第479話 第十二章「切断命令」前編
無罪になった直後、人は何をするのか。
帰る。
泣く。
眠る。
酒を飲む。
失った年月を数える。
数えるのをやめる。
どれも正しい。
ただし、乗っている列車の外で千本の鎖が切れ始めた場合、正解にはもう一つ加わる。
次の仕事をする。
それは英雄的ではない。
世界は、個人の感情的な区切りへ運行表を合わせてくれない。
判決鐘が鳴った。
無罪が出た。
権利が認められた。
その三十七秒後、中央から切断命令が届いた。
『中央緊急運行命令』
法廷車の天井へ、白い文字が落ちる。
主電源は死んでいる。
非常雷板が一文字ずつ焼き付けているため、文面は遅い。
『全鎖網の連鎖崩壊を防止するため、周縁鎖の計画切断を許可する』
一文字。
『全住民、全車両、全救難資材を、中央第一避難圏へ集中せよ』
一文字。
『応答不能地域は、中央移送へ同意したものとして扱う』
一文字。
『各自治線の停止権、切断権、転轍権を中央へ一時返納せよ』
最後に、中央運行印。
発令者の個人名はない。
失効時刻もない。
切断対象の具体的な鎖番号もない。
命令は明確だった。
全員を、一か所へ。
明確であることと、十分であることは違う。
「受領」
イヴァ・レイルは言った。
車内の全員が彼女を見る。
「実行するの?」ハル。
「受領した」
「同じ?」
「違う」
「受領って、従うの手前?」
「読むために手へ取った」
「捨てたら?」
「誰かが拾う。読まずに捨てた責任も残る」
「じゃ、破る?」
「紙ではない」
「比喩」
「命令は比喩で止まらない」
イヴァは天井の文字を最後まで読む。
左耳を通信板へ向ける。
聞こえにくい側を向けるのは、命令を信じたからではない。
一語も聞き逃さず、後で「知らなかった」と言わないためだった。
「発令権限照会」とセレナ。
黒い羽根を中央印へ触れさせる。
返答。
『中央緊急運行』
「部署名を聞いていません。個人または合議体の名称、発令時刻、失効条件、異議先を」
『中央緊急運行』
「同じ文字」ハル。
「返答ではありません」セレナ。
「返してはいる」
「質問を受け取らず、定型文を送り返している」
「受領してない返答」
「言葉が増えましたね」
「今の褒めた?」
「観測です」
カイルが中央印を見上げる。
「王家緊急印はない」
「王命ではない?」
「少なくとも俺が知る発令手順じゃない」
「王様に聞けば」
「中央通信が死んでいる」
「王子の特権、使えない」
「特権は通信機じゃない」
「便利じゃない」
「最近ずっと言われてる」
カイルは深紅の半マントを拾う。
埃を払う。
着ない。
「王家の名で、命令を上書きすることはできる」
「する?」エリア。
「しない」
「なぜ」ハル。
「一つへ集める命令を止めるために、さらに大きい一つの命令を出したら、命令の内容だけ変えて構造を残す」
「じゃ、何も言わない?」
「言う。だが『全員、俺に従え』とは言わない」
「長くなる」
「王政は短い。短いから、長く人を縛った」
王が一言で軍を動かせることを、歴史は統率と呼んだ。
同じ一言で農地を焼けることを、後世は暴政と呼んだ。
違いは王の人格だと教科書は書く。
善王なら統率。
悪王なら暴政。
だが制度は、王の心へ検査窓を付けられない。
善人を前提にした強い命令は、悪人が座った瞬間だけ危険になるのではない。
善人が急いだ時にも危険になる。
中央第一避難圏は、過去に三度、多数を救った。
大雷雪。
鎖疫。
七島衝突。
一か所へ集めたから、食料を配れた。
一か所へ集めたから、医師を置けた。
一か所へ集めたから、生存者数を数えられた。
成功した避難は、次の災害で規則になる。
規則になった避難は、前回と違う人を数え損なう。
「中央第一避難圏までの距離」エリア。
「現在線で二刻半」とテト。「切断予定区間を通れば一刻四十分」
「何を切る」
「命令に番号なし」
「中央へ集めるために、どこを捨てるか書いてない?」ハル。
「捨てるとは書いていません」と政府代理人。
「切るって書いてる」
