第505話 第一章「明日の殺人」前編

未来を先に知りたいという願いは、たいてい過去を忘れたいという願いより礼儀正しい顔をしている。

 昨日の失敗を消してくれ、と頼めば、人は危うさに気づく。

 明日の失敗を防いでくれ、と頼めば、人は賢さだと思う。

 しかし、まだ起きていない出来事には、被害者も、証人も、責任者もいない。

 そこへ「この人が殺す」「あの人が死ぬ」という札を先に置けば、未来は予測される前より、ずっと歩きやすい道になる。

 常夜と夢売買の空域〈ネムリア〉は、その道を世界で最も早く舗装した土地だった。

 眠った子供が見た火事を町の警報へ変える。

 船乗りの悪夢から翌日の風を読む。

 患者が口にできない痛みを、夢の色として医師へ渡す。

 夢を記録・売買する灯網〈ドリーム・グリッド〉は、最初、忘れられていた苦痛へ名前を与えるために作られた。

 やがて、苦痛へ名前を与える機械は、まだ存在しない苦痛へも名前をつけ始めた。

 凪野ハルは、自分の左手でエリアを刺した。

 白い階段だった。

 階段の左右には橙色の紙灯籠が浮かび、夜の風もないのに一つずつ回っている。

 紙の擦れる音。

 遠い鐘。

 誰かが走る靴音。

 エリアは階段の七段上にいた。

 濃紺の三つ編み。

 右肩だけの白いケープ。

 淡緑の瞳。

 彼女が振り返る。

「ハル」

 呼び方だけが、いつもと同じだった。

 いつもなら、その次に命令が来る。

 止まりなさい。

 右へ。

 低く。

 先に飛ばない。

 夢のエリアは、何も言わなかった。

 ハルの左手には、細い刃があった。

 刃元に星形の穴。

 白い柄。

 親指の付け根から掌へ斜めに走る、浅い傷。

 そんな傷は、ハルにはない。

 だが夢の中で、知らないという知識は役に立たない。

 夢は説明を拒まない。説明そのものを必要としない。

 手が進む。

 エリアの胸へ。

 刃が白いケープを裂く直前、階段の上の時計が鳴った。

 針は、四時十七分。

 一度。

 二度。

 三度目の鐘より先に、エリアの影が倒れた。

 身体ではない。

 影だけが、階段を滑り落ちた。

 橙色の紙灯籠が一斉に消えた。

 最後に残ったのは、自分の手だった。

 左手。

 傷。

 刃。

 そして、匂いがなかった。

「――起きろ!」

 誰かが叫んだ。

 ハルは右手で床を叩き、跳ね起きた。

 左肩に痛み。

 日常動作では出ない程度の、古傷の警告。

 寝台から転げ落ちた時に全体重を預けたらしい。

 ゼロスター号の食堂。

 卓上には食べかけの塩柑橘。

 ロロが分解していた小型時刻脈。

 セレナの複写紙。

 カイルが盗んできたのではなく正式に買った焼き苺。

 窓の外は、星のない灰色の空だった。

 夢灯環へ入る前の薄明航路。

 まだ常夜ではない。

 エリアが向かいの椅子から立っていた。

 地図槍へ変形する前の白い日傘を、横向きに構えている。

「動かないで」

「起こしてから?」

「起きた後に動く人へ言っています」

「俺、寝てる時も動く?」

「椅子を一脚倒した」ロロ。

「安い方?」

「船の椅子に安い方なんかねえ。全部修理した俺の手間が乗ってる」

「じゃ高い」

「お前の理解、通貨換算だけ速いな」

 ハルは笑った。

 笑いながら、配達鞄の上に置いた零星針へ手を伸ばす。

 蓋を一度。

 二度。

 三度。

 四度。

 五度目を弾く前に、エリアが指先を置いた。

「開かない」

「まだ聞いてない」

「聞きたい顔をしているわ」

「顔、便利だな。俺が喋らなくてよくなる」

「あなたが喋らないと、周囲が勝手に意味を足す。便利ではなく危険です」

 カイルが床から身を起こした。

 王太子の深紅の半マントを毛布代わりにしていたノクスが、抗議するように二本尾で彼の顎を叩く。

