第492話 第六章「否決された条約」後編
二つ目の説明会。
戦争被害者の家族。
公開を拒否。
音声記録も拒否。
トーヴは出来事帳へ「会合あり」だけを書く。
ユノは、アルマを持たず入る。
「記録を出したのは、あなたですね」と声。
「はい」
「父の名が載っていた」
「はい」
「父は命令を受けた兵士だった」
「記録には、実行責任者として」
「分かっています」
「すみません」
「謝れば、父は無罪?」
「なりません」
「有罪?」
「僕が決めません」
「何のために出した」
「隠された被害を公にするため」
「被害者の町では、父の姓を持つ家が石を投げられた」
「公開後の保護が不足した」
「不足?」
声が鋭くなる。
「言葉を整えるな」
ユノは、口元の微笑みを消す。
「俺は、出せば人々が真実を見て、個人責任を分けると思った。順番を間違えた。守る仕組みなしに名を出した」
本気の時だけ、一人称が変わる。
「父のしたことを消してほしいんじゃない」
「はい」
「家を燃やされないで、父を責めたい」
「その条件を、条約へ書けていなかった」
「書いたら賛成すると思う?」
「分からない」
「やっと」
扉が開く。
説明会は終わり。
ユノは、相手の顔を見ないまま退出する。
顔を知らないことを、理解が浅い理由にしない。
三つ目。
境界市場の商人。
彼らは、条約の和平には賛成だった。
だが鏡門監査の統一規格に反対した。
「密輸ができなくなるから?」リゼ。
「姫さん、正直だな」
「姫じゃない」
「じゃ工芸学生」
「今は諮問員」
「肩書増えた」
「減らしたい」
商人は笑う。
「密輸もある。だが、統一規格は大商会だけ払える」
「小商人向け免除」とユノ。
「免除を申請する書類が二十八枚」
「十六枚へ減らした」
「十六を少ないと思う王子」
「僕も多いと思った」
「じゃ何で」
「不正防止の項目を足したら」
「増えた」
「はい」
「全部正しい項目?」
「たぶん」
「正しい紙に潰される」
ユノは、自分の条約冊子を開く。
厚い。
トーヴの脚注を含め、四百八十二頁。
「要約版を」
「要約で削った条件が、小商人の例外だった」とトーヴ。
「脚注卿、今言う?」
「投票前にも言いました」
「僕が、誤解を避けるため正文を優先した」
「結果、読める者が限られた」
「簡単にすれば消える人がいる。詳しくすれば読めない人がいる」
「両方作る」とリゼ。
「簡略版と正文」
「それだけじゃ、簡略版だけ読まれる」
「読み上げ版。触図版。例ごとの版。反対意見版」
「いくつ作るの」
「必要なだけ」
「時間」
「次の投票を急がない」
ユノは言う。
急がないという決断が、和平を遅らせる。
その遅れで、また被害が出るかもしれない。
慎重さには、慎重さの死者がいる。
それを忘れない。
だが死者の可能性を盾に、全員へ自分の案を飲ませない。
「停止期間中の救済だけ、別法へ切る」
「条約を分割?」トーヴ。
「全部がまとまるまで、無償家族通行を待たせない。被害者保護も」
「一括和平の象徴性は失う」
「象徴で人を待たせた」
「賛成」とリゼ。
「投票は」
「私一人」
「可決じゃない」
「知ってる」
夜。
ユノは、鏡へ背を向けて眠る前に、伝羽を書く。
宛先は、雷鎖環ガルド。
カイル・アークレイ。
友人と呼ぶには、互いに笑顔が外交的すぎる。
同盟者と呼ぶには、互いの王家を信用していない。
だから宛名は、肩書なし。
『条約は否決された』
『事実を示した。出典を付けた。幻像へ表示も付けた。反対者は、それでも反対した』
『彼らは真実を理解しなかったのではない』
『理解した上で、自分が失うものを受け入れなかった者がいる。別の者が失うものを、こちらが軽く書いたと知った者もいる』
『正しい提案は、同意を代行しない』
『急ぐなら、全員の最終判断を待つ必要はないかもしれない。だが、誰が選択肢を狭め、誰が損失を負い、いつ選び直せるかを隠すな』