「計画切断です。孤立地域を自律浮航へ移し、全体の荷重を」
「孤立した後の電力、医療、水、食料は」サナ。
「各地域備蓄で」
「何日」
「地域により」
「学校車は」メラ。
「中央へ移送」
「移送中の子供の名簿は」
「中央で照合」
「旧名も?」
「安全確認に必要です」
「判決、聞いてた?」オルサ。
「非常時です」
「判決から一分も経ってない」ハル。
「状況が変わりました」
「人かどうかも変わる?」
「変わりません」
「じゃ、名前出さない権利は」
「安全確認の範囲で制限され得る」
「行き先は」
「全体救命のため中央へ」
「選ぶ権利は」
「避難後に」
イヴァの改札鋏はない。
それでも、何かを切る音がした。
実際には、彼女が舌を上顎から離しただけだった。
「避難後は、いつ来る」
放送口調ではない。
低い声。
「安全確保後」
「安全確保を誰が宣言する」
「中央危機対策部」
「今、その名で返答しない中央が?」
「通信障害です」
「失効時刻のない命令を、異議先のない中央へ返す。乗客はいつ降りられる」
「今は命が」
「命を先にする。だから聞いている」
イヴァは天井の命令へ左手を上げる。
「中央第一避難圏の収容上限」
「最新値を照会中」
「現在人数」
「照会中」
「重力固定炉の予備」
「照会中」
「水」
「照会中」
「疫病区画」
「照会中」
「無名者の受入手順」
「照会中」
「照会中へ全員を運ぶ命令を、明確と呼ぶな」
政府代理人は口を閉じた。
「線路を描く」
エリアが三枚の透明板を床へ置く。
一枚目。
まだ灯っている鎖。
二枚目。
暗くなった鎖。
三枚目。
返答のある生活地点。
「中央への最短線は」とカイル。
「描ける」
「描かない?」
「描く。最短線を、唯一の線にしない」
地図槍グリムリリーの先が、透明板へ白い線を走らせる。
中央第一避難圏。
太い線。
次に、学校車。
医療車。
保留車二両。
自由港の寝床。
残留生活車。
走る法廷。
細い線。
点線。
輪。
途中で切れた線。
「地図が汚い」と政府代理人。
「生活が一枚へ整列していないから」
「緊急時は単純化が必要です」
「単純化する項目を選ぶ者が、捨てる項目も選ぶ」
「全員を救うためです」
「全員とは、誰」
エリアの淡緑の瞳が上がる。
「中央へ到着できる人?」
「居住者全体」
「自力で列車へ乗れない人は」
「救護車を」
「救護車の電力は」
「優先配分」
「どの区間を切れば、救護車へ届く」
「運行局が判断します」
「運行局は、全員の生活を知っている?」
「報告を」
「返答不能地域は同意と扱う、と命令へある」
エリアは命令の一文へ、地図槍を向ける。
「知らない場所を、賛成へ塗った」
「時間がない」
「時間がないから、空白を同意で埋めた?」
「救命上の推定です」
「推定の向きが、いつも中央なのはなぜ」
返答はない。
地図において、中央は自然現象ではない。
紙のどこを中央に置くか、描く者が決める。
国は首都を中央と呼ぶ。
列車は運転席を先頭と呼ぶ。
人間は自分の胸から右と左を決める。
中央第一避難圏が世界の中央なのではない。
命令を書く机から近かった。
「各地へ照会」
イヴァが言った。
「何を」とテト。
「行き先」
「通信、切れ始めてます」
「切れる前に」
「全員分は無理」
「全員へ同じ質問を送る。返答は地域ごとでいい。個人が別を望む場合の窓口も残す」
「質問文」
イヴァは一拍、飲み込む。
次の停車を言う前の呼吸。
「中央第一避難圏へ移動を希望するか。現在地または別の場所を希望するか。判断を保留するか。救命上、返答を待てる期限は何分か」
「四つ?」ハル。
「三つと期限」
「中央。別。保留」
「別には現在地を含む」
「もっと選択肢ある人は」
「自由記述」
「字を書けない人は」
「形信号」テト。「中央は円。現在は四角。別地点は三角。保留は横線。救助要請は二重輪」
「色なし?」
「色も使う。でも形を先に」
「声を出せない人」とサナ。
「扉へ叩く回数」
「意識がない人」
イヴァの右手が震える。
「医療代理。期限付き。搬送後、本人が選べる状態へ戻り次第、再確認」
