第509話 第三章「犯人として眠る少年」前編
人を閉じ込める部屋は、鍵の形より、時間の形で決まる。
いつ出られるか分からない部屋。
何をすれば出られるか他人しか知らない部屋。
出る条件が、自分の行動ではなく、自分についての予測で決まる部屋。
壁が紙でも、寝台が柔らかくても、それは檻である。
ただし、檻に入れられた者が必ず無実とは限らない。
檻を批判することと、危険を否定することも同じではない。
夢灯都市が作った予防静置室は、その区別を丁寧に説明するために設計されていた。
説明が丁寧なら、拘束される身体が自由になるわけではない。
ハルは四度目の夢で、刃を落とした。
落としたはずだった。
白い柄が左手から離れ、階段へ当たる。
軽い音。
跳ねる。
七段下へ転がる。
それでも次の瞬間、刃は手へ戻っていた。
夢には失敗がない。
筋書きへ不要な失敗は、起きなかったことにされる。
「ハル」
エリアが振り返る。
刃が進む。
「待って」
夢の中で、自分の声が出ない。
「違う」
口は動く。
音だけがない。
夢には紙の擦れる音がある。
鐘がある。
靴音がある。
エリアの声がある。
自分の声だけがない。
その代わり、遠くで男の声がした。
『帰る』
ハルは振り向く。
父ではない。
声の輪郭だけが似ている。
記憶が足りない場所へ、夢が適当な人間を立たせたような声。
今度の時計は六時三十一分。
針が逆に回る。
エリアの影が倒れる。
刃の手。
掌の傷。
左。
ハルは右手で、その手首を掴んだ。
夢の中に、自分の右手が増えた。
左手の持ち主が振り返る。
顔はない。
赤いマフラーだけが、首のない空間へ巻かれていた。
「起きて」
声は、一拍遅れて届いた。
ハルは目を開ける。
天井の橙灯。
出口へ向けた椅子。
紙の壁。
左手を確認する。
刃はない。
掌の傷もない。
右手は、左手首を強く掴んでいた。
「自分で止めた?」
ソムナが寝台の横にいる。
袖の紙札が静かに鳴る。
「夢の中では」
「現実では、左手首を掴んでいた」
「成功?」
「目的が分からないから、成功とは言わない」
「案内人、厳しい」
「先生じゃないから」
「先生なら甘い?」
「先生なら採点すると思ってる?」
「学校の先生は」
「ここは学校じゃない」
「檻」
ソムナは否定しなかった。
「うん」
短い肯定。
「僕が提案した檻」
「そこで言い換えないんだ」
「予防静置室、と呼べば身体が楽になる?」
「ならない」
「じゃ、檻でいい」
ソムナは丸い折畳眼鏡をかけ、記録札へ細字を書く。
近くが見えにくい。
筆先へ顔を寄せる。
「四回目。入眠まで十八分。浅い覚醒二回。左手首の自己把持。発汗。呼吸――」
「犯行自白なし」
「夢の内容を自白欄へ書かない」
「自白欄ある?」
「危機局の用紙には」
「書かない?」
「破った」
床の屑籠に、二つに裂かれた紙がある。
紙札を折らず破るのは、ソムナの怒りだった。
「怒ってる?」
「夢の内容を、自分の意思で話した言葉と同じ欄へ入れたから」
「俺が夢で刺したって言ったら」
「あなたが、夢で刺した像を見たと書く」
「同じじゃない?」
「主語が違う」
「言葉一個」
「人一人」
扉の外で、メイの声がした。
「入る。触診なし。食事あり」
「どうぞ」
鍵が開く。
四角い眼鏡。
小鍋。
帳簿。
メイは挨拶より先に窓枠を指でなぞった。
「紙粉、増えた。換気」
格子を二段開く。
冷たい常夜の空気。
紙灯籠の糊。
遠い屋台の焼き豆。
湿った石。
匂いが入る。
ハルは深く吸った。
「夢に、ない」
「夢の診断はソムナ」
「匂いの有無は身体の話でもある」ソムナ。
「では鼻腔。詰まりなし。現実の匂い識別あり」
メイは鍋を置く。
豆と根菜の濃いスープ。
湯気は少ない。
「食べて」
「取り調べ?」
「低血糖予防」
「犯人へ親切」
「患者候補へ食事。犯人かは私の診療項目にない」
「食べたら自白するかも」
「空腹の自白は証拠価値が低い」と扉の外からセレナ。
「ずっといる?」
「開閉記録担当です」
「夢の中にも来てた」
「私は夢を見ました。夢の私は、現在の私ではありません」
「その分類、便利?」
「不便です。だから必要です」
