第449話 第九章「分類を知っていた車掌」前編

非常事態には、終わりが要る。

 戦争。

 災害。

 感染。

 反乱。

 大事故。

 平時には許されない命令を、短い時間だけ許す。

 列車を止める。

 家へ立ち入る。

 持ち物を捨てさせる。

 本人の返事を待たず運ぶ。

 危機が去れば、権限を返す。

 その最後の一行を書き忘れた非常命令は、危機を食料にして生き続ける。

 危険がなくなれば、自分の正当性もなくなるからだ。

 ゆえに永続する非常権限は、次の危険を見つける。

 なければ作る。

 制度にとって最も便利な危険は、本人の安全である。

「まだ危険だから」という言葉は、扉を閉める鍵として長く使える。

 イヴァ・レイルは、学校の床へ座った。

 背を壁へ預けない。

 急停車へ備える座り方。

 だが今、列車は動いていない。

 動いているのは、裏ホームの連結器と、残り時間だけだった。

 白灯、五つ。

 駅の四十七人。

 ハルたち。

 監査主任ヘスタ・クレイ。

 ミラ、パル、サナ。

 全員が、同じ場所には入らない。表ホームを失ったため、学校の扉、厨房、通路、重力継ぎ目へ分かれている。声は鍋と配管を通し、別々の場所へ届く。

 イヴァは放送器を使わなかった。

 自分の声を駅全体へ均一に流せば、また自分が車掌になる。

 口元を見たい者が見られる距離で、話す。

 聞こえにくい左耳をオルサへ向けた。

 信頼の向き。

 オルサはその意味を知らない。

 知らなくてよい。

「三年前」とイヴァは言った。

 放送口調ではない。

「第六工業線の災害審問で、死者数を改竄した記録が出た」

 サナの顎がわずかに上がる。

 彼女が告発し、投獄された災害と同じ系列かもしれない。

 しかしイヴァは断定しない。

「記録を見た作業員、家族、印刷工、駅員が司法移送対象になった。保護移送と呼ばれた。行き先は中央拘束区」

「保護じゃない」とメラ。

「そうだ」

「その時、何人」とセレナ。

「三十九」

「現在四十七。増減経過は」

「分からない。私が関われたのは最初の七十二時間と、その後の延長票だけ」

「延長票は何回」

「十一回」

 空気が変わる。

 一度の判断ではない。

 十一回。

 イヴァは偶然、制度を作ったのではない。

 続けるたび、選び直していた。

「最初の移送列車に、私は見習い車掌として乗っていた。十五歳だった。主任は中央命令へ従うと言った。私は、拘束区へ入れば証言者が個別収監されると知っていた」

「どうして」とヘスタ。

「運行表に、乗客ではなく証拠物件と書かれていた」

 ロロが歯を鳴らす。

「今と同じ」

「同じ発想だ」

「それで十三番へ?」ハル。

「古い教本に、追跡危険下臨時救難施設があった。氏名照会、目的地照会、司法照会を止められる。七十二時間。私は主任の印を盗んだ」

「盗んだ?」ミラ。

「命令用の三枚歯と、署名権」

「上手い」と言いかけ、ミラは口を閉じる。

 盗みの技術と結果を分けた。

「列車を軍用駅から外し、廃鉱山宿へ入れた。三十九人を降ろした。中央には、設備十三種を緊急接続したと報告した」

「住民へ説明は」とセレナ。

「三日間だけ照会が止まる。その間に別の保護先を探す、と」

「探した?」オルサ。

「四つ」

「どこ」

「一つは教会。氏名登録が必要だった。一つは自由港。当時は契約保証金が必要だった。一つは地方駅。中央から閉鎖命令が出た。一つは国外船。乗船前に司法照会が入った」

「全部駄目」ハル。

「全部、誰かには使えた。全員には使えなかった」

「だから延長」

「最初の七十二時間が切れる前、私は設備票を更新した。主任印は返さなかった」

「住民へ聞いた?」

「延長することは」

「分類の意味を」

 ハルの声が低い。

 イヴァは彼を見る。

「全部は言わなかった」

「何を隠した」

「人員欄へ戻さなければ、乗降権、補償、教育、医療、裁判申立てが止まること」

「どうして」

「三日後に戻すつもりだった」

「三日目には」

「次の三日で戻すつもりだった」

「その次は」

「同じ」

 非常命令が、未来の善意を担保に延びる。

 今日返せない権利を、明日は返すと言う。

 明日が来るたび、また明日を使う。

「十一回で三十三日」とセレナ。

「その後は」

「中央が延長票を自動保守へ組み込んだ」

「なぜ」ヘスタ。

「この分類なら、名簿上の収監者が三十九人消える。拘束区の収容率は下がり、保護移送の未処理も消える。現場にとって都合がよかった」

「誰が自動化を」

「署名はない。保守変更票だけ。私は異議を三回出した」

 セレナが手を出す。

「写しは」

