第441話 第五章「名簿の空欄」前編

名簿は、人を並べるために作られた。

 徴税の名簿。

 兵役の名簿。

 配給の名簿。

 入学の名簿。

 死者の名簿。

 並べる目的が違えば、同じ人の名も違う順序で書かれる。

 権力は、名簿を作ることで人を見つける。

 人は、名簿へ載ることで権力を見つける。

 その出会いが救済になるか、徴収になるか、逮捕になるかは、名簿それ自体には書かれていない。

 ゆえに空欄は、自由とは限らない。

 空欄は、見つからない安全である。

 同時に、助けを呼んでも誰も来ない危険である。

「数えるな」とオルサが言った。

「もう四十七って分かってる」とハル。

「食卓では数えるな」

「どうして」

「最後の一人まで足りるか不安になる」

「数えないと足りるか分からない」

「足りない時は分ける。最初から数えると、誰を減らすか考える」

「分けるのも数えるだろ」

「同じ算術でも、順序が違う」

 潤滑加熱区――生活の側の言葉では厨房――に、鍋が三つ並んでいた。

 豆と乾燥野菜の煮込み。

 平パンの硬い端を浸した粥。

 薬草の苦い湯。

 鍋の底には古い車輪軸が組み込まれ、保守線を走る振動で自動的にかき回される。列車が止まると粥も止まり、焦げる。ゆえに厨房番は時刻表より先に線路の揺れを覚える。

「今、三拍抜けた」とミコ。

 鍋を覗き込み、木匙を入れる。

「分かるの?」ハル。

「焦げる匂い」

「舌じゃなくて鼻で料理してる」

「舌で火は見えない」

「正しい」

「正確には、匂いだけでも火は見えません」とエリア。

「厨房へ正確さを持ち込むな」

「焦げる方が困るでしょう」

「二人とも邪魔」とミコ。

 少女はハルへ木匙を渡した。

「右へ七回」

「左じゃ駄目?」

「右に焦げがある」

「鍋に右があるのか」

「私から」

「基準が生活者」

「地図より正しい時もあります」とエリア。

「認めた」

「条件付きです」

 ハルは右へ七回かき回した。

 左肩は上げない。肘を身体へ寄せ、右手だけで鍋を回す。八回目をやろうとすると、ミコが柄を押さえた。

「七」

「一回多いと」

「私が言ったことが減る」

「煮込みの品質じゃなく、発言権の問題?」

「両方」

 ハルは手を離す。

「七で終了」

「信用、少し進んだ」

「どれくらい」

「一」

「何段階」

「決めてない」

「厳しいな」

 ミコは鍋の端から一匙すくい、息を吹く。

「今日の名前、まだミコ?」

「夜まで」

「明日は」

「監査が来たら、変える」

「どうして」

「今日の名前を捕まえに来るかもしれない」

「名前が逃げても、本人がここにいたら」

「本人も移る」

「どこへ」

「空いてるところ」

 空いているところ。

 家ではない。

 駅ではない。

 次の檻であることを、ハルはまだ知らない。

 ただ、少女が自分の未来を住所でなく空席として考えていることだけは分かった。

 食事は生活を証明する。

 食べた量。

 使った水。

 減った薪。

 洗った皿。

 残った骨。

 人がいた証拠は、本人の名前より先に台所へ溜まる。

 しかし台所の証拠だけで、人の権利を証明できるわけではない。

 家畜も食べる。

 機械も油を使う。

 国家は、数えたくない人間を別の消耗品へ翻訳する技術に長けている。

 ハルは食器を配った。

 名前は聞かない。

「豆が多い方」

「粥だけ」

「苦い湯は後」

「子供用半分」

 希望だけを聞く。

 四十七人のうち、同じ注文をする者は多かった。だが同じ注文だから同じ人になるわけではない。

 片腕の若者は、豆を皿の左へ寄せてから食べた。

 赤ん坊を抱いた女は、自分のパンを先に湯へ浸し、柔らかいところだけ子供へ渡した。

 眠そうな少年は、食べる前に皿の裏へ今日の日付を石筆で書いた。洗えば消える。

