性。
熱のある幼児と、その介助者。
「診療線へ行く」とオルサ。
「名簿は」とイヴァ。
「ない」
「人数記録」
「六」
「幼児を一人と数えるか、介助者と一組か」
「荷重では二」
「避難では」
「二」
「医療では」
「患者一、介助一」
「事故時の捜索では」
「二」
「なら、少なくとも二人と記録しろ」
「記録先が人員名簿なら、住所と名を求められる」
「車内だけの数」
「車内記録は中央へ送られる」
「送らない設定にする」
「違法改造」とオルサ。
「人を設備にするより軽い違法だ」
「軽い違法で重い追跡が来る」
二人の会話は線路だった。
平行に進み、交わらない。
イヴァは輸送車の扉を見る。
内側に座席はない。
床へ重し固定用の輪があり、住民はそこへ腰索を結ぶ。
「乗客として運べ」とカイル。
「王子の命令?」オルサ。
「乗客の提案」
「提案は拒否」
「理由」
「旅客車へ乗れば検札される」
「俺が身分保証を」
「王族の保証は、王族の管轄へ入ることだ」
「では保証しない」
「王子が何もしないと宣言しても記録は残る」
「身体が政治だな」とハル。
「お前は身体を安く使いすぎる」とカイル。
「今日の話、それじゃない」
「いつもの話だ」
イヴァは貨物車へ入る。
足元の留め輪を一つずつ確認する。
左手で触れ、右手は外套の裾へ隠す。
「この輪、三番と五番が摩耗している。六人なら使用位置を分けろ」
「設備荷重だから、全員一か所へ」と貨物車の自動音声。
「人間だ」
『荷役指示。可動設備、重心中央へ』
イヴァの声から放送の抑揚が消える。
「人間だ」
機械は返事をしない。
オルサが六人へ番号札を渡した。
「十三―八。十三―十二。十三―十九。十三―二十一。十三―二十二。十三―三十」
「待て」とイヴァ。
「何」
「本人の呼び名を」
「車内で呼べば記録鐘が拾う」
「事故が起きたら番号で探すのか」
「番号なら探されない」
「誰から」
「事故を起こした側からも、追跡者からも」
「救難者からもだ」
「それで生きてきた」
「生き延びたことを――」
エリアが言いかけた言葉を、イヴァが引き取る。
「安全だった証拠にするな」
オルサの目が細くなる。
「青い車掌。お前にそれを言う資格があるか」
イヴァは答えない。
監査探針が来る前に話す、と期限を切った。
まだその時刻ではない。
保留は逃亡ではない。
だが期限までの沈黙が、相手を傷つけないとは限らない。
貨物車へ六人が乗る。
扉の横に、運賃表示が出た。
『運賃 零』
「無料だ」とミコ。
見送りへ来ている。
「いいこと?」
ハルはすぐ答えない。
「払わない代わりに、乗客に数えられない」
「乗客じゃないと」
「停車先を選べない。事故の補償もない。席もない」
「お金、払えば人?」
「違う」
「でも払わないと人じゃない?」
「それも違う」
「じゃ、何が人?」
哲学者なら長く答える。
宗教家なら祈りを答える。
官僚なら定義を答える。
ハルは、自分にできる答えだけを言う。
「聞いた時、返事を待つこと」
「返事しない人は?」
「待つ。でも危ない時は、待ち方を相談する」
「今、危ない?」
「多分」
「多分は返事?」
「正確な人に聞く」
エリアが右眉を上げる。
「逃げないで」
「役割分担」
「危険は高いです。監査探針が接近し、貨物車の安全装置は人員を認識していない」
「分かりやすい」
「あなたの『多分』よりは」
輸送車が動く。
テトが扉の横へ立つ。
「俺も乗ります」
「停職中だ」とイヴァ。
「中央の業務からは。ここでは無給」
「無給を誇るな」ロロ。
「故郷へ送る給与が減る」とテト。
「だったら乗るな」
「乗らなかったら、次の給料そのものがないかもしれません」
テトは見習い鋏を出す。
「切符を」
オルサが番号札を渡す。
「十三―」
「それじゃなく」
「他にない」
「作ります」
「駅名は書くな」
「書きません」
「本名も」
「書きません」
「じゃ何を」
テトは六枚の無地票へ、形の違う穴を一つずつ開けた。
丸。
三角。
二本線。
四角。
波。
半月。
「本人が選んだ停車条件だけ。診療線。帰りは保留。名前なし」
「中央へ送るな」とオルサ。
「この鋏は中央端末へつながってません。見習い用だから」
「欠陥品?」
「自治型です!」
「不合格品だろ」とイヴァ。
「中央基準では!」
「同じ意味だ」
「今日は違います!」
六人が自分の形を選ぶ。
幼児の分は、介助者が半月を取ろうとした。
イヴァが止める。
「本人が選べない状態だ。介助者が代理で選んだと票へ刻め」
「名前なしで代理関係をどう」とテト。
「同じ索へ二枚を結ぶ。解除は両方」
「事故で索が切れたら」
「形を照合」
「形も削れたら」
「荷重と服装」
「服を替えたら」
「だから名前が必要だ」
オルサが言う。
「だから名前が危険だ」
線路は、また平行になる。
どちらも正しい部分を持つ。
正しい部分は、間を埋めない。
輸送車が闇へ出る。
テトの小さな放送。
「次は――診療線。停車後、帰路は保留。乗客――」
言葉が止まる。
自動表示は『零』。
車内には七人いる。
「人、七」
テトは言い直す。
『規定外案内』と機械が警告する。
「規定へ一名追加」
『規定外案内』
「規定の方を直せ!」
少年の声が裏返る。
貨物車は暗い保守線へ消えた。