第442話 第五章「名簿の空欄」後編
子供たちは、駅ごっこをしていた。
駅に住む子供が駅ごっこをするのは、海辺の子供が船を作るのと同じである。
現実を縮めれば、手で動かせる。
廃切符を床へ並べ、磁石の駒を走らせる。
「次は、パン駅!」
「停車しません!」
「どうして!」
「運賃が石だから!」
「石ある!」
「丸い石だけ!」
「角を削る!」
「偽造!」
ハルは客役へ座らされた。
「切符」とミコ。
「持ってない」
「乗れない」
「徒歩で」
「線路を歩くと焼ける」
「じゃ、ここにいる」
「ここは出発駅だから、ずっといると次の客が乗れない」
「厳しい鉄道」
「名前は」
「凪野ハル」
子供たちが一斉に首を振る。
「長い」
「本名は駄目」
「番号にして」
「じゃ、赤マフラー」
「物みたい」とミコ。
「さっき番号にしろって」
「番号は物じゃないの?」
「ここでは物として使われてる」
子供たちは少し黙った。
遊びの中へ現実が戻ると、駒は急に重くなる。
ハルは自分の切符へ、マフラーの房を一本結んだ。
「これなら俺が持ってる。外したら終わり」
「色で分かる」と一人。
「赤が見えない人は」とテトが加わる。
「形」とミコ。
房を二つ折りにし、結び目を作る。
「触っても分かる」
「名前じゃない」と別の子。
「でも誰の切符か分かる」
「今だけ」とミコ。
「今だけでいい時もある」ハル。
テトが帽子の鍔を叩いた。
「次の停車と、今乗ってる人数だけなら、名前は要らないかもしれません」
「事故の後、誰が足りないか分からない」とイヴァが遠くから言う。
いつから聞いていたのか。
右手を左腕へ押しつけ、震えを止めている。
「結び目が残る」とハル。
「本人と結び目を照合する方法が要る」
「本人が持つ」
「意識を失ったら」
「近くの人が知ってる」
「近くの人も意識を失ったら」
「全部駄目な条件を先に言うの、車掌の癖?」
「全部駄目な時に、最後まで数えるのが車掌だ」
「でも数えるために名前を渡したら、事故の前に捕まる」
「分かっている」
「分かってる顔じゃない」
「顔で証言するな」
「この一件、顔の証言が多い」
イヴァは笑わない。
子供たちの切符を一枚ずつ見る。
丸い結び。
三つ編み。
平たい輪。
硬い玉。
色だけでなく、触って区別できる。
「人数は数えられる」とイヴァ。
「名前なしで」とテト。
「希望停車も」
「穴形で」
「変更時刻が残らない」
「本人が結び直す」
「不正変更を」
「誰が不正って決める?」ハル。
イヴァの返事が止まる。
正しい安全は、本人の選択を疑うことから始まる場合がある。
そして疑い続ければ、本人の選択を取り上げる。
「試すだけなら」とテト。
「監査の前に、試験へ人を乗せるのか」
「乗せません。床でやる」
「列車の事故は床で起きない」
「全部本番で試すよりまし」
イヴァは切符を返した。
「ミラがいたら、名前なしで乗せろと言う」
「呼ぶ?」ハル。
「回線がない」
オルサが厨房の奥を指した。
「旧救難線ならある」
「生きてる?」ロロ。
「死んでる。だから監査されない」
「死んだ回線を使うのは、俺の仕事を何だと思ってる」
「無料?」
「修理費を払え!」
旧救難回線は、診療所の床下にあった。
銅線三本。
腐食した鐘。
送信用の足踏み板。
音声は送れない。
長音と短音だけ。
「自由港の無署名救難路〈フリー・ライン〉へ届く符号は?」ハル。
「助けを求める符号は一つです」とイヴァ。「長、短、短、長。場所を続ける」
「場所は送らない」とオルサ。
「迎えが来られない」
「迎えが追跡者かもしれない」
「誰へ送るか分かってる」
「回線は途中で聞かれる」
ロロが床へ潜り込み、補助腕で銅線を一本ずつ叩く。
「場所の代わりに、向こうだけが知ってる受け渡し符号を送る。台風金庫の一件で自由港救難路が使った、契約外救難の三連結び」
「音で結びを?」
「長さを変える。パルなら分かる」
「分からなかったら」
「無料修理の請求を送る」
「それならミラが必ず来る」とハル。
「金を払うためじゃなく文句を言うためにな」
足踏み板を押す。
長。
短。
短。
長。
続けて、三つの不揃いな間隔。
回線の向こうは無音だった。
一拍。
二拍。
三拍。
古い鐘が、かすかに鳴る。
短。
長。
短。
「返事?」
「受信した、料金保留」とロロ。
「ミラだ」
「断定するな」とセレナなら言うだろう。
しかしあれほど金銭語彙で救難を返す相手を、ハルは他に知らなかった。
住民の話し合いは、学校で行われた。
四十七人全員は入れない。
代表を選ぶと、その代表が誰を代表するかで名簿が要る。
そこで扉を開け、表ホームと裏ホームへ音が通るよう、鍋と配管をつないだ。
発言したい者は、名前でなく木片を一つ鍋へ落とす。
音がした順に話す。
一つ目。
「公表しないで。前の町で、私たちは配給横流しの証人にされた。証人名簿から家族が消えた」
二つ目。
「登録してほしい。子供を学校へ出したい。ここで教えることが悪いんじゃない。外にも選べる学校があると知ってほしい」
三つ目。
「薬が要る」
フェル。
「でも住所は出さない」
四つ目。
「駅を残したい」
五つ目。
「駅を捨てたい」
六つ目。
