第491話 第六章「否決された条約」前編

投票で否決されたものは、間違いとは限らない。

 可決されたものも、正しいとは限らない。

 これは民主政治について語られる時、誰もが一度は口にする。

 そして自分の案が否決された時にだけ、たいてい忘れる。

 鏡砂環の人々は、鏡を信じてきた。

 鏡は、見たものを返す。

 返す像は左右を逆にする。

 逆にしても、嘘ではない。

 この国で政治を学ぶ子供は、最初にこう教えられる。

 同じ真実でも、向きが変われば、立つ場所も変わる。

 だが教訓は、教室を出ると標語になる。

 標語は、都合のよい時だけ掲げられる。

 賛成、四十二万一千九百八。

 反対、四十七万三千百十二。

 無効、二万六千四百四。

 保留票は、制度上存在しない。

 ユノ・ヴァレントは、巨大な鏡面掲示板を見上げた。

 白銀の髪。

 右眼は紫。

 左眼は金。

 黒い礼装には、幻像であることを示す白縁と同じ線が縫われている。

 今日は幻像を使っていない。

 結果を美しく見せる必要がなかったからではない。

 美しく見せることで、敗北の意味を自分だけ先に決めたくなかったからだ。

「見事な敗北ね」

 隣で、リゼ・ヴァレントが言う。

 銀黒のボブ。

 薄墨の面紗。

 鏡面を裏返した丸い飾り。

「見事かな」ユノ。

「数字は見やすい。敗北としては親切」

「兄を慰める言葉ではないね」

「慰めを要求した?」

「していない」

「じゃ成功」

 リゼは掲示板へ正面を向かない。

 三分の二角度。

 肖像画に収められる立ち方を避ける癖。

「条約は否決」

「見れば分かる」

「僕が言う必要がある」

「言わないと、誰が言うの」

「王府広報」

「『国民の理解が十分に進まなかった』って?」

 ユノの目元が、口元より先に崩れた。

「その文案は見た」

「使う?」

「使わない」

「じゃ言って」

 ユノは公開台へ進む。

 白いヴァイオリン・アルマを持っていない。

 演奏で呼吸をそろえない。

 音で感情の入口を整えない。

 自分の声だけで話す。

「和平条約案は、反対多数で否決されました」

 広場へ響く。

「結果を、情報不足として扱いません」

 ざわめき。

「説明不足はありました。条文の欠陥もあります。ですが、反対した方を、理解が足りない者とは呼びません」

 母音を長くしない。

 本気の声。

「この案を再提出するかは、まだ決めません」

「まず、何を失う案だったのか。誰がその損失を負うと書かれていたのか。書かれていなかったのか。反対票を入れた方から、聞き直します」

 拍手は、そろわない。

 数人。

 沈黙。

 罵声。

「遅い!」

「王家がまた時間を稼ぐ!」

「戦争記録を出したのはお前だ!」

「補償金は誰が払う!」

「鏡門を閉じた町は何で食う!」

 ユノは、拍手より罵声を聞く。

 聞いたことを、理解したとは言わない。

 条約案は、正しかった。

 少なくとも、条文の多くは。

 戦時の幻像へ出典表示を義務づける。

 記憶を奪った通行料を無効とする。

 被害記録を当事者の同意なしに外交宣伝へ使わない。

 鏡門封鎖で分断された家族に、無償通行枠を設ける。

 王家、軍、商会が持つ記憶庫を段階公開する。

 報復裁判を禁じ、個人責任と集団属性を分ける。

 正しい。

 正しい条文は、費用を消さない。

 無償通行枠を作れば、鏡門維持費を誰かが払う。

 記憶通行料を廃止すれば、それで生きていた技師と町が失業する。

 軍記録を公開すれば、記録に名がある兵士の家族が報復を受ける。

 被害補償をすれば、戦後生まれの納税者が負担する。

 段階公開にすれば、今すぐ全部を見せろという被害者は隠蔽だと感じる。

 全部公開すれば、見たくない当事者の生活へ記憶が押し戻される。

 正しさは、損失の消去術ではない。

 誰へ配るかを決める技術である。

「脚注を一つ」

 トーヴ・セルが言った。

 分厚い折り畳み眼鏡。

 墨色の長衣。

 袖には脚注札。

 彼は長机の椅子へ、今日の日付札を貼る。

「投票結果へ?」ユノ。