「死亡した人」
「遺体の移送希望を家族または地域手順へ。家族が不明なら、保留」
「保留ばっかりだな」とロロ。
「保留は倉庫じゃない」イヴァ。
「知ってる。だから保留中の電力と飯、誰に請求すりゃいい」
「命令を出した中央」
「返答しねえぞ」
「王家へ半分」とカイル。
「勝手に半分?」
「王家負担の申出だ」
「残り」
「運行局、地域基金、救難基金。比率は公開協議」
「今、金の話?」ハル。
「今する」とロロ。「無料で保留できると思った瞬間、誰かの給料か食事が消える」
「保留にも値段」
「値段を払えないと保留できない制度にはしねえ。払う奴を先に決める」
「難しい」
「難しいから、中央一か所が楽に見えるんだよ」
行き先を他人に決められること〈チケット・ロスト〉。
雷鎖環の俗語だった。
切符を落とした、という意味にも聞こえる。
実際には、切符を持っていても起きる。
時刻表が先に決める。
保護命令が先に決める。
効率が先に決める。
多数の安全が先に決める。
本人の行き先だけが、切符から落ちる。
イヴァは三年前、火の列車を救難線へ入れた。
命を救った。
その後、行き先を失わせた。
今度は、命を救うための命令が、同じ穴を開けようとしている。
「照会、送信!」テト。
形信号が、残る雷鎖へ走る。
第一応答。
学校車。
メラが通信鏡へ現れる。
右頬の活字インクは、朝より濃い。
停電した教室で、手書き教材を増やしたのだろう。
『中央へ移動、希望しない』
「理由」と政府代理人。
『子供九人のうち四人が、中央照合を拒否。三人が移動酔い。二人が中央に家族を探したい』
「割れている」ハル。
『だから車両単位で一票にしない』
「九人を分ける?」イヴァ。
『安全に分けられるなら。今は連結を維持し、中央希望の二人へ個別路を探す。拒否四人は旧名照合なしの受入先。三人は医療判断』
「先生の希望」
『学校を続ける』
「場所は」
『子供がいる場所』
「中央でも?」
メラは少し考える。
『条件が守られるなら』
「条件」
『名前を入場料にしない。出る切符を先に渡す。授業を収容管理へ使わない』
「受領」
イヴァは鋏を鳴らせない。
代わりに、左手の指で机を一度叩く。
第二応答。
医療車。
映像はない。
呼吸音と、金属器具の触れる音だけ。
『中央、現時点で不可』
「理由」サナ。
『移送不能三名。重力角変更不可二名。中央の受入圧、未確認』
「電力残量」
『四十七分』
「四十七人の四十七と関係ある?」ハル。
「ない」と全員。
『ただし、隣接工業車の予備炉を接続できれば三刻』
「工業車の希望」テト。
『中央移動。家族がいる』
「炉だけ借りる?」
『車両を止める権利はない』
サナが赤い手袋を引く。
「患者を中央へ運べば、工業車は出られる」政府代理人。
「運べないと言った」
「危険を取っても全体を」
「誰の危険を、誰が取る」
「医師が判断を」
「私は患者の身体を判断する。工業車の家族と、患者の行き先を一人で交換しない」
「では電力が尽きる」
「四十七分ある」
「短い」
「三十秒を九十四回だ」
「能力で延命を?」
「治療じゃない。計算の話だ。四十七分を『もうない』と呼ぶな」
サナは通信へ顔を近づける。
「医療車、患者本人または代理へ確認。工業車、炉の切離し可否と帰路条件を確認。両方へ、交換でなく時間貸与案を出す」
『受領』
「三十秒後、経過報告」
『四十七分あるのに?』
「最初の三十秒で、誰が話を聞いていないか分かる」
通信が切れる。
第三応答。
保留車、一号。
横線だけが返る。
「保留」とテト。
「期限は」イヴァ。
横線。
その下に、三つの点。
「三分?」
「違う」テト。「あそこの符号、三回確認しても保留」
「期限なし?」
「期限を決めることも保留」
政府代理人が首を振る。
「非常時に無期限は認められない」
「救命上の期限は、こちらが示す」とイヴァ。「三分後に線路状態が変わる。そこまでに返答がなければ、現在地維持と最寄り安全線への自動退避、どちらが身体的に安全かを説明して再照会」
