第508話 第二章「夢と同じ街」後編

 夢の白い階段は、実在した。

 ただし、白くなかった。

 灯籠街の中央、夢灯網の配信塔と統合診療所を結ぶ百八段の石段。

 もとの色は青灰。

 長い年月、紙灯籠の煤と足裏の油で黒ずんでいる。

「夢と違う」とカイル。

「現在は」とエリア。

 階段の下で、作業員が白い塗料缶を開けていた。

「何をしているの」

「危機局命令です」

 作業員は答える。

「血液と足跡を見つけやすくするため、夜明け色へ塗り替えます」

 白い刷毛が、一段目を塗る。

 夢へ近づく。

 エリアは路図を一層展開した。

 現在。

 青灰の階段。

 橙灯籠は左右不均等。

 診療所入口は北。

 保安詰所は南。

 二層目。

 夢像。

 白い階段。

 橙灯籠、左右各七。

 エリアは上から七段。

 ハルは下から十二段。

 三層目。

 改修予定。

 白塗装。

 灯籠を左右十四基へ再配置。

 保安員を下から十二段に三名。

 被害対象を上から七段の保護室へ。

 三枚が重なる。

 一致する。

「止めて」

 エリアの声が低くなる。

 作業員は刷毛を止める。

 ユーディが紙面を広げた。

「見通しを確保するためです」

「夢の配置を作っています」

「夢に似ているから危険なのではなく、夢で危険とされた場所だから対策しています」

「その対策が夢に似ている」

「必要な安全措置が偶然一致した可能性は」

「十四基の灯籠、十二段目の警備、七段目の保護室。偶然を数える前に、指示の作成時刻を出して」

「予測後です」

「では未来が対策を予言したのでなく、対策が未来を模倣しています」

「模倣ではありません。回避です」

「同じ形へ近づく回避を、回避と呼ぶ根拠は?」

「夢では警備が不足している」

「映っていないだけ」

「白い階段なら刃を見つけやすい」

「白く塗る作業員、塗料の搬入、乾燥までの通行止めで人流が変わる」

「灯籠を増やせば死角が減る」

「灯籠の支柱が新しい遮蔽物になる」

「あなたを保護室へ移す」

「夢で私が立つ場所へ?」

 ユーディの指が紙面を叩く。

 一度。

 二度。

 三度。

「最も堅固な部屋です」

「最も安全な場所が、夢と同じ場所なら」

 エリアは地図針を抜く。

 踵に一。

 痛みではなく、警告。

「安全が夢へ寄ったのか。夢が安全の設計を使ったのか。まだ分かりません」

「だからこそ、保護を」

「私はゼロスター号へ戻る」カイルが提案する。

 エリアは首を振った。

「それが最短です」と彼。

「誰にとって」

「お前にとって」

「診療所の患者が移されます」

 階段上の保護室は、統合診療所の覚醒後リハビリ室だった。

 エリアを置くため、患者十二人を別棟へ移す予定。

 別棟は出口が一つ。

 夢療から戻った患者の中には、閉じた廊下で解離を起こす者がいる。

「患者を動かさず、私が同じ建物へ入ります」

「夢の場所へ自分から行くの?」カイル。

「私だけ船へ戻れば、危険を別の人へ移す」

「でも、夢はお前を」

「夢が私を選んだ理由は、まだ不明です。私が自分を選ばれた人として扱えば、予測の役を受け入れることになる」

「言葉が回ってる」とロロ。

「役に入らないため、役の場所へ入る?」

「患者を追い出さないために入る。理由が違う」

「結果は同じ」

「だから記録する」セレナ。

「結果だけでなく、理由と拒否した選択も」

 カイルは右籠手を二度叩かない。

 衝動で止めたい。

 だが命令しない。

「俺は反対だ」

「分かってる」

「反対に従えとは言わない」

「それも分かってる」

「分かってるが多いな」

「幼なじみは、説明を省く制度ではありません」

「じゃ説明を増やす。俺は、お前が夢の場所へ入るのが怖い」

 具体的な食べ物ではない。