「ここに住みたいが、十三番は嫌だ」
七つ目。
「十三番でも生きてきた。名前を変えるなら、今までが間違いだったみたいだ」
正反対の希望が並ぶ。
誰も嘘をついていない。
誰も全員の答えではない。
ハルは一つの木片を持つ。
鍋へ落とす前に、ミコが袖を引いた。
「何言う?」
「助けたい」
「それ、誰の話?」
「みんな」
「みんなは同じじゃない」
「じゃ、聞く」
「今聞いてる」
「もっと」
「それも言わなくていい」
ハルは木片を鍋へ入れなかった。
発言をやめることは、無関心ではない。
他人の言葉が終わるまで、自分の正しさを待たせることだった。
エリアは二枚の透明板を壁へ立てた。
一枚には、公開できる事実。
『生活者がいる』
『医療・教育・配給が必要』
『人数は本人同意の範囲で確認』
『所在地は非公開』
もう一枚には、個別の希望。
名はない。
残る。
出る。
医療。
裁判。
保留。
家族へ連絡。
連絡しない。
「地図ではない」とオルサ。
「選択の分布です」
「公開したら推測される」
「公開板は人数も割合も消す」
「それで存在を証明できるか」
「場所を証明する必要はありません。権利主体がいることを証明します」
「中央が認めると思うか」
「思うかではなく、認めない理由を証拠にします」
エリアの声は強い。
強いが、地図筆を握る左指は固い。
載せれば救えると信じてきた者が、載せない線を描こうとしている。
地図の空白を、無知でなく本人の選択として残す。
それは地図を描くより難しい。
ノクスは、名簿の話し合いへ参加しなかった。
二本の尾を揃え、厨房裏の配給箱の前へ座っている。
「何か匂う?」ハル。
「ナゥ」
「誰かの古い名前?」
「ノゥ」
否定。
ノクスが追うのは、破られた約束の匂いである。
秘密そのものではない。
隠した名が、必ず約束違反になるわけでもない。
だが人は便利な力を見ると、便利な質問をしたくなる。
監査前の不安は、その誘惑を強くした。
一人の男が、古い紙片を出した。
折られ、油で汚れ、裏へ別の名が書かれている。
「これを嗅がせれば、同じ人がどこにいるか分かるか」
オルサが止める前に、男は紙をノクスへ近づけた。
ノクスは匂いを嗅ぐ。
青白い尾が一度、立つ。
全員が息を止める。
夜獣は立ち上がり、紙の持ち主ではなく、配給箱へ歩いた。
箱の底を前脚で叩く。
「そっち?」ハル。
ロロが蓋を外す。
中に、古い受領票が貼りついていた。
『七十二時間、食料を切らさない』
署名は読めない。
期限は三年前。
配給は、設備部品の名目で今まで続いている。
「約束は破られてない?」メラ。
ノクスが低く鳴く。
「違う」とハル。「七十二時間って約束したのに、終わった後を誰も話さなかった」
「それを破った匂い?」
「断定できない」とセレナの声が通信から入る。
「いないのに聞いてる」
『証拠回線です。ノクスの反応は捜査端緒。人物同定ではありません』
男は古い紙片を握る。
「こいつなら、前の名を追えると思った」
「追えても、追わせない」とハル。
「お前が決めるのか」
ハルはノクスを見る。
ノクスは男の紙へ戻らない。
代わりに、今日の名を終えた少女の隣へ座った。
偶然を装うには近すぎる距離で。
「決めたのはノクス」
少女が二本の尾を数える。
「私の名前、知ってる?」
「ナァ」
「言う?」
「ノゥ」
「夜獣語、都合よく訳してない?」メラ。
「そこは信用保留」ハル。
少女は古い名の紙片ではなく、ノクスの尾先へ指を伸ばす。
触れる前に止める。
「触っていい?」
ノクスは片尾だけ、少女の手へ置いた。
もう片方は床へ残す。
全部を預けない。
少女も紙を出さない。
名前を知らなくても、隣に座れる。
そのことは、名簿へ書けないが、生活には必要だった。
ロロが受領票を剥がさず、箱ごと写真板へ写す。
「食料が来た証拠にはなる」
「人が食べた証拠は」とハル。
「鍋、皿、排水、灰、歯形」
「最後だけ個人特定できそう」
「歯形で名前は出ねえ」
「追跡者は出すかも」メラ。
ロロは写真板の歯形部分を覆う。
「じゃ、必要以上に撮らねえ」
証拠を集めることと、全部を集めることは違う。
駅の外で、白い灯が七つ並んだ。
監査列車。
黒い車体ではない。
白い。
汚れを見つけやすくするため、監査車両は白く塗られる。
同時に、自分の汚れが最も見えにくい色でもあった。
先頭車の鐘が鳴る。
短く二度。
『設備群十三種へ通告』
駅中の端末が同時に声を出した。
『現地監査を開始する』
『人員登録なき生活反応を確認した場合、違法占有物として排除する』
『人員登録を申告する場合、氏名、旧名、出生地、司法照会歴、目的地を提出せよ』
オルサの左手が締結レンチを握る。
欠けた小指の場所だけ、柄へ空間が残る。
「二択だ」とフェル。
「捕まるか、捨てられるか」
ミコがハルのマフラーへ触れた。
「今日の名前、終わり」
「次は」
「まだ」
「じゃ、呼ぶ時」
「呼ばないで」
白い列車が、駅名のないホームへ入ってくる。
行き先を公表すれば追われる。
公表しなければ、人として数えられない。
名簿の空欄は、空っぽではなかった。
四十七通りの、書かれたくない理由と、書いてほしい願いで満ちていた。