第507話 第二章「夢と同じ街」前編

都市は、未来を防ぐために姿を変える。

 城壁を高くする。

 橋を落とす。

 井戸へ蓋をする。

 夜道へ灯りを増やす。

 その変化が正しかったかどうかは、起きなかった災害では証明しにくい。

 火事が起きなかったのは、石壁のおかげかもしれない。

 最初から火種がなかっただけかもしれない。

 壁が別の地区へ火を回したのかもしれない。

 予防は、成功するほど証拠を失う。

 だから人は、予防が効いたと見せる物語を欲しがる。

 白く塗られた階段、増やされた灯り、立ち並ぶ保安員。目に見える対策は、目に見えない安全より説明しやすい。

 夢灯都市の人々は、明日の殺人を防ぐため、今夜の町を夢に似せ始めていた。

「最初に確認します」

 エリアは接岸台へ降りると、地面を白い日傘の石突で二度叩いた。

 出発前に踵を二度鳴らす母の路祖礼。

 この土地では踵を鳴らすと眠りを起こすと嫌われるため、石突へ置き換えた。

「私は被害者ではありません」

 危機局長ユーディ・カンデラが紙面を持ち上げる。

「現時点では」

「現時点でも、被害予測対象です」

「言い換えで危険は減りません」

「言い換えで人の扱いは変わります」

「刺された後なら同じです」

「刺される前だから違うのです」

 ユーディは黙った。

 夢灯都市の役人は、沈黙を眠気と誤解されないため、考える時に人差し指で紙面を三度叩く。

 一度。

 二度。

 三度。

「あなたを保護宿舎へ移します」

「宿舎の位置を見ます」

「非公開です」

「私には」

「夢に映った本人へ場所を知らせることは」

「私が私を襲う可能性まで予測していますか」

「同行者へ漏れる可能性があります」

「同行者のうち一人は拘束中です。残りは王太子、星律官、修理工、小型夜獣」

「夜獣は保護情報の守秘契約へ署名できません」

「ノクスを情報漏洩経路として数えた最初の役所ね」

「褒められていますか」

「判定保留です」

 エリアは地図筒を開いた。

 ネムリアの空は、地図に向いていない。

 太陽がない。

 星がない。

 高い灯籠が風で流れる。

 家々は夢の売買量に合わせて灯りを増減させ、夜ごとに外観が変わる。

 しかし地図に向いていない場所は、地図が要らない場所ではない。

 むしろ逆だった。

 変わる場所ほど、何が変わったかを残さなければならない。

「現地図。夢像。改修予定。三層で出します」

「連続展開は踵三まで」とセレナ。

「現在ゼロ」

「肺」

「ゼロ」

「虚偽」

「常夜境界の気圧差で一」

「訂正を記録」

「あなたは私の医師ではない」

「同行記録官です」

「記録官が身体を記録しすぎると、医療記録になるわ」

「本人申告欄です」

「反論すると頁が増える仕組みね」

「正確です」

 ロロが二人の間へ工具箱を置いた。

「会話だけで帳簿を太らせんな。運ぶの俺だぞ」

「対価を払います」とエリア。

「そういう正論で黙らせるの、貴族のやり方だ」

「では値切ります」

「もっと悪い!」

 灯籠街は、眠っているようには見えなかった。

 眠りを売る町は、起きている人間の仕事でできている。

 夢を買い取る店。

 悪夢を短く切る工房。

 亡くした家族の声だけを貸す屋台。

 試験前の一夜だけ、熟練職人の手つきを見せる劇場。

 朝まで泣く代わりに、代行夢へ泣かせる小部屋。

 道の両側へ、紙の看板が重なる。

『五分の勇気』

『初恋のやり直し』

『空を飛ぶ夢、転落なし』

『母の声に似た声。本人ではありません』

 最後の一行だけ、白い縁で囲まれている。

 鏡砂環から導入された表示法だ。

 幻であることを示す白縁〈ステージ・エッジ〉

「表示がある」とカイル。

「あるから安全とは限らない」とエリア。

「でも、ないよりいい」

「ええ。問題は、今回の夢にないこと」

 通りの角で、一人の男が配信灯の高さを測っていた。

 薄茶の髪を黒い眠り帽の下へ収めた、細長い男だった。左右の袖丈が違い、左だけ手首を隠すほど長い。細縁の眼鏡と灰色の保守手袋。

 指先に、夢紙を削った細かな灰。

「夢灯網予測整備官、ベレト・カームです」

 男は、自分から名乗った。

「皆さんが市民へ話す前に、表現を協議したい」

「表現?」エリア。

「『夢は確定未来ではない』という発言は、避難率を下げる恐れがあります」

「確定未来なの?」

「現時点で断定できません」

「なら、断定できないと書く」