 冗談でもない。

 エリアの顎が少し下がる。

「私も怖い」

 言った。

 肺の弱さより、踵の痛みより、先に。

「その上で、患者を移さない」

「護衛は」

「本人が選べる距離で」

「俺」

「王太子を保護室へ置けば、制度が別の形で歪む」

「便利な身分だな。入れない場所が増える」

「外側で役に立って」

「具体的に」

「危機局が王家の圧力を理由に情報を隠さないよう、命令を出さずに公開請求を支えて」

「難易度高いな」

「王子でしょう」

「こういう時だけ使う」

「こういう時のために持っている役よ」

 統合診療所の入口で、四角い眼鏡の女が待っていた。

 黒い顎線ボブ。

 前髪の中央に白い筋。

 生成りの診療上着。

 腰には医療器具ではなく、小鍋と分厚い帳簿。

「メイ・カフ」

 自己紹介より先に、エリアの顔色を見る。

「昨夜、何時間寝た」

「三時間半」

「嘘」

「二時間四十分」

「最初から数字で」

「あなたは医師?」

「身体医。夢の意味は診ない。睡眠、食事、排泄、呼吸、住居は診る」

「私は患者では」

「今夜眠れなかった人は、診療対象になりうる。患者になるかは選べる」

 メイは窓枠を指でなぞる。

 紙粉。

 黴はない。

「保護室は使える。ただし患者を移さない。あなたも閉じ込めない。費用は危機局へ請求」

「いくら」

「先に聞くのは良い」

「公共予算です」

「患者の費用を後で善意にする役人よりいい」

 その横で、薄青の上着を着た人物が椅子を少し出口へ向け直した。

 暗い梅色の髪。

 細い杖。

 胸札には『退出可』。

「アサ・ノーン」

 返事まで長い間がある。

 誰も埋めない。

「非常時の市民保安連絡員。普段は、患者同伴と影絵」

「保安員?」カイル。

「武器は持たない。出口、呼称、触れていい相手を確認する」

「保安って、守る側?」

「守られる側が、どう守られたくないかを伝える側」

「それ、役所が一番聞かないやつだ」ロロ。

 アサは鼻から短く笑う。

「だから非常時だけ雇われる。平時は予算がない」

 メイの帳簿の頁が速くめくられる。

「その言い方、今月の請求へ載せる」

「載せて」

 アサはエリアを見る。

「昔の名で呼ばない。夢で見た役を本人だと思わない。触れる前に聞く。部屋を出たい時は、この札を返す」

 退出札を渡す。

「あなた自身は、いつ出るの」エリア。

「まだ決めない」

「勤務期限」

「明日の予測時刻まで、と危機局は言った」

「あなたは」

「一時間ごとに選び直す」

 エリアは札を受け取った。

 夢では、彼女の手に何もなかった。

 現実では、退出できると書かれた紙を持っている。

 小さな違い。

 未来を変えるには小さすぎるように見える違いほど、予測には扱いにくい。

 夕刻のない町で、灯籠が一段暗くなった。

 夢灯都市の「夜半」を示す色。

 階段の三十六段目まで、白く塗り終わっている。

 橙の灯籠が、左右へ七基ずつ移された。

 作業員は安全のため、夢の配置を完成させている。

 エリアは保護室の窓から見る。

 地図の三層が、少しずつ重なる。

 現在。

 対策。

 夢。

 最短回避路を描けば、もっと早く重なる。

 だから彼女は、地図へ線を引かなかった。

 線を引かないことが、中立とは限らない。

 迷った人は、既に太く描かれた案内へ従う。

 保護室へ入る前に、エリアは十二人の患者へ挨拶した。

 移動させないと決めたからといって、同じ建物へ危険予測対象が入ることを、黙って受け入れさせてよいわけではない。

 覚醒後リハビリ室。

 窓際に、夢の中で三十年暮らし、現実では三か月しか経っていなかった老人。

 床へ色の違う布を並べ、段差を覚え直している少女。

 眠ると母国語しか話せなくなり、起きるたび通訳札を探す商人。