「結局、代理判断」ハル。
「する場合がある」
「嫌いなのに」
「嫌いだから、期限と理由と撤回先を付ける」
「しないのが正しいんじゃない?」
「しないと落ちる時がある」
イヴァの右手が震える。
「代理判断を悪と呼んで逃げれば、判断されなかった人が落ちる。正義と呼んで握れば、降りられなくなる」
「じゃ、何て呼ぶ」
「借りる」
「何を」
「本人の行き先を決める時間を、一時だけ」
「返さなかったら」
「盗み」
「切符泥棒」
「そうだ」
第四応答。
保留車、二号。
『中央へ行く』
オルサの眉が動く。
「全員?」
『六人中五人。一人は残る』
「残る人の安全」
『生活車へ移る』
「生活車の受入」
『確認済み』
「中央へ行く五人の条件」
『戻る切符。名前を公開しない。家族照会は本人が一件ずつ許可。中央が満員なら、勝手に別収容所へ送らない』
「中央、条件を受ける?」テト。
照会。
返答なし。
「返答がないから同意?」ハル。
「違う」とイヴァ。
「命令には、そう書いてる」
「こちらは書かない」
「条件未成立」とセレナ。
「でも五人は行きたい」
「希望と受入契約は別。希望を記録し、中央が条件を受けるまで発車しない」
「鎖が切れたら」
「別経路を提示」
「間に合わないかも」
「その危険も伝える」
「選ばせるだけで重い」
「軽い選択肢だけを並べるのは、選択じゃない」
第五応答。
自由港。
映像の端で、鳴らない風鈴が揺れている。
ミラ・ベルウェザー本人は映らない。
赤茶の手袋だけが、通信台へ一枚の硬貨を置く。
『無署名救難路、開く』
「中央への移送は」イヴァ。
『希望者だけ。契約不要。帰路費用、後払いも不要』
「無料?」ロロ。
『救難基金へ請求。金が尽きたら、船長会の共同修理費を止める』
「船が壊れる」
『人より後』
「その後、船がなくて救えない」
『だから請求書を中央と王家へ同時送付』
「成立」とカイル。
『王子が言うな。支払い印を』
カイルが王家負担の暫定印を押す。
『半分』
「全部は権限を買う」
『覚えたな』
「高い授業料だった」
『まだ未払い』
通信が切れる。
硬貨だけが映像へ残る。
第六応答。
残留生活車。
オルサが、自分の通信器を取る。
「私だ」
『見えてる』
「中央へ行く者」
『十二人中三人』
「残る者」
『七人』
「足りない」ハル。
『二人は、家族連絡がつくまで決めない』
「鎖状況」
『生活車の外側二本、暗い。内側一本、生きてる』
「水」
『一日半』
「食料」
『四日』
「重力固定」
『六刻。予備を学校車と分ければ四刻ずつ』
「分ける?」
『学校車の返答待ち』
「待てる期限」
『一刻』
政府代理人が言う。
「中央命令に従えば、計算は不要です」
通信の向こうで、誰かが笑った。
『計算が不要になるんじゃない。中央が計算を持っていくだけだ』
「中央には全域情報が」
『私たちの水の樽、最後に数えたのは誰だ』
「地域報告で」
『昨日、樽が一つ漏れた。報告線は暗い。中央の数字には、まだ水がある』
「現場情報を更新すれば」
『更新する。だから、今ここで決める』
オルサは締結レンチを床へ置く。
「生活車。中央三、残留七、保留二。変更可能」
『記録』
「私の希望は」
通信の向こうが静かになる。
オルサは法廷にいる。
生活車へ帰る道はある。
中央へ行き、旧記録を争う道もある。
「法廷列車へ残る」
『許しを取りに?』
「許さない記録を残す」
イヴァはオルサを見ない。
見ることで返事を要求しない。
『受領』
通信が切れる。
「六つの返答、全部違う」とハル。
「同じ質問へ、別の生活が答えた」とエリア。
「中央へ集める方が速い」政府代理人。
「速い」とイヴァ。
「なら」
「速いだけだ」
「災害では速度が生死を」
「速度は必要。方向も必要」
「方向を選ぶ時間がない」
「誰が選ぶ」
「中央」
「中央の誰」
返答は、また定型文だった。
『中央緊急運行』
イヴァは命令板へ左手を置く。
「受領した」
「実行を」と政府代理人。
「未実行」
「命令拒否」
「違う」
「従わないなら拒否です」