「いて。景気の悪い起こし方だな」

「見た?」ハル。

「苺を食べる夢なら毎晩見たい」

「具体的な食べ物」セレナが言った。

 カイルの笑みが止まる。

 恐怖を隠す時ほど、彼は料理の話を具体的にする。

「見た」とカイル。

「どこまで」

「白い階段。橙の灯籠。エリア。お前の赤いマフラー。刃物」

「時計」

「十一時四十二分」

 ハルはエリアを見る。

「俺は四時十七分」

「私は七時三分」

 ロロが青いゴーグルを額から下ろした。

「二時五十一分」

 セレナは複写紙へ書く。

「九時八分」

「ノクスは」

「ナァ」

 二本の尾が逆方向を指す。

「見たって」ハル。

「見てないって」とロロ。

「時計が二つあった、かもしれません」とエリア。

「全員、翻訳を停止」セレナ。

 ノクスが一人ずつ噛んだ。

 セレナだけは外套を引いて避ける。

「本人による訂正です」

「何を訂正した?」ハル。

「全員」

「広い訂正だな」

 食堂の奥で、機関が低く鳴っている。

 修理を終えたばかりの片帆が、薄明航路の横風を受ける。

 雷鎖環の千鎖断線から二十一日。

 ハルの左肩は、医務札の「全荷重禁止」から「連続懸垂禁止」へ変わった。

 エリアの両踵は腫れが引き、路図を三層まで展開できる。

 セレナの右手首は固定帯を外したが、長い筆記では熱を持つ。

 ロロの気管支は雷鎖の煤を吐き切っていない。

 回復とは、過去の傷を消すことではない。

 傷が生活の中心を、毎秒占めなくなることである。

 そのために彼らは、救援文を受け取っても三週間、すぐには飛ばなかった。

 送信時刻を調べた。

 距離を測った。

 緊急度を確認した。

 船を直した。

 身体を休めた。

 そして今、目的地の手前で全員が同じ殺人を見た。

「同じじゃない」とエリア。

「階段と灯籠と、俺が君を刺すところは同じ」

「時計が違う」

「時計だけ?」セレナ。

 彼女は複写紙を五列へ分ける。

「視覚」

 白い階段。

 橙色の紙灯籠。

 エリア。

 赤いマフラー。

 左手の刃。

 倒れる影。

「聴覚」

 紙の擦過音。

 靴音。

 鐘。

 エリアがハルを呼ぶ声。

「触覚」

 ハルは答えようとして止まる。

「刃の重さ、あった?」

「……分からない」

 エリアも首を振る。

 カイルは右籠手を叩こうとして、途中でやめた。

「風がなかった。灯籠は回ってたのに」

「痛みは」とセレナ。

「ない」

「温度」

「ない」

「匂い」

 全員が黙った。

 ノクスだけが鼻を上げる。

 燻製魚。

 機関油。

 塩柑橘。

 紙。

 カイルの苺。

 現実の食堂には、いくつもの匂いがある。

 夢には、一つもなかった。

 セレナは、同じものを見た五人へ、別々の卓を使わせた。

 相談を禁じる。

 互いの紙を見ない。

 夢にあったものだけを描く。

「絵心は証拠能力へ影響する?」ハル。

「しません。描けないものは言葉で」

「じゃ、エリアに地図で負けても無罪」

「競技ではありません」

 五枚の紙が並ぶ。

 ハルの階段は、七段目から上が暗い。

 エリアの階段は、手すりの角度まで細かいが、人物の顔がない。

 カイルの紙には灯籠の吊り索と、人々が避難できそうな横道が描かれている。

 ロロは時計の歯車と刃の星形穴を拡大した。

 セレナは自分の紙へ、見たものより「見えなかったもの」を書く。

『足元の影の数、不明』

『刃と手の接触面、不明』

『時計の設置方向、不明』

『声の発生源、不明』

「自分で描いて、自分で不明ばっかり」とハル。

「不明を書かなければ、空白へ知っている景色を足します」

「俺の紙、空白が多い」

「あなたは足した?」

 ハルは、赤いマフラーの下に描いた黒い輪郭を見る。

 顔。

 自分の顔のつもりだった。