「市民は不確実さを、危険なしと誤読する」

「危険ありを、確定と誤読させる方は?」

「避難行動が増えます」

「正しい避難先なら」

「危機時に、完全に正しい場所はありません」

「そこだけは同意する」

 ベレトは眼鏡へ流れる小さな数字を見る。

「外部救援者の発言は、灯網へ即時反映されます。予測値が変動すれば、移動制限も更新される」

「私たちの言葉まで入力?」カイル。

「市民行動へ影響する情報は、すべて」

「じゃ、黙れば予測されない?」ハルのいない場所で、ロロが代わりに聞く。

「沈黙も行動です」

「便利だな。何をしても計算できたことにできる」

「計算不能は危険として扱います」

「できないのは機械なのに、危険なのは人間?」

 ベレトは怒らない。

「機械は責任を取りません。人間が取る」

「誰が」エリア。

「最終校閲者が」

「あなた?」

「今夜は」

 白い手袋が、空へ浮かぶ夢像を一度拡大した。

 刃を持つ左手。

「この像には、公開前の医療情報や個人記録は含まれていない?」セレナ。

「匿名化された統計以外は使用規約外です」

「含まれていない、ではなく規約外」

「同じ意味です」

「規則と事実は同じではない」

「監査記録は提出します」

 言葉が滑らかすぎた。

 何度も同じ質問を受け、同じ場所へ返すために磨かれた回答。

 エリアは、彼の右手袋の親指へ灰が多いことを見た。

 夢紙を消す時、人は親指で削り粉を払う。

 ただし、危機校閲者なら日常的につく灰である。

 不自然ではない。

 不自然でないものほど、後から見れば手掛かりに見えやすい。

 だから今は、記録だけする。

「予測確率を表示して」とエリア。

「市民向けには単純化しています」

「数字を」

「確率は、公開した瞬間に変化する」

「変化前と変化後を両方」

「誤差が大きい」

「誤差も」

 ベレトは一拍置いた。

「危機局の正式審査で回答します」

 拒否を、手続へ言い換えた。

 役人の言葉は、扉を閉める時ほど丁寧になる。

「それまで、夢像の下に『確率非公開』と書いて」

「不安を増やします」

「隠している事実は消えない」

「表示しない事実は、市民行動へ影響しない」

 エリアは彼を見る。

「それを、地図を作る人が言ったら危険だと思わない?」

 ベレトは答えず、別の灯籠へ指示を出した。

 夢像が、街で最も見やすい高さへ上がる。

 見えない数字を残したまま。

 通りの中央に、巨大な配信灯が浮かんでいた。

 白い階段。

 橙の灯籠。

 エリア。

 赤いマフラー。

 刃。

 夢の映像が、繰り返されている。

 顔は映らない。

 刃を持つ左手。

 風に翻る赤い布。

 エリアが「ハル」と呼ぶ声。

 その三点で、配信灯の下には大書されていた。

『予測犯行者 凪野ハル』

 確率表示はない。

 映像の出典もない。

 編集箇所もない。

 ただ「明日」とだけある。

 市民は灯籠を見上げる。

 見上げながら、エリアへ道を空けた。

 道を空けることは、親切にも隔離にもなる。

「刺される人だ」

 子供の声。

 母親が口を塞ぐ。

「言っちゃだめ」

「まだ刺されてないのに?」

「だから」

「刺されたら言っていい?」

 エリアは足を止めた。

 母親が青ざめる。

「申し訳ありません、公女殿下」

「私は公女では」

 言いかけて、ユノのことを思い出す。

 役割の呼称は、本人と制度の距離を変える。

「ルーンベルグ公爵令嬢です。けれど今は、調査参加者エリアで」

 子供へ目線を下げる。

「まだ刺されていません」

「明日は?」

「分かりません」

「夢で見たよ」

「見たものが嘘だとは言いません。でも、見たものの意味は、まだ決まっていません」

「意味って後から決まるの?」

「道と同じ。歩いた人で変わります」

「じゃ、ぼくが違う道を歩いたら、お姉さん刺されない?」

 エリアは一瞬、答えを失う。

 子供一人へ未来の責任を渡してはいけない。

「あなたがどの道を歩いても、私を守る義務はありません」

「じゃ誰が守るの」

「私も守ります。仲間も。町も。でも、あなたは自分が帰れる道を選んで」

 母親が泣きそうな顔で頭を下げる。

 エリアは会釈だけ返し、歩き出す。

 歩幅が半歩、大きい。

「好奇心?」カイル。

「苛立ち」

「台帳にないな」

「人間は台帳の欄数より多いの」

「セレナに聞かせたい」

「聞いています」

 後ろから乾いた声。

「引用許可を」

「却下」