『否決は、話を聞かなくてよいという許可ではなかった』
『僕は説明会へ戻る』
最後に、演出のない一文。
『君が王命を使うなら、君自身もその命令の損失に含めろ』
書き終え、ユノは右手薬指を揉む。
弦を押さえる指。
外交文書を書くよう矯正された指。
同じ指が、演奏と制度の両方で曲がらない。
「送る?」リゼ。
扉から顔を出す。
「読んだ?」
「兄さん、声に出してた」
「癖?」
「演説家」
「嫌な診断」
「送る前に聞く。カイルが王命を撤回して、混乱で人が死んだら」
「責任を負う」
「どうやって」
「分からない」
「王族、すぐ責任って言う」
「何と言えば」
「死者を戻せない。だから撤回の手順も書け、って」
ユノは文を一行足す。
『撤回文だけでは、人は走れない。代わりの道と、撤回後に誰が判断できるかを同時に渡せ』
「今度は長い」リゼ。
「必要?」
「必要」
「送る」
伝羽が、夜砂を飛ぶ。
雷鎖環。
法廷車の窓を、青白い雷が横切る。
王命は全車両を中央へ引いている。
病院列車の残り電力、二十一分。
北西貨物環の重力固定、三分。
ナミル群れの分割路は、赤い命令に押されて一つへ戻りつつある。
「伝羽」とテト。
「この嵐で?」カイル。
「鏡砂式。実物じゃなく、文面を鏡面へ反射送信」
「発信者」
「ユノ・ヴァレント」
「読む」
セレナが言う。
「私信です」
「今は公務に使う」
「本人の同意」
「末尾に『必要なら公開』」
「読んでから決めた?」ハル。
「先に末尾を見た」
「かしこい」
「王子だからな」
「そこで自慢?」
カイルは文面を読む。
一度。
二度。
左拳が、右籠手を叩く。
かつ。
かつ。
「条約、落ちたのか」とハル。
「落ちた」
「ユノ、平気?」
「平気と書いてない」
「じゃ平気じゃない」
「それも決めるな」
「そうだった」
カイルは最後の二行を見る。
『撤回文だけでは、人は走れない』
『代わりの道と、撤回後に誰が判断できるかを同時に渡せ』
「セレナ」
「はい」
「中央王命を撤回する」
「法的手段」
「王太子継承権による緊急異議。王命の効力を競合状態へ入れる」
「全線停止の危険」
「だから先に、付属命令を作る」
「内容」
「地域ごとの停車条件を有効化。保留を同意扱いしない。中央へ行かない車両を反逆としない。地方が使った物資を窃盗としない。匿名救難を違法輸送としない。医療代理は期限付き。俺の指揮権も終了時刻を持つ」
「損失」
「中央駅は空く。中央へしかない設備が使えない。地域格差が出る。小さな地域が判断を誤る。衝突が増える」
「それでも」
「一つの失敗で全域を落とさない」
「誰が判断」
「各車両、各地域」
「共通信号」
「まだ足りない」
「撤回できません」
「作る」
「時間」
「足りない」
「同じ答えです」
「だから、先に決めた部分だけ公開する」
カイルは深紅の半マントを外す。
「脱ぐ?」ハル。
「王太子をやめるわけじゃない」
「じゃ何」
「燃えやすい」
ロロの遠隔声。
『それ、今までずっと言いたかった!』
カイルは半マントを通信台へ置く。
王家の印は残す。
装飾は外す。
「撤回は、王家から逃げるためじゃない」
「王家の名で?」
「王家が出した命令を、王家の責任で止める」
声が低い。
「その後の混乱も、地方のせいにしない」
セレナが、空白付きの撤回文書を開く。
「空白」
「まだ決まっていない地域判断」
「残します」
「終了時刻」
「第六雷刻零分」
「短い」
「その後、俺の権限は切れる」
「王命撤回の効力は」
「継続。俺の現場指揮だけ終わる」
「自分を命令から外す?」
「損失へ含める」
王命の赤い光が、列車を中央へ引く。
カイルは、その光へ自分の印を重ねる準備を始めた。
まだ撤回していない。
撤回する、と決めた。
決断は、列車を止めない。
だが手順のない勇気より、一歩だけ先へ進んだ。