 イヴァは外套の内側から、薄い銅片を三枚出した。

 古切符へ穴で刻まれた申立て記録。

 文字ではない。

 受領穴。

 保留穴。

 却下穴。

「原本は運行局」とイヴァ。「一回目、保護継続を理由に却下。二回目、住民の氏名照合不能。三回目、管轄不明」

「管轄不明だから、誰も責任を持たない」とカイル。

「責任を持たないから、誰も終了できない」とエリア。

「私は終了できた」とイヴァ。

「どうやって」とオルサ。

「列車を公道へ出し、全員を旅客として申告する」

「追跡される」

「そう」

「ならできない」

「できないのではなく、私はしなかった」

 言葉を下げない。

 自分を救う説明へしない。

「住民の一部は、公表して裁判へ行きたいと言った。私は全員の安全が確保できるまで待つべきだと言った」

「誰が」とオルサ。

「名は言わない」

「私の弟か」

 イヴァの口が止まった。

 沈黙が答えに近すぎる。

「言え」とオルサ。

「本人が私へ名を公開してよいと許可していない」

「消えた!」

「だからこそ言えない」

「私には聞く権利がある!」

「あなたの権利と、本人の非公開は両方ある」

「死んでるかもしれない!」

「分からない」

 オルサが締結レンチを上げた。

 ハルは止めない。

 カイルも盾を出さない。

 イヴァも避けない。

 レンチは床へ落ちた。

 金属音が、鍋と配管を通って駅全体へ響く。

「お前が連れたのか」

「いいえ」

「止めたのか」

「はい」

「なぜ」

「一人が公道へ出れば、追跡者が駅の接続履歴を辿ると判断した」

「誰が判断した」

「私」

「本人は」

「行くと言った」

「お前が決めた」

「そうです」

 怒りが、イヴァから放送口調を奪う。

「私は、全員を守ると言って、一人の行き先を奪った」

 オルサの呼吸が荒い。

「その後、弟は」

「保守移動の夜に姿を消した。追跡票は出せなかった。駅の経路が出るから。私は、捜索列車を出さなかった」

「お前が」

「私が」

「守った?」

「守った人はいる」

「弟は」

「守れなかった」

「じゃ、全部間違いか」

「そう言えば、今生きている人の時間を私の罪へ使う。最初の救難は必要だった。延長も、ある時点までは必要だった。だが必要だったことは、説明しなかったことと、終了条件を住民へ渡さなかったことを消さない」

 ミラが壁へ寄りかかっている。

 銅色の髪の奥で目が細い。

「謝れば返る?」

「返らない」

「責任を取るって何」

「私の権限を渡す。記録を出す。裁かれる。必要なら運行から外れる」

「必要かどうか、誰が決める」

「住民と法廷」

「また法廷」オルサ。

「嫌なら、法廷へ行かない選択もある」

「その場合、ここの権利は」

「別の代表が申立てる」

「名なしで?」

「試す」

「試す、ばかりだ」

「完成した答えはない」

「三年前にもそう言ったか」

「言わなかった。私が見つけると言った」

「今は」

「一緒に決める、とは言わない」

 イヴァは視線を落とさない。

「私は、案内役から外れる」

 人が自分から権限を返す時、返された側は受け取る準備ができているとは限らない。

 車掌が降りれば、列車が自由になるわけではない。

 誰かが制動を扱わなければ、自由なまま脱線する。

「外れるって、何を」とテト。

 見習い車掌の声が裏返る。

「停車条件の決定。進路図の保管。三枚歯の使用提案。住民代表との連絡」

「全部」

「全部ではない。列車限界と事故情報は説明する。決めない」

「逃げてませんか」とテト。

 師匠と呼ぶ相手へ、最も痛い言葉を選ぶ。

「逃げている部分はある」

「じゃ」

「だから、外すかどうかを私が決めない」

 イヴァはオルサへ向く。

「あなたたちが決めて」

 オルサはすぐ答えない。

 駅の人々へ木片を配る。

 三つの鍋。

 一つ目、案内継続。

 二つ目、補助のみ。

 三つ目、完全離任。

 名を記さず、木片を落とす。

 音を数えるのはメラと、今は名のない少女と、フェル。

 イヴァは別室へ出る。

 自分に関する投票を見ない。

 結果。

 案内継続、三。

 補助のみ、二十九。

 完全離任、十一。

 棄権、四。

 全員一致ではない。

 だから結果が本物である。

「補助のみ」とオルサ。「お前は道を知っている。知っていることまで捨てるな。だが先に立つな」

「承知した」

「弟のことは、後で別に聞く」

「答えられる範囲を、あなたと決める」

「今は殴らない」

「期限は」

「決めない」

「承知した」

「何でも承知するな」

「拒否する権利もあります」

「腹が立つ」

「それは受け取る」