 メラ・キスは立ったまま食べ、子供たちの石筆を一本ずつ削っていた。

「座れば」とハル。

「座ると教師になる」

「立ってても教師」

「座って食べる人を先にする」

「順番を決めてる時点で先生」

「面倒な子だな」

「十五歳」

「十分子供」

「そっちは」

「今月の名以外は答えない」

「年齢も追跡情報?」

「年齢、出身、筆跡、口癖、指の癖。名前がなくても人はつながる」

 メラの右頬には活字インクが染みている。

 洗っても落ちない古い黒。

「印刷してた?」

 ハルが聞く。

 石筆を削る刃が止まる。

「答えない」

「ごめん」

「謝るなら、次から聞く前に考えて」

「何を」

「答えなくていい質問か」

 言葉遊びではない。

 言葉を使わない権利の話だった。

 ハルは赤いマフラーの端を指へ巻く。

「じゃ、答えなくていい。子供へ何を教えたい?」

 メラは刃を動かし直した。

「自分で読めること。自分で数えられること。紙に書いてあるから正しいと思わないこと」

「名前は」

「必要な時、自分で選べること」

「選んだら変えられる?」

「変えられる」

「でも、誰かが前の名前で呼び続けたら」

 メラは石筆の先を吹いた。

「返事をしなくていい」

 診療所では、フェル・ダンが薬箱を見ていた。

 細い老人だった。

 灰色の髭を左右で長さ違いに切り、右足だけ厚い靴下を履いている。膝から下のむくみは朝より強く、皮膚が赤い。

 薬箱にはあと二日分。

「中央診療へ登録すれば、十日分は出る」とオルサ。

「登録したら住所が要る」とフェル。

「診療所の住所だけで申請する」

「この診療所が見つかる」

「お前一人の薬だ」

「私一人の住所ではない」

 老人は出生名を使っている。

 ここでは珍しい。

 名前を変えなかった理由を、ハルは聞かなかった。

 フェルが自分から言う。

「父が付けた。父はもう死んだ。追う者もいない。私には隠す必要がない」

「なら登録を」エリア。

「私が登録すれば、同じ配給経路にいる者が洗われる」

「個別申請へ切り分ける」

「中央は差分を見る。四十七人分の冷却粉から一人分の薬が抜ければ、残り四十六を探す」

「薬を諦めるの?」ハル。

「諦めると言うと、誰かが止める」

「止める」

「だから言わない」

「もう言った」

「面倒な子だ」

「本日何人目だろ」

 セレナなら数える。

 今は旧保守庫で証拠を分けている。

 エリアは診療台の横へしゃがみ、薬箱の表示を読む。

「この成分なら、ゼロスター号に代用品がある」

「何日分」

「三日」

「合わせて五日」

「その間に別経路を」

「五日で制度が変わるか」

「変えます、とは言いません」

 エリアは珍しく、即答を止めた。

「変えるための時間を、五日にします」

「同じ意味では」

「違います。私たちが成功を約束するのではなく、あなたが五日後にも選べる状態を作る」

 サナの言葉に近い。

 本人はいない。

 だが旅の中で受け取った言葉は、持ち主が遠くにいても働く。

 フェルは薬箱を閉じた。

「三日分を受け取る。代金は」

「王家が」とカイルが入口から言う。

「王家の借りは要らん」

「個人借金で」

「王子の個人借金は、将来税になる」

「景気が悪い信用だな」

「信用しているから警戒する」

「もっと悪い」

 ハルが自分の配達鞄を開ける。

 旅先で余った乾燥薬草。ロロが咳止め用に買ったもの。エリアの踵へ使う冷却布。カイルの古傷用の温湿布。

「これを交換」とハル。

「何と」フェル。

「線路の歩き方を教えて」

「薬と案内を同じ値にするのか」

「案内なしで落ちたら、薬を持ってても使えない」

 フェルはしばらくハルを見る。

「値段を上手く作るな」

「ミラに鍛えられた」

「空賊か」

「今は救難路」

「今、という言葉を信用する」

「名前より?」

「名前も今のものだ」