「切断対象、収容上限、失効時刻、発令者、異議先が欠ける。実行条件未成立」
「緊急命令は詳細を後置できる」
「後はいつ」
「復旧後」
「切った鎖は、復旧後につながる?」
「再架設を」
「落ちた人は」
「最善を」
「最善という駅は、どこだ」
放送口調が消える。
「地図を出せ」
政府代理人が黙る。
「中央第一避難圏の地図は提出済みです」
「そこまでの途中を」
「運行図に」
「暗くなった後を」
「予測図を」
「返答不能地域を同意にした根拠を」
「全体救命」
「全体の中の誰を数えた」
「統計上――」
「名前はいらない。人数を」
「集計中」
「集計中へ、切断許可は出さない」
「あなたに許可権はない」
「私一人にはない」
イヴァは法廷車の壁へ掛けられた六つの空袋を見る。
予備切符鋏の六部品は、各代表が持っている。
「切断鍵も、一人では回さない」
「中央命令です」
「中央へ返納しない」
「反乱と判断され得る」
「判断者名を」
「中央緊急運行」
「人名を」
返答はない。
法廷車が揺れた。
右ではない。
左でもない。
重力が、床から斜めへ滑る。
「鎖荷重、変動!」テト。
「角度」ロロ。
「十二度、十七、二十!」
「構造床基準、二十度!」ティア。
今度は参照点がある。
「全員、構造床の黒線側へ重心。手すりを持つ。移動不能者は、その場を申告!」
「その場!」サナ。
赤い手袋で、判決書記の肩を支える。
「右手首痛、筆記不能!」セレナ。
「申告受領。左側へ座れ」
「左眼が」
「私が右へ立つ」
ティアがセレナの見えにくい側へ立つ。
自分の右膝を床の黒線へ寄せる。
長い着地で痛む膝。
隠さない。
「右膝、負荷制限。支えを」
ハルが手を出しかける。
「必要?」
「一拍だけ」
ハルはティアの左肘を支える。
自分の左肩へ力を入れない。
長い回復を経て、肩は日常動作なら戻っている。
だからといって、落下列車で他人二人を片腕へ吊れるわけではない。
回復は、無制限の許可証ではない。
「一、二、三」
ハルは数え、ティアと同時に次の手すりへ移る。
無言で飛び出さない。
「申告してから動いた」とイヴァ。
「成長」
「観測」
「セレナの言い方、移った?」
「感染性」
「言葉の病気?」
「あなたの比喩より安全」
重力角、二十八度。
証拠箱が滑る。
オルサが締結レンチを横へ噛ませ、箱を止める。
「空白判決、守れ!」
「空白を守る?」ハル。
「埋めたらぶん殴る!」
「物理的に?」
「比喩に聞こえるか!」
ロロの補助腕が天井裏へ入り、重力留めを手動で切り替える。
「中央固定へ接続してた補助が落ちた! 自車固定へ移す!」
「時間」カイル。
「十七秒!」
「盾は」
「構造へ全部張るな」とサナ。「人が落ちる場所だけ」
「了解」
カイルの王盾炎が、列車全体を包まない。
書記の背。
医療箱の下。
公開席の手すり。
割れた窓の縁。
小さな盾を、必要な場所へ置く。
「景気が悪い盾」とハル。
「予算配分だ」
「王族、何でも金にする」
「全部守ると俺が倒れる」
「倒れない方がいい」
「そこは同意が速いな」
「友達だから」
カイルの炎が一瞬揺れる。
「急に言うな」
「何で」
「集中が」
「王盾、右二歩!」エリア。
「了解!」
エリアの地図は、中央へ一本の太い線を引かない。
車内を小さな区域へ分ける。
人。
証拠。
医療。
運行。
それぞれ別の退避点。
重力角、三十五度。
ロロが叫ぶ。
「切替!」
がん。
床が戻る。
全員の膝が沈む。
列車は走り続ける。
「負傷確認」とサナ。
「左肩、平気」ハル。
「聞いてから答えろ」
「今聞いた」
「触診」
「必要?」
「医療上、必要」
「受領」
サナが肩を短く確かめる。
「亜脱臼なし。筋疲労。次の跳躍、補助索を使え」
「次も跳ぶ前提?」
「お前は跳ぶ」
「信頼」
「統計」
セレナが単眼鏡を直す。
「凪野ハルの無断跳躍率は――」
「記録しなくていい!」
「すでにあります」
重力が戻った後、ティアの通信札が鳴った。
学院混成実地救難班。
マオの文字。
『西棟避難開始。中央指示「前門へ」。前門が二つある。旧正門と仮設救難門』
