第506話 第一章「明日の殺人」後編

 薄明航路の先で、空が夜になった。

 境界は壁ではない。

 光が一枚ずつ減る。

 遠い雲から色が抜ける。

 ゼロスター号の片帆に映る灰が、青緑へ変わる。

 ネムリア。

 無数の紙灯籠が、星の代わりに浮かんでいた。

 大きいものは家ほど。

 小さいものは指先ほど。

 眠る人の窓から、夢を入れる紙灯籠〈スリープ・ランタン〉が昇り、灯網へつながる。

 都市全体が、夜に浮かぶ巨大な呼吸器のようだった。

 灯籠が明るくなる。

 暗くなる。

 また明るくなる。

「綺麗」とハル。

「観光感想は後」とエリア。

「綺麗って言ったら事件が軽くなる?」

「ならない」

「じゃ今でいい」

 エリアは返さない。

 右手で三つ編みの地図針を外し、差し直す。

 不安。

 ハルは見ないふりをしなかった。

 見たが、意味を決めなかった。

 ゼロスター号は常夜境界で速度を落とした。

 灯籠が星の代わりになる空では、航海士は上を見ない。

 灯籠は風と眠りの深さで動く。昨日の北が今夜の北とは限らない。

 エリアは地図を出さず、船縁へ三本の小旗を立てた。

 灰――外界の風。

 橙――灯網の吸気。

 白――ゼロスター号自身の進行。

「地図屋が地図を使わない」とハル。

「使わないのではなく、まだ線にしない」

「違い」

「旗は観測。地図は関係の選択」

「旗三本でも、もう関係ある」

「だから、完全な中立などないのです」

 ロロが船腹の受信筒を開ける。

「救援文の続き、来たぞ」

 最初の一行は、雷鎖環を発つ前に届いたものと同じだった。

『全市民が、同じ殺人を夢で見た。現実の被害者は未確認。救援を求む。』

 続報。

『予測犯行者は異界人の少年。被害者はルーンベルグ公女。発生時刻は明日。』

「公女」とエリア。

 礼儀正しすぎる声。

「君、公女じゃないの」とハル。

「公家の娘です。公女は王族または公国統治家の娘へ使う語」

「夢、身分を間違えた?」

「市民向け表示が、理解しやすい肩書へ丸めた可能性」セレナ。

「丸めて人を刺すな」とロロ。

「夢は刺していません」

「まだ」カイル。

 彼の冗談が消える。

 ハルは夢の共通部分を、食堂卓へ物として並べた。

 白い紙――階段。

 橙の木片十四――灯籠。

 赤い紐――マフラー。

 小さな銀匙――刃。

 エリアの地図針――被害者。

「俺たち、同じ夢を見た」とハル。

「同じ像を受け取った」とセレナ。

「夢じゃない?」

「夢であることと、個人の内側から生じたことは別」

 セレナは時計の時刻を五枚へ書く。

 四時十七分。

 七時三分。

 十一時四十二分。

 二時五十一分。

 九時八分。

「全部、違う」

「夢の発生時刻が一つなら、時計は同じはず」とエリア。

「時計が飾りなら」とカイル。

「飾りにしては全員、読める位置にあった」

 ロロが卓上の小型時刻脈を分解する。

「受け手ごとの生活時刻へ合わせたとか」

「なぜ」ハル。

「自分の夢っぽくするため」

「俺、四時十七分に何かある?」

「地球の生活表を出せますか」とセレナ。

「母さんが起きる前。父さんがいなくなってから、たまに目が覚める時間」

「個人記憶を使った?」エリア。

「でも父の声はなかった」

 まだ、夢の中では気づいていない。

 ただ、思い出そうとした時、穴があった。

「匂い」とハル。

 卓の塩柑橘を割る。

 鋭い香り。

「夢にあった?」

「ない」とエリア。

「私も」とセレナ。

「俺は、紙の音と鐘だけ」とカイル。