 だが、夢で顔を見た記憶はない。

「……足した」

「どこから」

「鏡で毎日見るから」

「他には」

 父の声。

 ハルが道を失う夢では、しばしば父の声がする。

 姿は見えない。

 帰ってこい、とも言わない。

 ただ、名前を一度だけ呼ぶ。

 今回の夢には、なかった。

 エリアを刺す場面なのに。

 自分が最も恐れる未来のはずなのに。

 そこへ、自分の最も古い恐怖がいない。

「父さんの声がなかった」

 食堂が静かになる。

 カイルは慰めを言わない。

 エリアは理由を決めない。

 セレナだけが記録する。

「個人記憶の不足」と彼女。

「不足?」

「あなたの夢を深く再現した像なら、出現してもおかしくない要素。出ないことが証拠とは限りません。ただ、共有された像が個人の記憶より外部の共通情報を多く使った可能性」

「夢が浅い?」

「浅いという言葉は侮辱に聞こえる」とエリア。「表面を組み合わせた、の方が近い」

「表面だけで俺を犯人にした」

「まだ、夢がしたのか、人がしたのか分からない」

 ノクスが五枚の紙を順番に嗅ぐ。

 ハルの紙へ右尾。

 エリアの紙へ左尾。

 カイルの苺染みへ両尾。

「そこだけ判定が強い」ロロ。

「食べ物の事実性」とハル。

「証拠を食うな」

 セレナが紙を重ねる。

 一致した箇所は濃くなる。

 白い階段。

 十四の灯籠。

 倒れる影。

 左手。

 刃。

 時計は五つに割れた。

「全員が同じ未来を見たなら、時刻だけ違う理由が必要」とエリア。

「全員の時計が壊れてる」ハル。

「五人同時に?」

「この船ならありそう」

「俺の修理を夢の時計にまで疑うな!」ロロ。

「夢の時計、保証期間ある?」

「知らねえよ!」

 笑いが起きる。

 笑いの間だけ、紙の上の刃が止まる。

 止まったからといって消えない。

 だから彼らは、笑いを解決とは呼ばなかった。

「夢だからでは」とカイル。

「俺、カレーの夢だと匂いする」ハル。

「お前の夢は胃袋の広報が強すぎる」

「夢でも広告あるんだ」

「今のは笑うところ?」エリア。

「怖い時の冗談」とセレナ。

「記録しないで」

「記録対象です」

 ハルは零星針から手を離した。

「開いて、夢が本当か聞くのは?」

「問いが雑」とエリア。

「未来か、って」

「未来は場所でも物でもない。零星針が何を失われたものとして指すか不明です」

「じゃ、何を聞く?」

「今は聞かない」

「決めた?」

「提案です」

「命令みたい」

「あなたには提案も命令形で言わないと、返事の前に開くでしょう」

「開かない」

「今、私が指を置いています」

「共同不開封」

「言い換えて功績を分けないで」

 伝羽受けが鳴った。

 紙の翼。

 青緑の火。

 セレナが素手で触れず、黒い証拠札へ受ける。

 文面は、前に届いた救援と同じだった。

『全市民が、同じ殺人を夢で見た。現実の被害者は未確認。救援を求む。』

 その下に、新しい一行。

『予測対象、凪野ハル。被害対象、エリア・ルーンベルグ。発生予測、明日。』

 ハルは文字を読む。

 一度。

 二度。

「未確認なのに、対象は確認したんだ」

「矛盾ではない」とセレナ。「夢の像から役割を仮定しただけ」

「仮定って書いてない」

「そこが問題です」

 エリアの歩幅が半歩大きくなる。

 まだ動いていない。

 椅子の横で、次に踏み出す足だけが前へ出る。

「到着予定を繰り上げます」

「身体」とセレナ。

「問題なし」

「申告を」

「踵一。肺ゼロ。地図展開なし」

「ハル」

「肩一。内耳ゼロ。寝起き三」

「寝起きは傷ではありません」

「今、かなり邪魔」

「カイル」

「腹減り四」

「肋部」

「一」

「ロロ」

「喘息一。右眼二。椅子代八」

「椅子代は後で」とハル。

「お前の損害だけ未来確定だ」