続けて、オルトの短い字。
『指示待ち。現場は動ける』
ティアは反射的に口を開く。
「第一条――」
止める。
番号を自分から置けば、他人は二番目から話す。
「マオ。現在位置を」
『旧講堂南廊下。車椅子三、歩行補助六、担架一。私は仮設門が近い。オルト班は旧正門が近い』
「希望」
『私の班は仮設』
『こちらは旧正門』とオルト。
「分けられる?」
『通信が切れたら合流不能』
「合流は必要?」
少し間。
『点呼手順が一班前提』とマオ。
「手順を分ける。仮設門班はマオが点呼。旧正門班はオルト。互いの人数を開始時と到着時に送る。通信断なら、戻らない。各門で待機」
『隊長は』
ティアの右親指が、双規刃の目盛りをなぞる。
「私は法廷列車。今はそちらの隊長ではない」
『でも規則を』
「案を出した。採用するかは現場で」
『第一条さんが弱気』
「強気で距離は縮まらない」
マオの返答が、一拍遅れる。
『採用。仮設門班、構造床の青格子側へ。旧正門班は?』
『旧校章側』とオルト。
「前と言うな」とティア。
『了解』
通信が切れる。
ティアは自分の報告書へ一行書く。
『号令を二つへ分けた。全員を同じ出口へ集めなかった』
それは成功報告ではない。
到着確認はまだない。
結果を先に完成させない。
「中央命令、再送!」テト。
『切断開始まで、残り三分』
「誰が開始する」とセレナ。
『各自治線、受領後ただちに』
「中央が切るんじゃない?」ハル。
「切らせる」とイヴァ。
「権限は中央へ返せって」
「返納を命じながら、実行責任は現場へ置く」
「便利」
「事故後、中央は『各線判断』と言える。現場は『中央命令』と言える」カイル。
「責任が両方から落ちる」
「間へ」
「十三番みたい」
「同じにはしない」とイヴァ。
法廷車の前方壁が開く。
そこには千本の細い切断鍵が並んでいた。
実物ではない。
鎖網の各自治線から送られた権限表示。
青。
白。
暗灰。
形も違う。
青は、応答あり。
白は、命令受領。
暗灰は、通信断。
「一斉に回せば」と政府代理人。
「中央第一避難圏への幹線だけ残る」
「全体崩壊を防げる」
「予測上」とロロ。
「最善予測です」
「モデルへ入ってない地域負荷」
「現在把握できる範囲で」
「さっきの生活車の水樽、入ってたか」
「水は鎖荷重へ」
「漏れた分、重量が減る。重力固定炉の燃料配分が変わる」
「微量です」
「千地域の微量を、中央は全部知ってる?」
「だから集中させる」
「知らないから、知ってる場所へ運ぶ?」ハル。
「管理可能な範囲へ」
「管理できない人は」
「管理可能になる」
「人が管理に合わせる」
「災害です」
「災害って、質問の答えじゃない」
残り二分。
イヴァは切断鍵の前へ立つ。
左手を上げる。
「六鍵照合」
オルサ。
メラ。
医療車代表。
自由港代表。
保留車代表。
法廷代表。
六つの通信が、完全には揃わない。
暗灰が二つ。
「揃わない」とテト。
「揃わないから中央へ返納」と政府代理人。
「違う」とイヴァ。
「手続不能なら緊急代行を」
「誰が」
「主任車掌」
「私は主任車掌ではない」
「資格停止は無罪判決で」
「旧資格が自動で戻る判決ではない」セレナ。
「緊急時の実務上」
「実務で肩書を復活させ、事故後に責任だけ個人へ残す?」
「では王太子が」
「やらない」とカイル。
「星律官」
「司法は列車を運転しません」
「地図師」
「道を示す。行き先を決めない」とエリア。
「救護医」
「身体的に待てない者の一時代理だけ」とサナ。
「修理工」
「請求書が先だ」ロロ。
「少年」
全員がハルを見る。
「俺?」
「あなたはいつも勝手に」政府代理人。
「今日はしない」
ハルは赤いマフラーを結び直す。
「何で」
「勝手に走ると、イヴァに怒られる」
「理由が私?」
「あと、みんなの行き先、聞いたから」
「聞けば走らない?」
「違う方向へ走る人を、一つに押すのは無理」
「力でなら可能です」
「それ、救助じゃなくて運搬」
政府代理人は沈黙する。
残り一分。