「刃が近づいたのに、鉄の匂いがない」とロロ。

 ノクスが塩柑橘を嗅ぎ、くしゃみをした。

 二本尾でハルの手を叩く。

「夢、見た?」

「ナァ」

「匂いは?」

 ノクスは鼻を前脚で覆う。

「なかった」ハル。

「強すぎる」とエリア。

「柑橘が嫌」ロロ。

 ノクスは全員を噛もうとする。

「翻訳停止」とセレナ。

 ハルは卓上の物を一度片づける。

「同じ夢を見た。だから俺を閉じ込める。分かりやすい」

「分かりやすさは、正しさの代用品ではありません」とエリア。

「でも、俺も自分を見張りたい」

「夢を信じる?」

「違う。もし俺が怖くなって変なことするなら、止めてほしい」

「それは夢が犯行を予知したからではなく、今のあなたの状態を見て決めます」とセレナ。

「今の状態」

「睡眠不足、自己疑念、左肩痛。刃物所持なし。エリアへの敵意なし。逃走意思、未確認」

「帰りたい気持ちはある」

「それを逃走意思へ数えない」

 エリアが地図針を差し直す。

「夢と違う選択を一つ、今決めましょう」

「何」

「到着後、あなたの扱いを、あなた抜きで決めない」

「約束?」

「方針」

「最近、約束を避けるね」

「破れない言葉だけを約束にしないため」

 常夜の灯籠が一斉に暗くなる。

 都市が息を吸った。

 ゼロスター号の片帆が、見えない流れへ引かれる。

「灯網吸気!」ロロ。

 船が横へ傾く。

 カイルが右盾を出しかける。

「帆を守るな!」ロロ。「船体が回る!」

「何を守る!」

「人!」

 カイルは盾を床へ薄く出し、滑る卓と椅子を受ける。

 ハルは左肩を使わず、右手で白索を取る。

「エリア!」

「旗を見る! 橙だけ倒れている!」

「灯網の吸気へ船を合わせる!」

 白帆を半分畳む。

 船は抗わず、灯籠の呼吸へ一度乗る。

 数千の灯りが暗くなり、次に一斉に明るくなる。

 ゼロスター号は吐き出されるように港の上へ出た。

「歓迎が荒い」とカイル。

「町は歓迎していません」とセレナ。

「なら通常運行?」

「ネムリアでは」とエリア。「呼吸の中へ入っただけ」

 夢を売る都市は、空域そのものが眠っているように息をしていた。

 灯籠港の接岸輪へ、三隻の小型艇が待っていた。

 先頭艇に立つ女は、黒い半面紙をつけている。

 肩書札は夢灯都市危機局長、ユーディ・カンデラ。

 左右には保安員。

 その後ろへ、薄い青緑の寝癖髪をした小柄な少年。

 灰青と橙の服。

 長い袖。

 袖口の内側で、何十枚もの紙札が鳴る。

 背丈より長い杖。

 少年は、こちらを見ず、接岸台の椅子を一脚回した。

 背を壁へ。

 正面を出口へ。

「ソムナ・リルです」

 返事まで一拍。

「夢葬師見習い。呼び方は案内人で」

「先生じゃなく?」ハル。

「先生は、正しい場所を知っているように聞こえる」

「案内人は?」

「迷う仕事だと先に言える」

「気に入った」

「まだ頼まれてない」

「先払いの好感」

「返金できない」

 ソムナは苦い種を噛んだ。

 ユーディが証書を開く。

「凪野ハル。夢灯都市臨時危機条例により、発生予測時刻までの予防静置を要請します」

「拘束?」

「要請です」

「断れる?」

「断った場合、港への上陸を認めません」

「それ、断れるって言わない」

「法的には選択肢が二つあります」

「両方に鍵がかかってる」

「片方は船内です」

「広い檻」ロロ。

「私たちは夢を犯罪証拠と認めません」とエリア。

「犯罪ではなく、危険予測です」

「危険予測へ人名を入れた時点で、制度は人物評価をしています」