 目を閉じると身体が天井へあると感じる船員。

 夢から帰るとは、目を開けることではない。

 重さ、時間、名前、家族、自分の足がどこにあるかを、生活へ一つずつ接続し直すことだった。

「私の予測のため、この棟へ保安員が増えます」とエリア。

 老人が布の上で足を止める。

「武器は」

「外廊下。室内へ持ち込ませません」

「扉は閉まる?」

「閉めません。あなた方が個別に閉めたい時だけ」

「灯籠が増えると眠れない」と少女。

「照度を下げます」

「暗いと怖い人もいる」商人。

「一律には変えません。寝台ごとに」

 メイが帳簿を開く。

「言った条件は、危機局へ費用をつける。保安追加で患者負担を増やさない」

「お金で解決?」少女。

「お金で解決できる部分を善意で踏み倒さない」とメイ。

「できない部分は」

「本人に聞く」

 エリアは少女の布を見る。

 赤、青、黄。

「これは道?」

「赤は床。青は壁。黄は、分からない」

「地図と逆ね」

「地図は上から見る。私は上から見られない」

 少女は、天井を指す。

「夢の私が、まだ上にいるから」

 エリアは地図筒を閉じた。

「では、上からの図を出しません。あなたの足から見た部屋を教えて」

 一歩。

 少女が赤布へ足を置く。

「ここが床」

 二歩。

「ここも」

 青布の前で止まる。

「ここは壁」

「実際には?」ハルが言いかける。

 エリアが視線で止める。

 実際の壁は、さらに二歩先。

 しかし少女の身体にとって、今の壁はここである。

「地図へ二つ書ける?」少女。

「物理壁と、現在の壁」

「どっちが本当」

「どちらも。使う目的が違う」

 少女が笑う。

「夢と同じ」

 エリアは返事を急がない。

 夢も、嘘ではないことがある。

 だから証拠にしにくい。

 本人にとって本物の恐怖と、現実で起きた行為を同じ箱へ入れてはいけない。

 アサが保護室の家具を確認する。

 寝台。

 窓。

 水。

 非常灯。

 出口。

「椅子をもう一つ」とエリア。

「誰用」

「見張り」

「外に置く」

「室内へ一人は必要と言われています」

「あなたが選ぶ」

「選べる候補は」

「武装保安員、非武装連絡員、夢療師、誰も置かない」

「誰も、で」

「危機局が認めない」

「では、扉の外へ非武装連絡員。窓越しに見える。入る時は聞く」

「あなた?」

「交代制。私は最初の一刻」

「身体」

「杖あり。起立は短時間」

「嫌になったら」

 アサは胸の札を示す。

「退出可」

 エリアも、渡された退出札を自分のケープへ留める。

「私も」

「被害対象が退出していいの」とユーディ。

「保護が本人を閉じ込めるなら、保護ではない」

「刺される危険より」

「比較はします。権利を消してから比較しない」

 メイが窓の外へ小鍋を置く。

「スープ」

「今?」

「危険予測対象も腹は減る」

「味」

「豆、根菜、塩」

「夢がない」

「夢の町だから、現実を食べる」

 エリアは一口飲む。

 温かい。

 夢の中にはなかった温度。

 彼女は地図の余白へ書く。

『保護室。出口一。窓二。患者十二。スープ温。本人退出可。』

 場所を描く前に、生活条件を描いた。

 危機局の伝声灯が街中で開いた。

『被害予測対象エリア・ルーンベルグは、中央統合診療所・朝待ち階段上部へ移動しました』

「位置を非公開にする話は」とエリア。

 アサが扉の開閉音を一度確かめる。

「危機局は、公開した方が市民の安心になると」

「私の安全ではなく」

「市民の安心」

 夢と同じ場所へ被害者を置いたことを、都市全体へ知らせた。

 階段下で、人々が顔を上げる。

 橙色の灯籠が、また一つ、指定位置へ移された。

 夢の街は未来から来たのではない。

 少なくとも、その一段は、人間の手で今夜塗られた。