「あなたの『聞き直す』へ」

「どうぞ」

「誰が、何を、どの条件で話すか。全部公開の説明会へ呼べば、反対理由を公衆の前で演じることになります」

「匿名」

「匿名でも地域、職業、被害時期で特定される」

「では個別」

「個別記録を誰が保管する」

「君」

「拒否します」

「即答」

「鏡史官へ集めると、私が新しい中央記憶庫になります」

「では分散保管」

「地域側が報復へ使う可能性」

「何をしても危険だね」

「はい」

「嬉しそう」

「正確な問題は、曖昧な成功より少し嬉しい」

 トーヴの眼鏡が曇る。

 笑った。

「僕は今、笑わせた?」

「観測です」

「セレナの言い方が遠くまで」

「感染性でしょう」

 ユノは椅子へ座る。

 右手薬指が完全に伸びない。

 投票前の演説で長く弓を持ち、腱が熱を持っている。

 今日は演奏しなかった。

 それでも指は痛む。

 身体は、使わなかった技術の記憶まで痛ませることがある。

「反対者を、七つの場へ分ける」とリゼ。

「分類する?」ユノ。

「話す場所を選べるようにする」

「七つ」

「公開広場。非公開小室。文書。音声だけ。代理人。何も話さない。後日」

「後日は話すと決めてない」トーヴ。

「じゃ、後日また選ぶ」

「八つです」

「脚注卿、数えないで」

「数えないと、後から一つにされます」

「じゃ八つ」

「保留票を制度へ入れる?」ユノ。

「今回の投票にはなかった」リゼ。

「保留が増えれば、可決条件は」

「難しくなる」

「条約が成立しない」

「成立させるための投票?」

 リゼの母音が短くなる。

「違う」

「じゃ入れて」

「制度改正から?」

「条約より先」

「遅い」

「遅いよ」

「でも、今日反対した人を、次だけ賛成扱いにするよりいい」

 ユノは、掲示板の無効票を見る。

 二万六千四百四。

 記入不備。

 複数選択。

 白紙。

 破損。

 その中に保留したい者が何人いたか、分からない。

「無効を、無意思と呼ばない」

「記録」とトーヴ。

「今のは決定じゃない」

「解釈として」

「解釈帳へ」

「出来事帳には、あなたが言った事実だけ」

「二冊、面倒じゃない?」リゼ。

「面倒でなければ、混ぜます」

 最初の説明会は、鏡門技師組合だった。

 条約に最も反対票が多かった職域。

 会場は工房。

 鏡片。

 砂。

 熱。

 ユノの礼装は、五分で白い粉をかぶった。

「殿下の服、外交設備じゃなかった?」リゼ。

「今日は作業着として請求する」

「王家会計が泣く」

「泣く権利を認める」

 技師たちは笑わない。

 年配の技師が、壊れた鏡門歯車を机へ置く。

「記憶通行料を廃止する。賛成だ」

「反対票を?」ユノ。

「入れた」

「理由を」

「聞く前に一つ。お前は何を想像してる」

「通行料収入がなくなり、技師の賃金と町の維持費が失われる」

「半分」

「残り」

「廃止後も、王家が鏡門を使う。軍も商会も使う。だが料金は国庫から一括支給。支給基準を決めるのは王都だ」

「中央依存」

「今は利用者から取る。悪い制度だ。だが門が壊れた日、現場が料金を止めて修理へ回せる」

「国庫支給なら」

「予算停止で町ごと死ぬ」

「条約案には地域保全基金を」

「三年」

「暫定」

「門は三年で古くならない?」

 ユノは答えられない。

「僕は、悪い料金を消すところまで書いた。消した後、現場が中央へ従属する期間を短く見積もった」

「正解を言いに来た?」

「違う。今、聞いて知った」

「条約を直す?」

「あなたが賛成する形へだけは直さない」

 技師の眉が動く。

「他の人が失うから」

「少しは王子らしくなくなった」

「褒め言葉?」

「請求書」

 壊れた歯車の修理費が渡される。

 ミラなら喜びそうだ、とユノは思う。

「これは条約費用?」

「説明会で工房を止めた損失」

「払う」

「王家から?」

「個人費」

「衣装費を設備にする男が」

「酸っぱい葡萄を一か月減らす」

「安い」

「二か月」

「成立」

 交渉は、条約より小さいところから始まる。