「明日、あなたが刺される像を全市民が見た」

「全員が同じ井戸の水を飲んだなら、同じ熱を出します。同じ熱は同じ未来ではない」

 ユーディの紙面がわずかに震える。

「では、刺される可能性を無視しろと?」

「確率、条件、出典、代替策を示して」

「緊急時に完全な説明は」

「完全でなくていい。不完全だと書いて」

 カイルが一歩出る。

 王太子の印章は出さない。

「俺が身元を保証する」

「王家の保証が予測を消すわけではありません」ユーディ。

「同感だ。だから命令じゃなく、保証だけ持ってきた」

「何を保証します」

「逃亡しない。調査へ協力する。必要なら俺も同じ場所へ入る」

「王太子を予防静置する法的根拠は」

「ない?」

「ありません」

「身分って不便だな。捕まる自由もない」

「殿下」とセレナ。

「冗談」

「具体的な食べ物ではないので恐怖隠蔽ではありません」

「分類するな」

 ソムナがハルを見る。

「僕は、静置を提案した」

 苦い種を噛んでいる。

「俺がやると思う?」

「分からない」

「夢を見たのに」

「夢を見てない」

「全市民じゃ」

「僕は自分の夢を見られない」

 その一文だけ、紙札より先に声が出た。

 ソムナは種を噛み直す。

「でも、あなたが眠らず、食べず、自分を疑い続ける方が危険だと思った。刺す危険ではなく、壊れる危険」

「静置で休める?」

「休ませる条件をつける」

「鍵のある部屋で?」

「出口を見える位置へ置く」

「開く?」

「今は、僕が鍵を持たない」

「それ、出口じゃなく絵だ」

「だから交渉する」

 ハルはエリアを見る。

 彼女はすぐに答えない。

「決めるのはあなた」

「最適解は」

「聞かないで」

「なんで」

「私が描けば、あなたはそれを道だと思う」

 夢の中で、彼女は何も命じなかった。

 現実のエリアは、命令しないことにも責任を持とうとしている。

 ハルは零星針の蓋へ触れない。

「期限」

 ユーディへ聞く。

「明日の予測時刻まで」

「俺の時計で?」

「都市標準時です」

「夢では全員違った」

「現実の時計は一つ」

「本当に?」

 ユーディは答えられない。

 ハルは左肩を回す。

「条件。寝る。食べる。調査結果を聞ける。エリアと話せる。扉の開閉記録をセレナが持つ。期限前でも根拠がなくなったら出る」

「受け入れます」

「あと一つ」

「何です」

「俺を犯人って呼ばない」

「予測対象と」

「長い」

「では、ハル」

「急に近い」

「あなたが肩書を嫌うのでしょう」

「嫌いだけど、距離の詰め方に加減がある」

 ユーディが初めて、少しだけ笑った。

 予防静置室は、牢より柔らかかった。

 壁は紙。

 床は厚い布。

 窓は灯籠格子。

 柔らかいものは、人を傷つけないとは限らない。

 刃を隠しやすい。

 音を外へ出さない。

 鍵の音まで優しい。

 ハルは椅子を自分で出口へ向けた。

 ソムナが少し驚く。

「案内人の仕事、取った?」

「知ってた?」

「出口は先に見る」

「同じ理由?」

「俺は逃げるため」

「僕は、逃げていいと忘れないため」

 扉が閉まる。

 外から、セレナが開閉時刻を読む。

 エリアは格子の向こうに立つ。

「明日までに出す」

「それ、約束?」

「目標」

「変えた」

「あなたの悪影響」

「良い方?」

「判定保留」

 彼女が去る。

 橙色の小さな灯籠が、天井から下りた。

 紙面に、夢の続きが映る。

 白い階段。

 エリア。

 左手。

 刃。

 時計の針だけが、今度は動いていた。

 明日の方へ。