ハルはスープを一口飲む。
塩が薄い。
根菜は硬い。
豆が一つ、舌へ残る。
夢には味もなかった。
「昨夜、何時間寝た」とメイ。
「今の四回を足す?」
「眠りは回数でなく時間」
「合計二時間弱」ソムナ。
「食事」
「昨日の夜に焼き苺を半分」
「誰の」
「カイルの」
「盗んだ?」
「分けた」
「本人同意」
「寝てた」
「盗んだ」セレナ。
「王家財産では」とハル。
「私費購入です」
「じゃカイル財産」
「盗んだ」
「三人で言わなくていい」
メイは帳簿をめくる。
速度が上がる。
「夢で殺す前に、現実で自分を削っている。食事、睡眠、肩。全部、他人へ説明する前に安い代償として出す」
「夢の話してない」
「身体の話」
「刺さる」
「刃物なしで刺さるなら、言葉の位置は合っている」
「比喩、禁止じゃ?」
「今のは位置の説明」
「医者、ずるい」
面会格子の向こうへ、エリアが来た。
保護室からの遠隔像。
本人は朝待ち階段の上にいる。
像の縁には白線がある。
現実の本人ではなく、通信像だと表示するため。
「寝た?」
「四回」
「時間」
「みんなメイ化してる」
「二時間弱です」とソムナ。
「あなたに聞いたの」
「俺に聞くと数字が丸くなる」
「丸めないで」
「一時間五十三分」
「食事」
「今」
「肩」
「一」
「夢」
「また刺した」
エリアの像が静止したように見える。
通信遅延ではない。
呼吸を一つ止めた。
「俺、君を刺すと思う?」
「思わない」
「早い」
「あなたが未来に何をするか、私は断言できない」
「じゃ今のは」
「現時点の判断。あなたは私を刺す理由も準備もない。夢は証拠ではない。だから思わない」
「信じる、じゃなく?」
「信じると言えば、証拠が出ても見ない人に聞こえる」
「俺、信じてほしかったのかも」
「分けて。あなたを信頼している。夢を根拠に無罪だとも、有罪だとも言わない」
「難しい」
「簡単にすると、どこかが嘘になる」
ハルはスープを見た。
「もし、明日になって、本当に俺が」
言葉が続かない。
恐怖が強いほど冗談が増える。
今は冗談も出ない。
「一」
ハルは数える。
「二」
三を言えない。
助けを求める時だけ。
エリアは急かさない。
ソムナも。
メイも。
セレナも。
沈黙が同意にならないよう、ただ待つ。
「手伝って」
ハルは言った。
「具体的に」とエリア。
「俺が夢と同じことをしそうになったら、止めて。でも、最初から犯人としてじゃなく、今の俺を見て」
「了解」
「約束?」
「役割分担」
「逃げた」
「期限と撤回条件を決めます。あなたが私へ近づく時は声をかける。刃物を持つなら持ち方を申告。私は不安を隠さない。危険が現実の行動になったら、理由にかかわらず止める」
「細かい」
「止め方が雑だと、あなたの肩がまた外れる」
「そこ?」
「そこも」
格子越しに、二人の手が同じ高さへ上がる。
触れない。
通信像だから、触れられない。
「夢の手、左だった」とハル。
「あなたは右利き」
「ロープなら左も使う」
「刃物は」
「包丁、右。カイルの苺を切った時も」
「盗品調理記録を増やさないで」セレナ。
「分けてもらった」
「本人は寝ていました」
「起きた後、怒ってなかった」
「事後同意です」
「夢の話に戻して」エリア。
ハルは左手を格子へ向ける。
「夢の掌に傷がある。親指の付け根から斜め」
「あなたにはない」
「鏡だったら、右手の傷が左に見える?」
「夢像の視点による」
「誰かの手だったら」
「赤いマフラーとあなたの声だけ、別の情報から重ねられた可能性」
「夢って合成できる?」
「夢灯都市です」とソムナ。
「できる顔」
「できる。でも、存在しない感覚は作りにくい。断片をつなぐだけ」
「傷も断片?」
「誰かが実際に見たか、記録した像なら」
「誰の」
「今は分からない」
エリアの地図針が一度抜かれ、差し直される。
「鏡像説。別人視点説。合成説。三つ」
「四つ目」とハル。
「何」
「俺が知らないうちに傷を作る」
「未来に?」
「明日までに」
「その可能性もゼロではない」
エリアは否定しなかった。
信頼は、怖い可能性を消す魔法ではない。
怖い可能性を、相手と同じ卓へ置く技術である。